月華抄-月隠- 4−2
 目次 



 門のところまで来たが誰もいない。
 徐々に薄暗くなっていく玄翔邸の敷地内で、桔梗は辺りを見回した。誰の姿もなく、しんと静まり返っている。
 忍はまだ仲間と一緒なのだろうか。普段から口数が多いとは言えない忍だが、今日は話が弾んでいるのだろうか。
 桔梗は訝しみ、彼が仲間といるであろう随身所ずいじんどころへと足を向けかけて止めた。そのまま門の外に出る。思ったとおり、少し離れた場所に忍がいた。
 だが彼はひとりではなかった。
 忍よりもずっと背の低い人影が側に佇んでいる。誰なのか、ここからは確認できない。
「え……」
 その姿を目視できる距離まで近づいて驚きの声をあげる。
「玻璃?」
 予想外の者がそこにいた。
「……桔梗様」
 明らかにほっとした声音で忍が言う。彼の表情から珍しく戸惑いが感じられた。
「ごめん。待たせたね」
「いえ、外に出てからさほど時間は経っていませんので」
「それで……玻璃? どうしたの? お前が出歩くなんて」
 玻璃が邸から出ることは滅多にない。
 着の身着のまま出てきた、という感じで、彼女は何も持っていない。瑠璃に用事を頼まれた様子もなかった。これから市井に行く途中だとしても、玄翔邸とは逆方向だ。
 玻璃は幾らか不思議そうな顔で桔梗を見ると、首をかしげる仕草をした。
「誰かに呼ばれた気がしまして。桔梗様ではないようですね」
 そう言って玻璃は黙りこんだ。己の勘違いを恥じた訳ではなく、彼女はいつもこうなのだ。思ったことは口にするが、必要最低限しか話さない。
 それ以上話す様子がないので、桔梗は困り顔で玻璃に問うた。
「特に用事はないんだね? じゃあ、帰ろうか」
 訊ねながら何か探れないものかと玻璃をじっと見る。
「はい」
 頷く玻璃の顔からは、やはり何の感情も読み取れなかった。
 遠くで烏が鳴いた。
 いつまでもここでこうしている訳にはいかない。
 桔梗は諦めてふたりを促した。桔梗と忍が横に並び、玻璃はその後に着いていく。
 大路へ出たが、辺りには人影も少なく、三人の足音のみが聞こえる。昼間耳にした幽霊騒ぎの件で、夕方以降に出歩く者も少ないようだ。
 桔梗は後ろをちらりと振り返り、今度は忍に質問する。
「どういうことなの?」
 忍は困惑した表情のまま口を開いた。
「私にも不明です。桔梗様が戻られる頃合いを見計らって外へ出ましたら、彼女がぼんやりした様子で立っていまして」
 一度戻ろうかと思ったが、玻璃をそのまま放っておく訳にはいかず、一緒にいたのだという。
 桔梗もまた眉をひそめて唸った。
「そっか。話してくれないんじゃ、判断できないし……」
 どうして呼ばれた気がしたのか、呼んだ人物に心当たりはないのか、など――玻璃とはごく最低限の会話しかできないので、想像するしかない。
「もしかして物の怪の類かな……。大路に幽霊が出たって話だけど」
 市井の噂話が引っかかり、何とはなしに呟く。
 それに反応したのは忍だった。玻璃にも聞こえているはずなのだが、黙ってふたりの後をついていく。
「件の噂は聞きましたか?」
「うん市井でね。忍は誰から聞いたの?」
「今日、玄翔様から。たいそう興味を持たれているようでした」
 言葉を濁しているが、玄翔の様子が目に浮かぶ。
 桔梗は次の言葉を待った。
「そうなんですかと答えましたら、つまらん、と……もっと驚いてほしかったようですね」
 嬉々とした玄翔と、素っ気ない忍。予想通りのやりとりで、桔梗は苦笑いをする。
『つまらん』は玄翔の口癖だ。兄弟子の中には時折それは不謹慎だと窘める者もいるのだが、当人は『わしは老い先短いのだから楽しませよ』とそれらを突っぱねている。
 困った老人ではあるが、いざというときには誰よりも早く凶事に気がつき、今の都で最も頼りになるひとだろう。多少の問題点は目を瞑るべきなのかもしれない。
 桔梗が嘆息する。
「それはお師匠様が悪い。影明やわたしなら食指が動いただろうけど」
 陰陽道に少なからず関わっている人間であれば惹かれる事柄である。しかし、関係のない分野の者が興味を持つことはなかなかない。
「いえ。玄翔様のお世話になり、今は桔梗様の側にいるのですから、やはり少しは気にしなければならないでしょうね。あまり重要視していませんでしたが、刀で妖を斬るのは難しいですし」
「どうしても関わってしまうからね」
 頷いて、桔梗は思案顔をする。
「対処法くらいはいくつか知っておいた方がいいかもしれない。……と言っても、わたしはまだ教えられるほど知識はないから、お師匠様か兄弟子の誰かに聞いてもらうしかないけれど」
 桔梗の声が僅かに小さくなる。それに気づいた忍は真顔になり、静かに訊ねた。
「本日の修行の成果はいかがでしたか?」
 桔梗は力なく項垂れた。
 相手に他意はないのだが、頭上から降ってくる言葉に責められているような気持ちになってしまう。
 しばらくしてから、ふぅと息を吐く。
「やっぱり体調が優れなくって。ほとんど進まなかった」
 弱々しい告白を受けた忍は怪訝そうに桔梗を見る。
「いずれ聞こうと思っていたのですが……元々身体は弱かったですか? 玄翔様のお邸で、あなたが臥せっていた記憶はありませんが、私の勘違いだったのかと考えていました」
 弱くはない、と桔梗は首を横に振って否定する。
「どちらかというと、強いと思う。雨にずぶ濡れになっても平気だから。……自分が思っている以上に疲れているんじゃないかな」
 環境が変わり新しい生活に慣れる頃。それまで張っていた気が緩んだときに人は体調を崩しやすい。
 きっと自分もそうなのだろう、と桔梗は考えた。
 歩きながら己の手に視線を落とし、指を無造作に動かす。
 早朝や玄翔邸で感じた不調は、もうすっかり良くなっている。冷えきっていた指先にも血がかよい、体内を良い気が巡っているのがわかった。
 念入りに確かめるように、桔梗は指を動かし続けた。あの体調不良はなんだったのか、と誰かに八つ当たりしたいくらい、けろりと治っている。
「……疲れているのではなくて、物の怪に憑かれてたりして」
 ぼそりと呟かれた言葉に、弾かれたように振り仰いだ。
 忍が何を言っているのかわからず、桔梗は一瞬言葉に詰まらせる。内容を理解して、眉をひそめた。
「……笑えないよそれ」
「そうですか?」
 とぼけた様子の忍は、だがしかし少々不服そうだ。目を細めて何か言いたげな顔だ。
 おそらく、彼なりの冗談だったのだろう。
 桔梗はふっと口元を緩めた。
「……桔梗様」
「えっ?」
 不意に背後から声をかけられて肩を揺らした。
 声の主は玻璃だ。肩越しに振り返ると、彼女は相変わらず無表情だったが、心なしか顔を強張らせている。
「玻璃、どうし――」
 言いかけた桔梗は口を噤んだ。
 まもなく邸に着く。
 玄翔邸からここまで距離があるため、すでに陽は沈み、夜が訪れている。辺りに人はおらず、いつもの風景がそこにあった。
 ――はずなのだが。
 瞬きも忘れて桔梗は目を見開いた。
 見た目には変化はない。だが、ほんの少し、空気がさざめいている。
 しばしの沈黙のあと、忍が数歩前に出た。彼も何かに気づいたようだ。
 忍の身体越しに前方を見やると、邸の門が開いていた。
 出るときにはきちんと閉めているし、玻璃がぼんやりとしていたとしても、閉め忘れることはないように思える。仕事の報酬代わりに門の建て付けを直してもらっているので、勝手に開くとも考えられない。
 何かあったことは一目瞭然だ。
 一足先に入っていった忍に続いて邸へと足を踏み入れた桔梗は、無意識にうめき声をもらした。
「な……に……?」
 御簾が破れ、屏風は倒れ、床には草鞋の跡が残っている。まるで、ここへ移り住んでくる前のように邸の中が乱れていた。あらかた片付いてはいるが、壊れた物はそのままだ。
 寝殿に近い渡殿に忍が立っていた。瑠璃の姿も見える。
「まぁ桔梗様。お帰りなさいませ」
「瑠璃、何があったの?」
 いつもと変わらぬ瑠璃の笑顔にほっとしつつ、桔梗が問いかけた。
「ほんの数刻前なのですが」
 眉をひそめて話しはじめた瑠璃は、困ったように苦笑した。ちらりと辺りを見回してから、まっすぐ桔梗の顔を見る。
「突然見知らぬ男が侵入してきました。もしかしたら、以前住みついていた賊かもしれません」
 瑠璃は右手を頬にあてて、ほう、とため息をつく。
「何も盗らずに逃げていきましたが……」
 一度言葉を切り、瑠璃はすっと左腕を前に出した。
 桔梗は一点を凝視してぎょっとする。立ち回りには慣れているはずの忍も、少し衝撃を受けたようだ。
 袖が刀で切り裂かれたようになっており、かろうじて一部分が繋がっている状態だった。だが驚いたのはそこではない。
 瑠璃の左腕。肘から先がなかった。
「切りつけられて、すっぱりいってしまいましたわ。賊も驚いて逃げていきました」
 と、瑠璃は周囲の人間があっけにとられるほど平然として笑う。切り口は石を真っ二つに切ったかのように滑らかだ。
「他に問題は?」
 思わずたじろいだ桔梗を我に返らせたのは、冷静な忍の声だった。
「えぇと……」
 呟き、瑠璃が考える仕草をする。
「ないですわ。ご覧のとおり東対は少々壊されてしまいましたが、他の場所は大丈夫です。その前に切られてしまいましたので」
 瑠璃は真顔で囁いた。
「桔梗様にお怪我がなくてよかったですわ。わたくしか玻璃でしたら、大概のことは平気ですから」
「それでも、身近なひとが怪我をするのは嫌だよ」
 ぽつりと呟くと、瑠璃は桔梗に優しく微笑みかけた。
「わたくしたちは主人を守るために作られ存在しているのです。桔梗様が心を痛める必要はありません」
 作られた≠ニ瑠璃が言うように、彼女と玻璃は人間ではない。
 瑠璃は桔梗と玄翔が、玻璃は桔梗ひとりで生み出した式神である。術者が未熟なためか、ひとりで試した玻璃≠ヘ少々反応が乏しい。
 ふたりは桔梗の身の回りの世話をし、あるときは姉のように、またあるときは友人のように接している。
「人ではなくても、ふたりはわたしの大事な家族だ」
 はっきり言い切ると、笑みを深くした瑠璃はそっと桔梗に歩み寄った。
「そんな風に仰っていただけて瑠璃はとても嬉しいです。桔梗様は何よりも大切な、大切なお方ですわ」
 強調されるといささか気恥ずかしい。
 桔梗は照れているのを誤魔化すように視線を外した。
「――桔梗様。瑠璃の腕ありました」
 話している間に探していたらしい。玻璃が声をかけてきた。無機質な瑠璃の腕を両手に抱えている。
「ありがとう。瑠璃の腕、直さないとね」
「お願いします。このままでは不便で」
 ひらり、と瑠璃は左手を振るように動かす。
 しんみりとしていた雰囲気が一転した。
 腕がないまま、あまり気にもせず、くすくすと笑う光景は、はっきり言って不気味だ。
 そう思った桔梗を誰が責められようか。



 目次 


Copyright(c) 2012 葉月/たまゆらぎ All rights reserved.