月華抄 序章
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 空が赤く燃えている。

 初めは小指の先ほどだった火は、集落を一気に舐めつくし炎となった。
 ごうごうと燃え盛る炎は、草や木だけではなく大気ですら――そこに存在する全てのものを飲みこむかのごとく燃え広がっていった。
 辺りにはきな臭い匂いが立ちこめて、息をすることもままならない。
 ただひとりを除いては。
 猛火に包まれ逃げ惑う人々は口々に何かを叫んでいたが、黒い煙と真っ赤な火に巻かれて、やがて悲鳴も聞こえなくなっていった。
 今この光景を目撃する者がいたならば、あまりの残酷さに目を背けただろう。
 見回せば、人の形をした黒い塊がところどころに倒れている。
 助けを求めるか細い声が聞こえる。
 そんな中。生存者なのだろうか。その男は涼しい顔で炎を見つめていた。派手な模様の水干を着崩して平然としている様は、何とも異質だ。
「――ふん。もう少し楽しめるかと思っていたんだが。期待外れだな」
 実に白けた様子で一瞥する。
 男はその様子を無機質な瞳で眺め続けていた。だが、ふと何かに気づいたかのように天を仰いだ。
 赤く染まった夜空には、丸い月が浮かんでいる。欠けることのない真円は通常白く輝いているはずなのだが、このときばかりは違った。火事で生じた炎と煙によって、赤黒く変色しているように見える。
 目をふたたび周囲に向けて、男はつまらなそうに独りごちた。
「なんだ。月を崇めて加護を得ている一族とは、ただの噂だったか。確かに、人ならざる力を持っているようだが……人は所詮、人であったか。つまらんのぉ」
 なかなか面白みのある道化芝居ではあったが……とんだ無駄足だ。
 男は冷淡な態度でそう思うと、この場を去ろうと歩き出した。
 炎の勢いはまだ治まっていない。
 燃えるものがなくなれば自然と消える。火を熾した自分が消さなければならない理由はない。こんな山奥の集落がひとつ消えたところで、困る人間もいない。
 男はため息をついた。本当に時間の無駄だった、と。
 赤く染まる村を背にして去ろうとして――歩みを止めた。
 視線を感じた方向についと目をやる。僅かに細める瞳には、今度は愉快そうな色が浮かんでいた。
「生き残りか? 知らぬまま死んでいれば苦しまずに済んだものを」
 もしくは、さっさと逃げていれば気づかれなかったはずだ。
 いまだ燃え尽きる様子のない村を背にして、ひとりの少女が立っていた。肩口で切り揃えられた黒髪が、炎に照らされて赤く見える。
 年齢は四、五歳だろうか。体つきと眉上の前髪でそう判断した男は、じっと少女を見据えた。
 睨めつけても、少女は怯えることもなくそこに立ち続けている。
「何の用だ? この俺に仇討ちでもしようっていうのか?」
 鼻でせせら笑う。
 こんな小娘。ひねり潰すのは簡単だというのに。
 男の唇が妖しく歪んだ。
 だが、自分の置かれた状況がわからないのか、少女は微動だにしない。すぐ近くで炎の爆ぜる音が聞こえても、同じだった。
 ふいに男が真顔になる。視線は少女のまま、神経を集中する。
 この娘は囮で、生き残りが自分を狙っているのではないか――そんな思いが胸をよぎった。
 しかし気のせいだったらしい。
 殺気や人の気配は感じられない。この少女を除いては。
 少女は瞳に男の姿を映したまま動こうとはしなかった。何を考えているのか、それとも集落の惨劇に驚いて魂を飛ばしてしまったのか。判別がつかない。
 同じように見つめ返して、男は少女を観察する。
 幼い割には利発そうな顔立ちだ。身に着けている着物は簡素な物だが、よく見れば全体に施された刺繍が細やかで、なかなかの代物だと見て取れる。煤で汚れていなければ、それなりの値がつくだろう。
 山奥で幼い子供がこれを着ている。それが意味するのは、この子供が特別な存在だということだ。
「長の子供か、はたまた神の子供か」
 男が楽しげに笑う。
「お前が、村に火を点けたのか」
 外見年齢に似合わぬ凛とした声で、少女が言った。
 男は笑うのを止めた。妖しく細めた瞳が興味深いと語っている。
「そうだ、と言ったら? 仇討ちでもするか?」
 少女は答えない。
 男がはっとしたように顔を強張らせる。
 己の身を焦がしている炎に気がついた。知らず忍び寄っていた炎は、あっという間に男の全身を包みこんだ。炎が這う袖をはためかせている姿はまるで火の鳥だ。
 炎に嘗め尽くされて肌を焦がされても男は動じない。愉快そうに口元を歪めただけだった。
「なるほど。少しは使えるらしい」
 男は言って、ついと腕を宙に滑らせた。全身を包んでいた炎が男の右手に集まる。見る間に炎の玉となり、その勢いを増した。
 熱風が男の髪を煽る。
「お前の力には興味があるが……肉体は邪魔だな」
 炎の玉が宙に浮く。ふわふわと男の横に漂っていたそれは、一瞬にして少女の元へと飛んでいく。
 全身を炎に飲みこまれるが、少女は感情を表に出さずに立ち尽くす。しかし瞳は真っ直ぐに男を見据えていた。
「お前の魂は、この俺が大切に使ってやろう。ありがたく思え」
 少女は男の高慢な態度にも表情を変えることはなかった。
 男の目が冷たさを帯びた。
 こうも反応がないと、興が削がれるというものだ。
 呟く男の顔には不快の色が浮かんでいる。嘆息して、ぱちん、と指を鳴らした。
 途端に少女の眉が歪む。
 炎に焼かれていく少女の肌は、今はもう白さを失っている。黒く変色し、見るも無惨な状態だ。
 ごとりと音をたてて少女が倒れた。それっきり動かない。
「ふん……」
 右手を前に突き出して、男は何かを掴む仕草をした。傍目には空気を掴んだようにしか見えない。その手を握ったまま袖の中へと引き入れ――顔をしかめた。
 掌がじくじくと痛む。真っ赤な炭をうっかり素手で掴んでしまった、そんな熱さが掌に広がった。
「……やりおったな」
 目を眇め悪態をつく。だが、男は言葉に反して愉快そうに笑っている。痛みさえも楽しんでいた。
 男は冷笑を浮かべたまま踵を返す。
「うん?」
 ふいに立ち止まり、目を後方へと滑らせた。
 炭化した少女が息を吹き返したのかと思ったのだが、勘違いだったようだ。黒焦げのソレはぴくりとも動かない。
 しかし男は訝しげに辺りを見回す。どこかに生命体の気配を感じた。気のせいではない。
 やがて一点を見据えた。崩れた建物の影。近づき、重なる瓦礫を蹴り上げる。
 そこに、生命体がひとつ存在していた。
 上手い具合に倒れたのだろう。気を失ってはいるが、胸が上下するのが確認できた。
「……珍しい色だな」
 思わず感嘆の声をあげた。
 それは、少女だった。
 先ほど始末した少女と瓜二つ。だが、色が異なる。普通の人間はあまり持ち得ない色だ。
 眠る少女を不躾なほど見つめていた男は、やがて少女の首に手をかけた。そのまま一気に力をこめようとして――やめた。口元に笑みを刷き、そっと手を離す。
 この集落で何が起こったのか知る由もないだろう。少女は眠ったままだ。もしかしたら、生き残れる可能性に賭けて、何者かが術をかけたのかもしれない。
 男はしばらく思案顔をしていたが、すぐさま満面の笑みを浮かべる。
「面白く……なるかもな」
 少女の髪を愛おしそうに撫でて、そっと囁く。
「生き残りよ……。お前は、俺を楽しませてくれるのか?」
 男の問いに返事をする者はいない。

 空は、真っ赤に染まったままだ。



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