Episode 3 噂の化け物屋敷で暮らすようになって早数か月。今更何が起きても驚かない自信はあった。――それは気のせいだったようだ。 「い……あ……だ……」 いったい、あなたはだれなの? そう訊ねたかったミシェルの口は上手く回らず、意味を持たない単語として発せられた。 逃げようにも後は壁。閉まっている扉に鍵がかかっているかもわからないので、強行突破も難しい。 小刻みな震えが足先から全身へと広がった。顔はおそらく真っ青だろう。 私……どうなっちゃうの? ミシェルは自身を腕で抱えるようにして、目の前の何か≠凝視した。怖くて怖くてたまらないのに、目が離せない。 「そんなに怯えないで。危害は加えないから」 男は両手を上げて、今にも降参≠ニ言わんばかりだ。 たしかに悪意は感じない。 優しい笑みを浮かべている、おそらく幽霊の類であろうこの男が、何らかの目的で謀ろうとしていなければの話なのだが。 ミシェルは少しだけ緊張を和らげた。ちょっとした変化を見逃さないように視線は男に向けているが、瞳は不安げに揺れている。 様々な考えがミシェルの頭の中を駆け巡った。 彼は幽霊で間違いない。だって、透けて天井や壁が見えるのだから。それ以外に身体が透けているものがあるのなら、今すぐ教えてもらいたいところだ。 ほんのちょっぴり余裕が出てきたミシェルは、顎をぐっと引いた。そして、意を決して口を開く。 「……あなたは誰なんですか? どうしてここに?」 「えぇとね」 虚勢を張りつつも顔も身体も強張らせているミシェルに、困ったような表情を向けて、男は微笑んだ。 「僕もこの屋敷の一部みたいなものだから、あまり警戒しないでほしいんだけれど」 言いながら男は、音もなく下へ降りてきた。 ミシェルの肩がびくんと震える。 「立ち話も何なので。座りませんか? お嬢さん」 すいと男の右手が宙を滑る。掌から光る粒子が流れ出たかと思うと、それは一ヶ所に固まり、次の瞬間椅子の形に姿を変えた。色は違うが、この屋敷にある椅子にとてもよく似ている。 ほぼ同時に、部屋に備えられていた椅子が小さな音を立てながらミシェルの横へと移動してきた。 半透明の男は、ミシェルが言葉を返す前に己が作り出した椅子に座ってしまった。 しばらくの間どうしようかと考えていたミシェルは、男と横の椅子を交互に見やり、恐る恐るといった風に腰をおろした。 先ほどは見下ろされていたのだが、今は目線が一緒くらいだ。当然ながら男の方が背が高い。同じ高さの椅子に座っても、目線が同じにはなりえない。男の座る椅子は、ミシェルの椅子よりも座面が低いタイプなのだが、それにしては不自然だった。 不思議に思いミシェルは視線を下へとずらした。男の座る椅子は床から浮いていた。 「喉は乾いてないかな?」 ふたたび男は右手を振るう。すると、扉の外に何かの気配を感じた。正確には上の階から――だろうか。 「ちょうど紅茶が入ったところだ」 ぴったりと閉まっていたはずの扉が音を立てて開き、ミシェルは部屋に入ってきた物に目を丸くする。 屋敷の家具や食器たちは、前主人の魔法によってひとりで勝手に動く。それにはもう慣れていたのだが、さすがに浮いているのを見るのは初めてだった。 ティーポットとティーカップが二脚。ふわふわと泳ぐように宙に浮いている。 それらは半透明の男の前に移動すると、誰の手を借りることもなくポットの中身がティーカップに注がれる。紅い液体だ。 「うん、良い香りだ」 満足そうに頷き、男はそのうちのひとつをミシェルに渡した。手渡しではなく、ティーカップは空中を泳いできた。 ミシェルは落とさぬようにソーサーごと受け取ると、眉間に皺をよせた。ほんの少し、疑心を抱いたのだ。紅茶の他に、よからぬモノが入っていないのかと。――しかし、ティーカップから立ち上る湯気と香りに顔を綻ばせる。 ティーカップを口元へ寄せると、香りがさらに増した。よく飲んでいる紅茶の香りに似ていた。 そのままひとくち紅茶を含む。 「……おいしい」 ミシェルは感嘆の声をあげた。 「クリスの淹れてくれる紅茶と同じ味がする」 茶葉が一緒ならば味もそう変わらないはずだ。なのに、そう思った。 「それはもちろん」 ミシェルの呟きに、男は嬉しそうに声を洩らす。 「僕がクリストフに教えたからね。味が似ているのは当然だ」 にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべる男は、カップを持ち上げて香りを楽しんでいる様子だった。半透明の手で持っているふり≠しているようにも見える。よく見れば、カップの柄を指が貫通していた。 「こんな身体じゃ、香りは楽しめるけど味わうことは叶わないんだよねー。残念だ」 ミシェルの考えを察したのか、男はそんなことを言った。 「あなたは一体何者なんですか? なんとなく見当はついてますけど」 「前の主人だよ」 「やっぱりそうなんですね」 ミシェルは肩の力を抜いた。彼のことを直接は知らなくても安心感が生まれた。 「それで、今のあなたの状況って、どういう状態なんですか? 亡くなったって聞いていますが」 「うん、僕はとうの昔に死んでいる」 それまで笑顔を絶やさなかった男の顔が、急に真顔になる。 「……あー僕の名前は知ってる? でもそれは口にしないでね、絶対。あとでクリスやアドルフに話すときならいいけれど」 「どうしてですか?」 ミシェルの脳裏にいくつもの疑問符が浮かぶ。 「もう存在しないモノがこの世に縛られるとまずいんだよ。そうだなぁ……幽霊さんとでも呼んでもらおうかな」 ちょっと意味がわからないけれど、彼の望み通りにするしかない。 ミシェルは曖昧に頷いてみせた。 「本当は、幽霊ってのとはちょっと違うかな。死ぬ前に残しておいた魂の一部……だから、幽霊ってのも間違いではないと思うんだけれど」 目の前の幽霊さん≠ヘ楽しそうに笑う。 外見年齢は四十くらいだろうか。笑ったときに目尻に刻まれる皺が愛らしいとミシェルは思う。 男がティーカップから手を離すと、それはふわふわと宙を漂い、部屋に備えられている机に移動した。 「生前、ある条件で術が発動するようにしておいたのが今動いたんだね。我ながら良くできたなって思うよ」 説明を受けてもミシェルには理解が難しかった。術、というのが屋敷を取り囲む大雪や今の状況だということはわかったのだが。 「理由があるんだろうというのは、何となく気づいていましたが……その理由って」 ミシェルはソーサーを膝の上に置き、男と目をあわせた。 「クリスのこと、でいいんですよね?」 前の主人が魔法を残してまで気にかけている問題。彼のこと以外には思いつかなかった。 ややあって、男は穏やかな笑みを浮かべた。 「クリスは、本当は呪いは解けている」 「え、と。それって」 あまりにもはっきりと告げるので、ミシェルは言葉を失ってしまう。 「解けてるって……あの、羊に変わってしまう呪いですよね?」 「うん」 肯定する声には嬉々とした色がまじっている。 「可愛い姿だよね、あれ。もっこもこふっわふわで」 ミシェルは思わず笑いそうになる。彼は嫌がるだろうが、可愛らしいと常々思っていたのだった。 「魔法ってのも永久ではないんだよ」 呟いた声音が真剣味を帯びた。ミシェルも緊張した面持ちになる。 「たしかにあの呪いは強力な魔力だったけれど、それも時間とともに効果は薄くなっていく。あれはクリスの意識の問題だよ。若気の至りとはいえ、しばらくしてから反省したようだったし」 男は考えこむような仕草をした。 「……もっと違う姿に変えられたなら、今も荒んでいたかもしれないな」 床に視線を落とし、わざとらしくため息までつく。 何が、というようにミシェルは小首をかしげた。 「姿が羊だから、どんなに虚勢を張ってもねぇ。諦めもつくよね。どれだけ怖い顔しても怖くないし。モコモコだし」 男が面白おかしく話すので、ミシェルは笑いを堪えるのに必死だった。 実際の年齢はどうだったのか見当もつかないが、幽霊さんはクリストフの親のような存在だったのかもしれない。 ミシェルの脳裏に懐かしい顔がよぎった。胸の奥が温かくなる。同時に、寂しくも感じた。 「負けてプライドズタズタだったみたいだけど、今はもう吹っ切れてるのかな? 以前よりも屋敷の外に意識が向いている」 また、以前のように旅をしたいのかもしれない。男はそう考えているのだという。 『神は一つのドアを閉めても千のドアを開けている』 「あれはあの子に向けた言葉なんだよ。ほんの少し、意識が外へ向いたときに、僕のメッセージが届くように。屋敷に囚われる必要はないのだから」 男はミシェルの目を覗きこむような仕草をした。 何もかもを見透かされそうな気持ちになった彼女は息を飲む。 「でも、今の君の状態にも当てはまるのかな?」 「えぇ……たぶん」 ミシェルは言葉を濁した。 「君は家に帰りたい?」 「はい」 続けざまにされた質問に、力強く頷く。 帰りたい。 「でも」 呟くミシェルの声には覇気がない。 「家には帰りたいです。家族のことが心配だし、好きだから」 膝の上のティーカップが小さな音をたてた。 「でも……彼と……クリストフと離れたくもないって気持ちがあって」 静かに話し続けるミシェルの瞳は落ち着きなく揺れている。 「最初はどんな恐ろしい化け物が棲んでるのかって、私がここへ来ることになったのは、その化け物のせいだから、怨んだりもしていました」 ミシェルはしばしの間黙った。 そんな彼女を急かすことなく、男は穏やかな顔で見守っている。 「きっかけは、父が大切な薔薇を盗んでしまったからなんですけど」 と言って、ミシェルは恥ずかしそうに笑う。自分の中で気持ちを昇華させたのだろうか。さっぱりとした表情を見せた。 「薔薇、ねぇ」 男は小さく微笑んだ。 「あの薔薇園は、クリスが血を吸わなくてもいいように植えた物だ。生物の生気と同じで、植物のそれも吸血鬼の糧になるから」 「思い出の品を盗られたら誰だって嫌ですもんね」 してはならないことをしてしまった。この事実は変わらない。 「大切なご主人様がプレゼントしてくれたならなおさら」 「……うーん? どうかな」 男の唇がわずかに歪んだ。眉もよせている。 「まぁ、その話は置いといて」 あまり触れられたくない話題なのだろうか。 ミシェルはそれ以上訊ねることをやめて、冷めた紅茶を口に含んだ。乾いていた唇と喉が潤み、ほっと息をつく。 「人生って道はいくつもあるんだよ」 身を乗り出すようにして、男はミシェルをじっと見据えた。 「君がこの屋敷へくることになったのも、運命と言ったら陳腐ではあるけれど、数ある道のひとつだっただけだ。きみが帰りたいと言えば、クリスは了承するよ」 「……そうでしょうか」 呟いたミシェルの声はひどく静かだ。 「間違いなく。紳士の品格は叩き込んであるからね。魔物でどうしようもなく不幸な身の上なんだから、必要以上に人間に嫌われることはない」 どうしても重々しくなる空気を少しでも軽減させようとしているのだろうか。あまりの物言いに、ミシェルはとうとう耐え切れずに声を洩らした。慌てて口元を手で押さえる。 クリストフがもしもこの場にいたのならば「はしたない」などとお小言を言われただろう。 そんな日常も、もう終わりかもしれない。 今更ながらに寂しさが募ってくる。 できる限りのお願いはしてみようと決断したというのに、これで良かったのか、と尋ねてくるもうひとりの自分がいる。 「今すぐでなくても、これからどうするかは君が決めればいいさ」 ミシェルは迷いながらも強く頷いた。 「あの子のこと、もうしばらくよろしくね。せめて家へ帰ることになるまで。……僕はそろそろ役目は終わりかな」 男の影が背景と同化するくらい薄くなった気がした。 「……会って話してはいかがですか?」 「うーん……そうしたい気持ちはあるんだけど、色々と制限があってね。この魔法も」 少しずつ消えていく自分の足元を見つめ、男は困ったような顔をする。こうして話ができるのもあとわずかだろう。 「そうなんですか」 ミシェルは他に聞きたいことがないかとあれこれ考える。 本当は、クリストフの昔話を聞きたいところなのだが――その時間はない。 「きみとは知り合いではないからこうして話もできるけど。……あぁ一言くらいだったら手紙は残せるかな? あのメッセージカードくらいの」 あのメッセージカード。男が残した最初の魔法だ。短い文章ではあったが気持ちは詰まっていた。 「ぜひお願いします! きっと喜びます」 色よい返事をもらえて、ミシェルはぱぁっと顔を輝かせる。 すると、貴族風の幽霊は、照れくさそうに「……うん」と言った。 キッチンの調理台の前でミシェルは顔を明るくする。 有り合わせの材料を混ぜて蒸しただけの素朴な料理だが、上手くいった。 「よしいい感じ。あとは寝かせておいて……」 調理は少々久しぶりで、自信はなかったのだが……先ほど味見をした限りは、以前食べたプディングと変わらない、懐かしい味だった。 「気に入ってくれるといいんだけれど」 呟くと、周りにいた食器たちがカチャカチャと動いた。大丈夫だと背中を押されている気がして、ミシェルは微笑んだ。 少し時間を置いた方が味が馴染んでさらにおいしくなるはずだ。 手前にあったプディング型を調理台の中央辺りへ移動させ、ミシェルはふぅ、と息をついた。 その間にアドルファスを探さなければならない。 ミシェルがキッチンを手早く片付けると、食器たちも己の定位置へと動いていった。 キッチンから出て屋敷の中を歩いていると、ちょうど戻ってきたところなのか、ミシェルはエントランスでアドルファスと会った。 「あっれー? どうしたの?」 大雪の中で作業をしていたせいだろう。髪も服も湿っていた。 「えっとね……」 いくら人間とは違う身体でも、濡れたままでは体調を崩してしまう。 ミシェルは手早く要件を告げる。いつもお世話になっているお礼にプディングを作ったこと。でもクリストフに話があるので、先にふたりきりにしてほしい、と。 「りょーかい。楽しみだなぁミシェルのプディング」 目尻を下げ、にこにこと笑うアドルファスにつられてミシェルも顔を綻ばせる。 ふたりの口にあうか心配はあったものの、こうして喜んでもらえるのはこちらとしても嬉しいものだ。 そんなことを思っていると、 「……」 アドルファスにじっと見つめられていることに気づいた。 「? なに?」 「何か企んでいる?」 「た、企んでは……」 ミシェルは慌てて首を横に振った。 「あー今のは言葉の綾」 しくじった、と言わんばかりの顔で、アドルファスは頭を掻いた。 「なんかね、いつもチャーミングだけど、すっごい吹っ切れたような表情になって……輝いてるなって思ってね」 思いもよらなかった言葉にミシェルは頬を染める。 「……あ、りがとう」 言葉に詰まりながらもなんとか礼を述べる。 「後悔しないように頑張ってね」 そう言って、ひらひらと手を振り立ち去ろうとするアドルファスは肩越しに振り返り、 「クリスなら部屋に戻ってると思うよ。さすがに身体が冷えて休憩中じゃないかな」 「うん。行ってみるね」 同じように手を振って、ミシェルはクリストフを訪ねるべく階段を上がっていった。 小走りに駆けていく少女の後ろ姿を見送り、アドルファスはふっと口元を緩めた。 「いい風が吹いてたんだけどなー。俺も潤いがあると楽しいしー」 残念、とため息まじりに呟く。 少しして、アドルファスは人差し指で自身の頬を掻いた。 彼女を焚きつけたのは自分だ。屋敷から出られぬはずはない、と。 このまま囚われの身になるのは、人間の娘には少々気の毒だったから。 だが、彼女の存在は、古くからの友人にとって良い変化をもたらしたと思う。このままずっとここにいてほしいと願っている。 「……ま、どうにでもなるかな。俺がどうこう言える立場でもないし。あの娘が何を考えているかは、まだわからないし。……ねぇ?」 最後の呼びかけは、すでにこの世にはいない彼へだ。 当然ながら返答はない。 アドルファスはしばらく空中を見つめていたが、やがて足早にその場を離れた。 |