月華抄-月隠- 5−2
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 軽い音を立てながら、桔梗は引き戸を閉めた。
「んじゃ、帰るか」
 先に外に出ていた影明と並んで歩き出す。時折、左右に並ぶ物売りを冷やかしながら見ていく。
 一日のうち太陽が最も高く昇る頃、ふたりは市井へと足を運んだ。
 昨晩話したように、桔梗邸の塗籠にしまわれていた様々な物を一通り確認してから、ふたりは鬼の営むよろず屋へとやってきた。塗籠から出てきた物品を引き取ってくれないかと持ちかけるためだ。
 店主に快く了承してもらい、詳細は後日ということになり、桔梗たちは早々に小路を戻っていく。
 まだ片付けは終わっていないのだ。日が暮れる前にもう少し進めておきたかった。
「なかなか面白いもんだな」
 興味深そうに辺りを見回していた影明が言った。
「うん。洛外からも行商が来るから、珍しい物もよくあるよ」
 落ち着かない様子の影明に、桔梗は微笑んだ。
 初めて市井へ来たときは自分も同じだったと思い出したのだ。玄翔の邸にも珍しい物は多々あったが、呪術の書や吉凶を判断するときに使用する式盤など、大抵が陰陽道関係だったので、心が踊るほどではなかった。
 加えて、活気溢れる雰囲気が楽しい気持ちにさせるのだろう。最初は驚いたものの、今はこの喧騒がとても心地よく感じる。
 玄翔邸は常に緩やかな時間が過ぎていた。
 宮廷に出仕する者――特に陰陽師には冷静な判断力を求められる。邸内で騒ぎたてるのはご法度だった。
 だがそれは活発な子供には少々酷であった。影明いわく「息が詰まりそう」な場所というのもわかる気はする。
「このまま帰るのはちょっともったいない気がするけど、片付け終わらないと困るからな」
「また来ればいいよ、合間を見つけて。息抜きも必要でしょう?」
 夜は自身の邸に帰っているとはいえ、兄弟子たちに囲まれた生活は相当気が張るに違いない。
 桔梗がそう提案すると、影明は僅かに視線を落として小声で言った。
「そしたら、案内してくれるか? お前詳しそうだし」
「うん。市井も広いから見応えがあると思うよ」
「そりゃ楽しみだ」
 影明の顔が綻ぶ。その後も他愛もない話に花を咲かせていたが、不意に真顔になった。
「なあ、ここで仕事を請け負ってるんだよな」
「そうだけれど……何を今更」
 言わんとしている意図が掴めず、桔梗は眉をよせた。
 今の邸に移り住んだ頃に大体の話はしてある。言葉にしたとおり、何を今更聞いてくるのか。
「いや……よくお師匠が許可したなって思ってさ」
 影明の疑問は尤もだった。
 朝廷に仕える者が知り得る事柄を市井に漏らすことは当然禁じられている。天文道や暦道ならまだしも、呪術系は特に。
「わたしも、そう思っていたんだけれどね」
 桔梗は肩を竦めた。
「まだ陰陽寮に関わっていないし、これからも携わる機会はないだろうから大目に見てもらえたんじゃないかな」
 呪術その他の方法を誰かに伝授する行為は言語道断、と念を押されている。
 だから必要最低限の依頼しか受けていないのだと告げると、影明は神妙な顔つきになった。
「まあ、そうだよな。陰陽寮で働くのは無理だし、新しい仕事見つけるのも困難だろうしな。……貴族相手もな……」
 人脈があればどうにかなろうがそれもない。あるのは陰陽道の知識だけ。
「……そうだね」
 影明の言葉を引き継ぐようにして桔梗は呟いた。
「妖が凶事を持ちこんだと言われても困るから」
「……別にそんなの、お前だけじゃないさ」
「影明?」
「異能を持つ者は、どんな奴でも恐れを抱かれる」
 幾分か声音を低くした影明は、呼びかけにも応えずに歩みを早めてしまった。
 桔梗は少々面食らいながらも慌てて後を追う。
 小路から大路へと抜けた。都は入り組んでいるので、一度大路へ出た方が早いのだ。
 角を曲がったところに影明が立っていた。
「さっさと帰ろう」
 先ほど感じた仄暗さは微塵もない。
 桔梗は黙って頷いた。
 相手が話したくないのなら、無理に聞き出すのも酷だ。
 その後はとりとめのない話に花を咲かせながら帰路につく。
「……」
 ふと影明が口を閉ざした。
 彼の表情が微かに強張っている。一点を凝視して、瞬きも忘れているようだ。
「どうした?」
 微動だにしない影明の肩に触れようとして桔梗も気づく。
 宙の一部がぐにゃりと歪んだ。水面に波が立ったかのように、その部分だけ焦点があわない。
 歪みはやがて人の姿を形どった。
 ソレは雪を思わせる白い袿に身を包んでいた。裾にうっすらと花の模様が見えた。円錐状の花穂が描かれている。
 すぐそばで悲鳴があがった。
 桔梗たちの横を歩いていた行商の女の声だ。歯をがちがちと震わせて、少しずつ後ずさる。
 気がつけば、周りにはひとがいなかった。みな隅の方で縮こまっている。
「これが例の……」
 心のどこかで目の錯覚ではないのかと疑っていた。
 怪異など滅多に遭うものではない。様々な思念が渦巻く大内裏ならまだしも、この辺りは平民が多い。
 しかも今は昼間だ。話には聞いていたが、本当に日中から現れるとは思いもよらなかった。
 件の霊は、ただ歩いているだけだった。周囲に瘴気を撒き散らす訳でもなく、近くの人間にちょっかいを出すそぶりもない。一心不乱に歩いているだけだ。
 いや……と桔梗は考えを改めた。
 注意深く観察すれば、女の霊は時折辺りを見回すような仕草をしている。何かを探しているようにも見えた。
 そっと影明をうかがうと、視線に気づいたらしい。目が合った。
 音を発せずに唇を動かして、影明は何かを伝えてくる。
 意思を読み取って、桔梗は答えるように顎を僅かに引いた。続いて、ゆっくりと足を動かして影明から離れる。霊を中心に、影明の反対側へと移動した。
 害のないものは、たとえ妖でも手を出すことは許されない。この世は陰と陽、異なる二つが対立しながらも共存している。片方のみを消しては均衡が崩れてしまう。
 だが暴れ出したら話は別。いつでも対処可能なように神経を研ぎ澄ます。
 ふと甘い香りがして、桔梗は瞬きする。
 香を焚きしめるような雅な者は近くにはいない。
 桔梗がつい気を逸らしている間に、歩みを進ませていたソレが前触れもなく姿を消した。
 途端に安堵のため息があちらこちらから聞こえてくる。何もしないとわかっていても、アレは存在するだけで人々の不安を煽るのだ。
「ついこの間は八条の辺りだったってのに……六条でもか。どうなってんだ」
「おいあんた」
 男の呟きを聞きつけて、影明が声をかける。
「それ本当か?」
 どこかの邸の舎人とねりだろうか。褐衣かちえ姿の男は最初胡散臭げな顔をしていたが、影明の気迫に圧倒されて首を縦に何度も振った。
「あ……ああ、本当だ。その前は羅城門の辺りだったって話だ」
 桔梗と影明は顔を見合わせた。
 おそらく同じことを考えているのだろう、と桔梗は思う。
 羅城門から八条。そして今回は六条に姿を現した。件の霊は、少しずつ北上しているのではないか――?
 影明は厳しい顔をしている。
 北方へと続く大路を見つめて、桔梗もまた眉をひそめた。


「わ……っ」
 舞い上がった埃を吸いこんでしまった桔梗は、ごほごほと咳をする。
「大丈夫か?」
 涙を浮かべている桔梗の様子に、影明が声をかける。
 大丈夫だと答えるように数回頷く。――が、桔梗は耐えきれず両手で口元を覆いながら外へ出た。
 ひとしきり咳こんでようやく落ち着きを取り戻した桔梗は、ふたたび塗籠へと足を踏み入れる。長年閉め切っていたためか、中は湿った空気が充満していた。
 かび臭さに影明が顔をしかめた。
「まぁ、当然だな。放ったまま数年経ってるし」
 塗籠の中を見回して、影明は感想を述べる。
 無造作にしまわれていた品々を外へ運び出すと、言うまでもなく一般的な塗籠と変わらない。先ほどまで何があるのかわからない魔境のようであったのだが。
「あれはそのままでいいんだな?」
 影明が指差した。
 真横に位置する母屋。そこに塗籠の中身が並んでいる。
「うん。こちらはほとんど使用していないからね。よろず屋の店主が来るまで置いたままでいいよ」
 普段使用しているのは主に寝殿と東の対だ。住人は人間二人と式神が二体。たまに訪ねてくる者もひとりふたり。西の対を使わずとも充分な広さがある。
「んじゃ、残りも出すか」
「影明待った」
 腕まくりをする少年を止める。
 桔梗は真剣な面持ちで視線を巡らせた。
「……あとは並び替えるだけで大丈夫だと思う。お祖母様の持ち物のようだから」
 見覚えのある品ばかりだ。
 桔梗はそう断言した。
 塗籠の手前に置かれていた幾つかの品は、前主人である桔梗の祖母の所有物だった。それ以外は覚えがない。
 塗籠の中身をほとんど出すと、奥から以前に見た記憶のある家具類が現れた。
 隙間なくしまわれているように見えたのは桔梗の思い違いで、ぎっしりとしていたのは手前だけであった。奥はがらんとしていた。だが整頓など一切お構いなしに積み上げられたことは一目瞭然だった。
 二階棚の上に行李。そのまた上に行李を乗せ、さらに書物が重ねて置いてある。
 物置として使うならば、もう少しどうにかできたはずだ。無断使用とはいえ、前住人は何を考えていたのか……桔梗にはまったく見当がつかない。
「何も考えてないだろ」
 至極あっさりと影明が言った。
「あとで売り飛ばそうとか思ったかもしれないけど、邪魔だったからひとまず押しこんだって感じじゃないか?」
「そうかな」
「多分な。俺もよくやるし」
 影明がにやりと笑う。まるで悪戯が見つかった子供だ。
「それで、どこに何があるかわかるの?」
「自分で探しやすいようにはしてるぞ。他人からは大雑把な整頓にしか見えないかもだけど」
 言いながら、影明は一番上の書物類を退かし、やや不安定に積まれている行李を慎重に下ろした。
 床に置かれた行李の上部は埃で汚れている。手拭いで丁寧に拭き取って、桔梗はそっと蓋を開けた。
 中には衣類がいくつか入っていた。
 手に取って確認する。朧げながら記憶の隅に残っていた袿だった。
「何があった?」
 影明が桔梗の横に座り行李を覗きこむ。しばし考えてから目元を和ませた。
「……これ、ばあ様が好んで着ていたやつだっけか」
 浅縹色あさはなだいろの袿に触れて、影明は驚嘆する。
「懐かしいな」
 少々くたびれてはいるものの、綻びもなく綺麗な状態だ。
「賊が住みついてた割によく売り飛ばされず残ってたな」
「うん」
 桔梗は同感だと頷いた。
 質の良い物だ。単に気がつかなかっただけなのかもしれないが、売らずにいた賊に感謝したいくらいだ。
「……ん?」
 影明が手を伸ばした。行李から別の衣類を取り出す。
 広げたそれは小さめの千早ちはやだった。真っ白い布地全体に細やかな刺繍が施されている。
「これ、桔梗のか?」
「えっ」
 桔梗の肩が揺れた。
 幼い頃の思い出に浸っていた彼女は、一瞬惚けた顔をしていたが、
「違うと……思う」
 差し出された衣をまじまじと見て、自身なさげに答えた。
「なんでこれあるんだ?」
 困った桔梗の眉尻が下がる。
 行李の中には単衣と緋袴もあった。
 己が着た覚えはない。
 千早は巫女が身につける正装のひとつだ。なぜここにあるのか疑問が浮かぶ。
 祖母の邸には数える程度しか訪問していないが、巫女の血を引く者は身内にも知り合いにもいなかったはずだ。
 その旨を伝えると、影明も困り顔になる。
「じゃあ、こっちに来ていない間かもな。縁なんて意外なところから転がってくるもんだから」
「そうだね」
「……陰陽道の書物があるのも不思議だけどな」
 影明はちらりと上方を見やった。
 まだ開けていない行李の上に重なっているのは、桔梗の祖母にはおおよそ必要のない物だ。
「きっと、わたしが視える≠ニ知って集めてくれたんだと思う。只人でないことをひどく心配していたというから」
「視えるっていえば」
 いくらか声を低くした影明がぽつりと言う。
「さっきのあれ、なんなんだろうな」
 大路に出現した女の霊のことだ。
「うん……」
 言葉が見つからず、桔梗は曖昧に返事をして黙した。
 長き年を経て魂を持つ付喪神つくもがみの類とは違い、霊体は非業の最期を遂げるなど、その者に心残りがある場合に現れやすい。
「あれは、人間じゃなさそうだけど」
 桔梗はきょとんとした。
「どうして」
 そう思うのか、と続けようとして口を噤む。
「何に見えたんだ? わたしには人の霊にしか視えなかった」
 影明は手を止めて考えこんだ。眉を寄せ時折唸り――しばしそうしてから、桔梗と視線を合わす。
「精、かな。あえて言うなら。人の匂いがなかった」
「精……精霊か」
「俺がそう思っただけだからなー?」
「いや、影明の視る力は確かだから。間違いないよ」
 言い切ると、影明は照れたように鼻の頭を掻いた。
 影明の妖を視る能力はどの兄弟子たちにも勝る。もっと経験を重ねれば、師匠である玄翔をも凌ぐ陰陽師になるかもしれない。
「でも、アレが何の目的で彷徨っているのかはわからないからなぁ」
 相手が影明の言うように精ならば理由はまったく思いつかない。動物でも人間でも、霊であれば突き止めることも可能なのかもしれないが。
 霊が現れる原因は、大抵怨みだ。
 しかしそれは想像にすぎない。今のふたりにはどうすることもできないのだ。
「とりあえず、お師匠の判断を待とう」
 影明の提案に頷く。
 大路での出来事を文にしたためて、桔梗は玄翔に使いを出した。介入が必要とあらば何か指示がくるだろう。
 ひとまずこの話は終わりにして、桔梗と影明は片付けに専念することにした。
 影明が床に下ろした行李の中身を、身内の桔梗が確認していく。誰でもわかる書物などは影明に任せ、分担作業で事は順調に進んでいた。
 これならば今日一日であらかた終わるだろう。
 そう考えていた矢先に、
「桔梗っ」
 切羽詰まった影明の声が聞こえた。
「なに?」
 桔梗がそちらを向くと、慌て顏の影明と積み上げられた書物がこちらへ向かって崩れる様子が視界に映った。
 反射的に目を瞑り、落ちてくる書物の衝撃に耐えようとする。
「いてっ」
 物が落ちる音が聞こえたが、頭や身体に衝撃はなく、代わりに背中を軽くぶつけた痛みが広がった。
 桔梗がそろりと目を開けると、影明の後ろに天井が見えた。彼が身を挺して庇ってくれたのだと瞬時に気づく。
「怪我はないか?」
「背中を少しぶつけたけど……」
「わりぃ」
「いや、ありがとう。影明こそ怪我してない?」
 互いに相手を気遣っていると、衣擦れの音が近づいてきた。無駄な動きが感じられない規則的な音だ。
 邸には、桔梗と影明の他は今ひとりしかいない。
「桔梗様。大きな音がしましたが――」
 開け放たれている扉から瑠璃が顔を覗かせた。
 目があった。
 桔梗は床に仰向けに転がったままだ。端から見れば押し倒されたのだと思うだろう。
 別段驚く様子もなく、瑠璃は右手を頬にあてて、ほぅ、と吐息を洩らした。
 それから桔梗と影明を交互に見やり、
「ごゆっくり」
 にっこりと笑う。
 それ以上何も言わず、瑠璃は「うふふ」と笑いながら姿を消した。
「え……瑠璃!」
 今度は衣擦れの音が遠ざかっていく。
 予想もつかなかった瑠璃の言動に呆気にとられていると、どこからか吹き出す声がした。
 声の主は影明だった。桔梗から顔を背け、肩を震わせている。笑いを堪えきれなかったようだ。
「影明」
 少々声を荒げて名を呼ぶが、影明はあっけらかんとしている。
「わ、悪い……あんまりにも情けない顔だったから」
 悪いと言うが笑うことを止めない。
 ひとりで慌てているのが馬鹿らしくなった桔梗も口元を緩ませた。
「立てるか?」
 差し出された手を掴み起きあがる。
 丁度そのとき、風切り音と共に黒い塊が塗籠へと侵入してきた。
「なんだぁ?」
 それはふたりの頭上をしばし旋回すると、桔梗の手に収まった。
 塊は鳥だった。正確には鳥を模した式神だ。纏う気配はよく知っているもの。
「お師匠のか」
 影明も気づき呟いた。
 鳥は瞬く間に文へと変化した。
 折りたたまれた文を開き目を通す桔梗の眉間に皺がよる。
「お師匠の用件って、あれか?」
「たぶんそうだと思うけれど」
 曖昧に返事をして、文を影明に渡す。
 用件は短くしたためられていた。
『桔梗と影明、すぐに来るように』
 たったそれだけなのに、文から厳格な雰囲気が伝わってくる。
「……なんで俺がここにいるって知ってんだよ」
「さぁ。玻璃が話したんじゃないかな」
 大路の様子を書き綴った文を持っていったのは玻璃だ。影明はいるのかと訊ねたのかもしれない。
「聞かなくても弟子全員の居場所把握してそうだけどな」
 影明は言いながら立ち上がり、堅苦しいからと着崩していた身なりを正す。
「急いだほうがいいね」
 口元を引き締めて、桔梗は塗籠を後にした。
 大路での騒ぎと関係しているのか今はわからない。しかし状況に変化が生じたのだと悟った。



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