Episode EX2 -真っ赤な- 白磁のティーカップに口をつけ、ミシェルはほっと息をついた。 陽が燦々とふりそそぐ薔薇園でのティータイムはミシェルのお気に入りだ。ティーカップの中身は彼女好みのフルーティーな紅茶。添えられているスコーンはちょうど良い温かさで、外はさっくり中はしっとりで、これまた彼女のお気に入りである。 いつもと変わらない時間。なのに自然と笑みがこぼれる。 ふふっとミシェルが小さく笑うと、傍らに立つ男が不思議そうな顔をした。 「ミシェル? どうかしましたか?」 「んー。穏やかな時間だなって思ったの」 ちらりと目を向けた先には、文字がかかれた白い紙が置いてある。遠く離れている家族に手紙を書いていたのだ。ミシェルは男――クリストフに視線を戻した。 「別に、毎日特別なことがあって慌ただしいわけじゃないんだけどね」 どちらかというと毎日穏やかだ。 「なんでもない日、というのも大事ですからね」 子供でも知っている物語の一文を歌うように諳んじて、クリストフはミシェルを見つめる。その拍子に、彼の柔らかい髪がさらりと揺れた。陽の光を受けて、金色が煌めく。 「……どうしましたか?」 同じ言葉を繰り返すクリストフに、 「んー」 ミシェルも先ほどと同じように返してから、ティーカップの液体をひとくち含む。 紅茶の温度も濃さも主人の好みを外さない。この屋敷の執事であるクリストフは、陽が似合わない夜の住人だ。本当は明るいうちにこうして外には出られないのだが、敷地から出なければ問題はない。 前主人の魔法使いがそういう魔法をかけている。奇特な吸血鬼が生きていけるように。 「慌ただしいのも穏やかなのも、どちらもいいんだけど、最近はちょっとだけつまらないかなって思っちゃってるの」 屋敷へ来たばかりの頃は、それはそれは大変だった。 父親の過失でこの屋敷へ来ることになったミシェルは、最初は生贄のつもりだった。死ぬことはなかったとしても、もう家族にも会えず、人並みの生活には戻れない。その覚悟はあった。 しかし蓋を開けてみれば予想外のもてなしを受けた。ある意味人並みの生活とはかけ離れているのだが、拍子抜けだった。 庭の手入れやその他の使用人めいた仕事は得たものの、ミシェルの位置づけはこの屋敷の主人だ。だからこうしてのんびりとティータイムを楽しむことができる。 「つまらない……ですか」 うーん、とクリストフが唸る。 「アドルファスが来れば、また何か面白い物を持っているとは思いますが」 ぼそりと告げたのは、屋敷の出入り商人兼、クリストフの腐れ縁の名であった。 「でも、この間会ったばかりでしょう?」 そうしたらしばらくはやってこないだろう。彼のことだから、明日ふらりと現れるかもしれないが。 「何もないところから楽しみを見つけるのも人生ではないですか? ……」 あ、なんか哲学っぽいこと言うのね。 くすりと笑って、ミシェルはクリストフを見上げた。彼は自身の主人とは反対側へ視線を向けている。 「クリス?」 声をかけても固まっているクリストフの視線をたどっていくと、薔薇の垣根のさらに先、ブナの木がある。 その一角が揺れている。風が吹いたときの揺れ方ではない。誰かがわざと枝を動かしているような――そんな揺れ方だ。 茶色い蠢く物が視界に映った。全体は木に隠れて見えないが、小動物のようだ。 敷地内には人が簡単には入れないように、これまた前主人が魔法をかけている。しかし鳥や小さな生き物など、害をなさないものたちは除外されるようで、ちょくちょくミシェルの目を楽しませてくれる。 しかし今回は少々様子がおかしい。茶色い物が、遠目でも赤い服を着ているように見えた。野生動物が服を着ているはずがない。 「クリス……」 「お静かに」 不安げなミシェルに微笑みかけて、クリストフは一歩前へ出る。 表情はこちらからはわからないが、彼を纏う空気が変わったとミシェルは感じた。主人を守ろうと謎の闖入者を睨み据えているのかもしれない。 なんとも頼もしい執事だ。 ミシェルはわずかに肩の力を抜いた。小動物とはいえ姿の見えない生き物に、多少なりとも怖気づいていた。でも、クリストフがいれば安心だ。 がさり、と音がした。枝が大きく跳ね上がった、と思っていたら、今度は他の木まで揺れだした。 何匹もいるのではなく、どうやら一匹が移動しているらしい。 枝を揺らしながら、小動物が少しずつふたりに近づいてくる。けれどもまだどのような姿をしているのかわからない。 「……」 「……」 ミシェルもクリストフも言葉を発せないでいた。 ふたりの真横の木が音をたてた。――それっきり、動く気配はない。木からここまで距離はあるが油断はできない。 「いなくな……った……?」 しばらくしてからミシェルが呟いた。 「いえ」 まだ気配があります。 そっと囁くクリストフの言葉にはわずかに尖りが感じられる。もちろん主人に対してではない。 ごそり。 今度はすぐ近くの薔薇が揺れた。 「――ミシェル」 耳元で名を呼ぶ声がしたかと思うと、視界が遮られた。ミシェルは何が起きたのか理解できないでいる。 「え? え?」 自分を抱えこむものから這い出るようにすると、まず黒い腕が見えた。クリストフの執事服だ。どうやら腕の中に庇いこまれたようだ。 「さっきのは……」 視線を動かすと、謎の小動物はテーブルの上にいた。気になるのか、ミシェルのスコーンを指で突いている。 背を向けていた小動物がくるりとこちらを向いて「ウキ?」と鳴いた。 「……猿?」 「猿ですね」 先ほどまで隠れていたというのに今は動じてもいない。二対の瞳に凝視されても人に慣れているのか、猿は逃げる素振りもない。 「見世物小屋の猿でしょうか」 赤いベストのようなものを身に着けている。たしかに野生の動物は服を着る習慣はないだろう。移動中の馬車から逃げ出したのかもしれない。 首をかしげるような仕草をしている小さな猿を見つめていたミシェルは、安堵の息をつき、それからはっと我に返る。 クリストフに抱きしめられたままであると気づいてしまった。薔薇とは違う良い香りがミシェルの鼻をくすぐる。 「くくくクリス」 「はい?」 腕の隙間から覗き見ると、クリストフは不思議そうな顔をしている。 「もう大丈夫だから……離して?」 小猿は興味を持ったスコーンのかけらに夢中だ。手に取ってふんふんと匂いを嗅ぎ、口に入れた。心なしか小猿の目が輝いているような気もする。 危険はないだろうと判断したミシェルはいまだ引っ付いたままの執事に申し入れてみるが、さらにぎゅっと抱きしめられることになった。これにはミシェルも狼狽えるしかない。 「ちょ……」 「危害は加えられないと思いますが、相手は物取りですから」 追い返されずこれ幸いと食べ続ける小猿をちらりと見やり、クリストフが言った。 「大切な人を盗られるわけにはいきませんからね」 「え? え?」 ぽかんとして数秒後、ミシェルの頬はまるでスコーンに添えられたリンゴジャムそっくりだ。 「ウキ?」 猿の問いかけに応えるように、クリストフはふたたび視線を向けた。 身動きが取れず硬直したままのミシェルは、悪戯をする子供のような彼の顔には気づかなかった。 最初はモフモフが打ちひしがれる話のはずが、人型のためか違う話になっちゃった。 タイトルは 真っ赤な「嘘」「頬」「リンゴ」「猿ケツ」…などなど。 |