Mon petit mouton Trois-モン プティ ムトン3-
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Episode 5

 門の前に立ち、ミシェルは空を見上げた。
 雲ひとつない良い天気だ。小鳥の囀る声が聞こえてきて、ふっと口元を緩めた。
「忘れ物はありませんか? ミシェル」
 優しい声に訊ねられ、視線を向ける。声と同じように優しい瞳がこちらを見下ろしていた。
 ミシェルは答えるようににっこりと笑う。
「ええ。元々必要最低限の荷物しか持ってこなかったし。大丈夫よ」
 そう言って右手の麻袋を掲げる。たいした荷物は入っていないものの、持ち上げると少し負担がかかる。ミシェルはすぐに腕を下ろした。
「あ、ミシェル。荷物こっちに積もうか?」
 馬車の荷台から男が顔を出した。
「邪魔になるでしょ」
「平気。行きも持ってきたんだし」
 やんわりと断るミシェルの腕が急に軽くなる。クリストフが麻袋を持ったのだ。
「お疲れでしょう。頼んではいかがですか」
 言われてミシェルは鼻の辺りがつんとくるのを感じた。慌ててあくびをこらえるものの、遅かった。
 目を細めて笑うクリストフに恥ずかしそうに微笑みかけて、ミシェルは麻袋から手を離した。
「う……ん。じゃあ、そうさせてもらおうかな」
 昨日はお礼のお茶会のあと、屋敷を覆っていた雪は、水滴ひとつも残さずあっという間に消え去った。
 アドルファスにも紅茶を振る舞い、日中できなかった仕事を各自済ませた。その後はパーティーというほどのものでもなかったのだが、三人でささやかな宴を楽しんだ。
 嘘か本当か、アドルファスの危険を伴う航海や、今まで詳しくは聞いていなかったクリストフの旅の話。時間を忘れるくらい楽しいひとときだった。そのためミシェルは少々寝不足だ。
「それと」
 クリストフが突然手に触れてきたので、ミシェルは驚いて肩を揺らす。
「これをあなたに差し上げます」
 渡されたのは両手で持てるくらいの大きさの袋だった。麻袋とは違い手触りが良い。中身は何なのか、重量感がある。
「なぁにこれ。……開けてもいい?」
 袋をそっと開けて――ミシェルは目を疑った。
 それは、日の光を浴びてきらきらと輝いた。丸い、銀色の硬貨。
 父親の仕事について回ることもあり、銀貨を目にすることはあった。しかしこうして手にするのは初めてだ。
「どういうこと? クリス」
 彼は「差し上げる」と言った。これを貰う理由は思いつかない。
「あなたが屋敷で働いた対価といいますか、給与です」
「貰う理由は、ないわよ?」
 先ほど心に思った言葉を今度は口にする。
 クリストフは笑顔のまま首を横に振った。
「ありますよ。薔薇園の手入れですとか」
「それは父の悪事を詫びるためでもあったし」
「主人が必要な屋敷の、雇われ主人にも無理矢理なっていただきました」
「それは、そういう約束をしただけだし」
 ミシェルは銀貨の袋を突き返すが、受け取ってはもらえなかった。
「で、でも。私の村じゃ銀貨なんて使うところもないし」
 村では主に物々交換なのだ。
「そしたら、俺が売ってる物から村のみんなに必要なものを買ったらどう? 何もいらないなら、大工仕事も賜りますよー」
 アドルファスが右手をあげて主張する。
 ことごとく切り返されてしまい、ミシェルは黙るしかない。
「……こうして元の姿にも戻れたわけですから」
「貰っておきなって。すぐにはいらなくても役立つときがあると思うからさ」
 重ねて説得されて、ミシェルは袋をぎゅっと握った。
「わかった。ありがとう」
「じゃあそれも預かるよ」
 アドルファスに手を差し伸べられたので袋を渡すと、
「さぁ、そろそろ。まだ日は高いですが、早い方がいいでしょう」
 クリストフが空を見上げながら言った。
 昨夜のうちに白い鳩に手紙を括りつけて、ミシェルは家族の元へと飛ばした。今頃は、彼女の帰りを今か今かと待ち続けているだろう。
「ミシェル、ひとりで乗れる?」
「ええ、慣れているから」
 ミシェルは一度愛馬の首を撫でてから、難なく背中に乗った。
 しばらく乗っていなかったので心配していたのだが、大丈夫だ。
 そんなことを思いながら馬上でバランスを取り、門の方を向く。と、クリストフと目があった。――どことなく、寂しそうな雰囲気が漂っている。
「本当は村の近くまででも送っていきたいのですが……少々日光が辛いので、ここで失礼します」
 クリストフは門の内側から一歩も出ていない。前主人の魔法の影響なのか、敷地内ならば日にあたっても平気なようだ。
「道中はアドルファスに任せてください。彼は軽い男ですが、仕事は間違いなくやり遂げますので――頼みましたよ」
「おう任せとけ!」
 馬車の状態を確認し終えたのだろう。アドルファスは自身の定位置に座り、
「出発していいかな? ミシェル」
 と声をかけた。
 頷こうとして、ミシェルは視線をクリストフに向ける。
「お元気で。……あなたの幸せを願っています」
 いつもと変わらない笑顔に陰りが見える。気のせいじゃない、とミシェルは確信していた。
「アドルフ、ちょっとだけ待ってもらっていいかな」
 言いながらミシェルは馬を下りた。そのまま返事を待たずに門へと近づく。
「――うん? いいけど」
 荷台に繋がれた馬もミシェルの愛馬も、主人の出発を大人しく待っている。
「どうしました? 忘れ物でも?」
 クリストフは眉根をよせる。近づいてきたミシェルが何も言わず、ただ見上げてくるだけなので、困惑している様子だ。
「クリスは今回のことどう思ってるの?」
「どう……とは? それに今回のことというのも何を指しているのかわからないのですが」
「私が家に帰ることよ」
 間髪入れずに告げると、クリストフの目が見開かれた。
 しばしの沈黙がふたりの間に流れた。
「良かったと思いますよ。若い娘さんをいつまでも屋敷に閉じ込めておくのは、好ましくないですから。……原因のひとつであるわたしが言うのも何ですが」
 ミシェルは黙ったままクリストフの言葉を聞いていた。そして、そっと口を開く。
「私……ここに帰ってきちゃ駄目かな?」
 ぽかんと口を開けてしまったクリストフに笑いかける。
「せっかくの素敵な顔が台無しよ」
「あなたが何を言いたいのか、話がよく飲みこめないのですが」
 眉尻を下げ、困惑顔のクリストフは、助けを求めるように馬車の方を見やる。真顔のアドルファスも、ミシェルの真意はわからない様子だ。彼は肩を竦めるような仕草だけをして、傍観を決めこんだらしい。
 クリストフは諦めてミシェルと向きあった。
「クリスはもう、私は必要ない?」
「薔薇の件もすでに済んだことですし、謝罪も十分受けています。ここへ帰ってくる理由はないと思います」
 そう言われたミシェルは、少しだけ落胆する。
 でも――これが最後になってしまうのなら。
 考え直したミシェルは、自身を鼓舞するかのように拳を強く握った。
「あなたは?」
 見るからに言葉に詰まったクリストフに畳みかける。
「私ね、ここが好き」
 目を細め門の向こう側に視線を向ける。噴水の水がきらきらと輝き、その側では小鳥が囀っている様子がここからでもわかる。
「最初は、無理難題を吹っかけてくるって怒ったりもしたけど、父がしでかしたことだったし、そういう気持ちもすぐになくなっていったのね」
 いくら薔薇一輪とはいえ、罪は罪だ。それを考えれば有り余るほどの充実した暮らしをさせてもらった。村にいたままでは体験できなかった時間だ。
「薔薇園も完全には戻せなかったし、なにより」
 言葉を切って、ミシェルはさらに拳に力をこめる。
「屋敷の主人がいなくなるのは良くないんでしょ? それに……クリスとこのまま離れ離れになるのは嫌なの。……旅の話とか、もっと聞きたいしっ」
 一気に言い切ったミシェルの顔は真っ赤に染まっている。
 ありったけの勇気を振り絞っての告白に、クリストフは答えない。沈黙が重くのしかかり、ミシェルは耐え切れずに下を向いた。
「おおっと今度はミシェルからプロポーズか――っぎゃ」
 どこからか飛んできた銀のフォークをひらりと避けて、アドルファスが喚く。
「おい羊、危ないだろ! 丸焼きにするぞ!」
 アドルファスの訴えはふたりには届かなかったようだ。
「なんだよー無視かよーひでぇなー」
 口ぶりとは違い、アドルファスの口元は緩んでいた。意地の悪そうな顔でふたりを見守っている。
「……本当に?」
 うっかり聞き逃しそうなほど小さな声が聞こえた。
 勢いよく顔をあげると、泣き笑いのような表情がそこにあった。
「わたしも、あなたと離れるのは嫌です」
 囁きとともに少しだけひんやりとした指がミシェルの頬に触れる。
 そのまま撫でるように指が動くので、ミシェルはくすぐったそうに身じろぎする。
「……魔物はなかなか欲深いですが、人間のミシェルには耐えられますかね」
「えっ」
 目を見開いて声をあげる。ミシェルの視線はクリストフとアドルファスの間を行ったり来たりだ。
 意味ありげなアドルファスの表情に、少しばかり不安がよぎる。しかし今のミシェルには問いただす余裕はない。
「その辺りの話はまた今度にしましょうか」
 名残惜しそうに指が離れる。
 最後にミシェルの髪を一度だけ撫でて、クリストフは促す。
「さぁ、そろそろ出発してください。明るいうちに村に着いた方がいいでしょう」
「うん」
 ミシェルは頷き愛馬の元へと駆け寄る。
 涼やかな風を受けて、栗色の髪がなびいた。
「それじゃあ、いってきます!」
「いってらっしゃいませ、ミシェル。お気をつけて」
 ミシェルを乗せた馬はゆっくりと走り出した。

- La Fin -


『Mon petit mouton-モン プティ ムトン-』これにて完結です。
短めのお話だったわりに完結まで時間がかかってしまいました。

読んでいただきましてありがとうございました。




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