なんでもない日 |
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月影の朝は早い。 ぐっと前足を伸ばすと、まだ寝ぼけている体全体に力が漲ってくるようだ。 黒い毛皮に覆われた長い尻尾をぴんと立たせて、ドアへと向かう。設置されている小動物の出入口だ。この出入口は月影専用ではなく、もう一匹が使用することもあるのだが――そちらはごくたまにだ。 まだ眠っている部屋の住人をちらりと見やり、月影は極力音を立てないように外へ出た。 日はまだ昇っていないため人通りは少ない。夜勤終わりか朝帰りらしき者がひとりふたり、いるかいないかだ。 ふと、鼻腔をくすぐる香りに尻尾を揺らす。 桜だ。 先日の風で少し散ってしまったが、まだまだ満開と言ってもよい。街灯に照らされた薄桃色の花は暗闇にぼんやりと浮かんでいる。しかし儚げな桜は、確実に存在を主張している。 人がほんのりと香る桜を感じるのは難しいが、月影は人ではないので充分だ。ひくひくと鼻を鳴らしてしばし楽しむと、ゆったりと歩き出す。 地面から塀の上。それから屋根の上。ふたたび塀の上へと、自由気ままに移動する。 やがてたどり着いた一軒家の庭。その頃には街は朝日を浴びて目を覚まし出していた。 からり、と一階の窓が開いた。 「おはよう月影ちゃん。今日も時間ピッタリね」 白髪の老婆が顔を出して笑う。 にゃあ、と返事をすると、老婆は手にしていた浅めの器をふたつ月影の前に置いた。水と、猫用フードがほんの少し入っている。 にゃあと礼を言って、月影は口をつけた。 綺麗に平らげてから老婆の足元に擦り寄るのも忘れない。言葉が交わせない分、態度で示すのは月影の決め事だ。 老婆に朝の挨拶を済ませた月影は散歩を再開する。 塀の上へ屋根の上へ。そしてまた地上へ。 月影が気の向くまま移動していると、 『アニキー!』 背後から呼び止められた。姿はまだ見ていないが、声の主は誰なのかわかる。月影は立ち止まり振り返る。 『おはようございます。アニキ』 軽快に走ってきた猫三匹が揃って挨拶する。白いの灰色の茶色いの。種類は様々だ。 『ああ』 短く返して尾を一度振る。 『お気をつけて』 再度かけられた声には答えず、月影は踵を返した。 その場に佇んでいた三匹の野良猫も、しばらくして立ち去った。 彼らとこのような関係になるまで色々とあったのだが、ここでは割愛する。 時折あたりを伺うように視線を巡らせながら町内をくまなく周り、行きにも通った赤い鳥居をくぐると月影の朝の日課が終わる。横に設置されている石碑には月詠神社≠ニ彫られている。 境内を歩いていくと、よく見知った女が掃除をしていた。 箒を手にした緋袴の女は、月影に気づくとにっこりと笑う。 「おかえり月影。朝の散歩は楽しかった?」 月の異名を持つ黒猫は、 「ああ。今日も良い日になるぞ」 そう言って、ゆるりと尾を振った。
3/30の夜11:30頃に眠気がまったくないなぁなどと思っていたら |