「……あれ? ない」 自宅の冷蔵庫を開けて彩華が声をあげた。 しばらく中を覗いていたが、長時間開けたままにする訳にもいかず、疑問符を頭に浮かべながら扉を閉める。 「何がないって?」 訊ねたのは彩華の兄、朔也だ。彼の髪は濡れていて、ぽたぽたと落ちる水滴が首にかけられたタオルに染みこんでいく。 時刻は夜八時半。朔也は風呂上がりだ。 「兄貴、風邪ひくよ。……プリン知らない?」 「知らん」 駄目で元々聞いてみたが、やはり知らないようだ。 大事な食べ物には名前を書く習慣がある高村家。兄が嘘をつくような性格ではないとよくわかっているし、人の物を黙って食べるなんてことは言わずもがな。 彩華は眉間に皺をよせて呟いた。 「せっかく、有紀ちゃんがくれたのに……」 彼女は公休日だというのにわざわざ届けに来てくれたのだ。 一日数個限定販売だというそのプリンを楽しみにしていた彩華は、不満げな表情をして椅子に腰を下ろした。 「……プリン、か?」 黙って妹の愚痴を聞いていた朔也は、確認の問いを投げた。 「知ってるの?」 「いや……。心当たりが、あるといえばある」 言いよどむ朔也を促す。朔也の口から出た言葉は、ある意味想定内の内容だった。 「そういえば、黒猫が何か背中に乗せて本殿の方へ歩いていったなぁ、と。そういうことかと思い至ったんだが……」 言葉が徐々に小さくなっていく。彩華の目が三角に変わったことに気づいたのだ。内心しまったと思った朔也は黙り、彩華の出方を待つ。 「ありがと兄貴」 彩華は小さく呟き踵を返した。 とにかく、どういうことか本人――いや本猫を問い詰めよう。 「彩華」 朔也の呼びかけは気づかないふりをして。彩華は本殿へと向かった。 彩華が本殿へ足を踏み入れたと同時に、からん、とガラスの音がした。 「おー。なんだ彩」 のんびりとした声を無視して、彩華は一点を凝視する。視線の先には黒猫がいて、その側には空のガラス瓶とスプーンがあった。 「月影」 「なんだ?」 「人の物を勝手にとっちゃ駄目って、教わらなかった?」 言いながら、彩華は履物を脱いで本殿へあがる。 月影と呼ばれた黒猫は、尻尾を左右に揺らしながら考えるような仕草をする。しばしそうして、 「教わってないな」 きっぱりと言い切った。 「……」 月影の言葉は事実なのだろう。だが、容赦なく拳を振り下ろしたい気持ちになってしまった彩華を、一体誰が責められようか。 欲しいと言われたらあげてもよかったのだ。しかし黙って食べてしまうのは、相手が誰であろうと許しがたい行為だ。 「これが本当の泥棒猫か」 彩華はぼそりと呟いた。 たかがプリンひとつでいつまでも怒っているのもなんだかなぁと思いつつも、このくらいの嫌味は許されるはずだ。 「なかなかうまいこと言うな」 されど当猫はどこ吹く風。 「……食べ過ぎるとまん丸お月様になっちゃうんだからね」 今思いつく精一杯の毒を吐き出して、彩華は口を尖らせた。 そんな騒動があったのは、三月三十一日のこと。 翌朝。 本殿へとやってきた彩華は目を見開いてその場に固まった。 出入口へ背を向けて、見慣れない物が居座っている。それは、黒い鞠のような塊に、可愛らしい耳と手足、ゆらゆらと揺れる尻尾がついていた。 「なに……? 鞠の妖怪?」 彩華に気づいたそれがこちらを向いた。 「おはよう彩」 黒い鞠が喋った。 妖怪の知り合いなどいない。何なのだ……と彩華は気さくに声をかけてきたソレを訝しんだ。 ……今、コレは自分を彩≠ニ呼んだ……? 「どうした彩。ボケっとして」 「それはこっちの台詞よ月影。その姿どうしたのよ」 「あー……これか」 月影は自身の身体を見回してから、眉をひそめた。 「お前が昨日『まん丸お月様になる』って言ったからだぞ。言霊の力を侮るなかれ、ってな。朝方こんなになっちまった。どーしてくれるんだ」 「うそっ」 「嘘」 彩華の叫びに間髪いれずに月影が答えた。それと同時に風切り音が鳴り、丸々としていた黒猫は、元のすらっとした体系に戻る。 「エイプリルフールってやつだな」 「月影……」 彩華は顔を引きつらせているが、月影は悪びれもしないでいる。 どうしてやろうかこの邪神様を。――神切り≠フ名を持つ剣が保管庫にあったかもしれない。 物騒なことを考え出した彩華の耳に、新たな風切り音が届いた。何もない空間から人影が現れる。詠だ。 「お前たち何をしている。騒がしいな」 そのまま立ち去ろうとする呆れ顔の詠を捕まえて、彩華は切々と黒猫の悪行を訴えた。 月詠神社は今日も平和である。
…ということでエイプリルフール。 |