月華抄-月隠- 1−1
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 虫の鳴く声が聞こえる。
 まだ太陽は昇っておらず、辺り一帯は静かだった。――否。時折、牛車の揺れる音や野犬の吠える声がかすかにする。
 更に耳を澄ませば、暗闇の中に人ならざるモノの声もする。ただしそれは、摩訶不思議な現象を起こすモノの類が視える者でなければ気づかないだろう。
 この国には人間以外が存在している。
 まず神様と呼ばれる数多の霊魂。その他、妖や物の怪、魔物などと呼ばれている存在が多数。妖たちは、時に人を化かし、時に人を助け――人間と人ならざるモノが、無意識ながらもひとつの国に共存している。
 日の昇る時間は人間の天下だ。妖たちは民家の軒下や廃墟となった建物の影で身を潜める。逆に、月の昇る時間は妖の天下となる。
 しかし闇夜だからといって、静かに休む人間ばかりではない。視界の悪い夜にこれ幸いと悪事を働く者もいた。
 特に厄介なのは、悪人が呪術を使用して凶行に及んだ場合だ。どこで身につけたのか、彼らの中には常人に術をかけ、難なく犯行を行う者もいた。悪質な者は捕まえた妖怪を手懐けて、誰かにけしかけたりもする。
 ただでさえ闇路は視界がきかなくなる。対抗できる能力を持たぬ人間は、襲われてもなすすべもなく己の不運を呪うばかり。
 だが、救いになるものは必ずある。
 呪術を扱えるのは悪人だけではない。不可思議な術を用いて手助けをする人間もいる。
 目に見えない力を使い、目に見えないモノを退ける。そうした術を扱う者のことを、力を持たない常人たちは陰陽師∞法力師∞方術師≠ネどと呼んで、たいそう重宝していた。
 術者は単に妖を祓うだけではない。星を視て、方位を視て――人を視る。
 人々の頂点に立つ時の権力者すらも彼らには一目置いて接していたという。

 時の帝が治める都は、南北に長い方形の形をしている。北から南へはしる中央の大路で左右ふたつに分かれ、右京、左京と呼ばれる。それぞれ東西南北にはしる小路が設けられており、後に碁盤の目のようだ、と例えられた。
 さて、左京にある五条界隈には、とあるやしきがあった。
 下流ではあったが貴族の邸で、庭には小さいながらも南池がある、立派な寝殿造だ。古式にならって右近の桜、左近の橘も栽植されている。
 橘と桜の木の他にも、一年中楽しめるようにと様々な草木が植えられてあった。主人とその客人は、事あるごとに正面の簀子から四季折々の景色を眺めていたという。
 外からでも庭の見事さがうかがえると評判であったが、邸の主が亡くなってからは雑草がぼうぼうと伸びて荒れ放題となってしまった。
 空き家となれば近づく者も少ない。邸自体に問題がなかったためか、やがてならず者が住み着くようになってしまったという。
 困ったのは周囲に住む者たちだ。
 無人の家には妖が棲みつきやすくなる。それだけでも恐怖を感じるというのに、悪人が家の近くで横行しようとしているのだ。
 妖は気をつければさほどの脅威はなかった。奴らは夜にしか活動しない。だが相手が人間では話は別。こちらは昼夜関係なく襲ってくる。
 されど心配には及ばなかった。
 荒廃を懸念した元主人の縁者が邸の管理をすることとなったためだ。

 まもなく夜が明ける。
 邸の新しい主人は塗籠でいまだ眠っていた。
 だが様子がおかしい。額には汗が浮かび、呼吸も荒い。時折苦しそうに首を振った。よほど酷い悪夢でも見ているのか、眉間には深い皺がよっている。
 そのとき、閉じられていた塗籠の扉が音もなく開いた。薄明かりの中、人影が揺れる。塗籠の中を確かめて、その者は足音も立てずに忍びこんだ。
 主はそれに気づく様子はない。荒い呼吸を繰り返している。
 眠り続ける家主の上に人影が落ちた。
「――さま……」
 侵入者が小さく声をかける。だが返事はない。主の横に膝をつき、再度声をかけるが同じだった。次に肩を軽く揺すってみる。それでも目を覚ます気配はなかった。
 空が白んでくると、薄暗かった邸の中も次第に明るくなり始めた。
「困りましたわ……」
 呟く声は女のものだ。
 やがて昇った陽の光が扉を開け放った塗籠の中にも差しこみ、女の姿が露になる。
 彼女は藍色の袴の上に、狩衣に似た白い衣という、実に簡素な格好だった。長い髪は左耳の後ろで角状に纏めている。麗しい少年のようにも見えるが、胸元の花を模した青い紐飾りが女性らしさを醸し出していた。
「……」
 青い瞳が細められた。見下ろす形で己の主人を見つめている。彼女が何を考えているのか、表情からはうかがえない。
 女はしばらく思案していたが、そっと手を伸ばす。今度は少し強めに身体を揺すった。
桔梗ききょう様」
 眠っている者の瞼がかすかに震えた。
「――っ」
 薄く開かれた唇から、喉に詰まっていた息が吐き出された。数回呼吸を繰り返してから、桔梗の瞼が開いた。
「……るり?」
 少し掠れた声は、今も夢と現の狭間を彷徨っているかのようだった。枕元に座る女の姿を認めたものの、ぼんやりとしている。
「おはようございます、桔梗様。朝寝坊ですわ」
 にっこりと瑠璃が笑う。
「あ……うん。そうだね」
 まだ完全には覚醒していないのだろう。桔梗は横たわったままそう答えた。
「まぁ、桔梗様ったら。打乱筥うちみだればこはお使いにならなかったのですか?」
 打乱筥とは、普段着る衣類や、眠るときに邪魔にならぬよう長い髪を入れておく箱のことである。
 瑠璃は離れた片隅にそれがあるのを見つけて問うた。
「あーうん。昨日は疲れていたから、あまり考えないで横になったかな」
 まだぼんやりとしている桔梗に対して、瑠璃は盛大なため息をついた。
「なんということでしょう! 髪は女の命だというのに、桔梗様は……御髪が乱れてますわ」
「それほど長くはないし……」
「では、言い換えます」
 異論を唱えるものの瑠璃も引かない。
「髪には霊力が宿る、と玄翔げんしょう様も申していましたでしょう? 大事にしていただかなくては」
「わかった」
 桔梗は素直に非を認めた。
 ここで反論しようものなら、余計な話まで出るに違いない。
 やがて意識がはっきりしてくると、桔梗は床に手をつき起きあがろうとする。――が、眉をひそめて一瞬動きを止めた。
「桔梗様? どうしました。先程もうなされていましたが……」
「ちょっと、頭痛がする。夢見が悪かったからかな」
 こめかみを指で抑えながら答えると、瑠璃は笑みを消し去って桔梗を見つめる。
「頭痛ですか。では、しのぶ様にお薬を煎じていただきましょう」
 桔梗は首を横に振った。怠さもあるが、少し経てば大丈夫だと思った。
「いや……一時的なものだと思うし、平気……」
「駄目です! こういうときは早期対処が大事なのですから! 桔梗様に何かあったら、玄翔様に顔向けできません!」
 桔梗の言葉を遮り、瑠璃は立ちあがった。
 素早い動きで退出した彼女を見送って、桔梗は唖然とした後に苦笑いする。
 心配してくれているのは、とても嬉しい。だがしかし、大袈裟過ぎやしないか。
 桔梗は困ったように息を吐き、緩慢な動きで塗籠を出た。
「まぶし……」
 外の明るさが目に沁みて、思わず瞼を閉じた。陽の光に慣れるまで瞬きを繰り返す。
 ようやく普通に見えるようになってから、桔梗は重だるい身体を引きずり移動する。
 角盥つのだらいが庇の定位置に置かれている。起きてすぐに使えるようにと、瑠璃が毎朝用意しているのだ。
 角盥には水がなみなみと入っている。顔を洗うために覗きこむようにすると、当然ながら自身の顔が映った。
 桔梗は水をすくいあげようとした手を止めて、しばし水鏡を凝視する。
 そこに映るのは己の姿だ。色素の薄い髪と赤みがかった瞳。この辺りではほとんどいない色。
 寝汗で首や頬に貼りついた髪を無造作に払う。なびいた髪は日光を反射して銀色を帯びた。
 桔梗は自嘲気味に嗤う。
 初対面の者から化生の血を引いている、と指をさされるのはとうの昔に慣れた。この姿は何か意味があるのだと己に言い聞かせて過ごしてきたものの、ふとしたときに、この忌色が目につく。
「……異形の……」
 ぽつりと呟く。
 水鏡に映る瞳に、仄暗い炎が宿った気がした。心なしか周りの空気も澱んでいる。
「……」
 乾いた音が響いた。桔梗が自分の頬を叩いたのだ。
 桔梗は両手でひとしきり頬を叩き、赤く色づく頃にやっと手を降ろした。そうして深く息を吐く。
 取り囲んでいた昏い陰は綺麗に消えた。
「よし」
 自身に言い聞かせるように頷くと、桔梗は手早く顔を洗い身仕度を整える。着慣れた薄色の水干すいかんに袖を通す頃には、まだ少し霧がかかっていた頭がはっきりとしてきた。
 仕度に時間がかかると、何かあったのかと瑠璃たちが心配するだろう。いくら相手が女房でも、何度も様子を見に来させるのは心苦しい。
 服装の乱れがないか確認して、北の対屋へと足早に向かう。そこには瑠璃によく似た女がいた。
「玻璃、おはよう」
「おはようございます。桔梗様」
 表情をひとつも変えることなく玻璃はりが言う。
「桔梗様。文が届いております」
「文? 一体どこから」
 誰からなのか思い至らない。知人からであれば、玻璃はそう言うはずだ。
 桔梗は眉をひそめつつ円座に座り、差し出された文を受け取る。
「これ……」
 思わず目を見張った。
 文に使われている和紙は、くれない薄様うすようと呼ばれる薄手の鳥の子紙だった。
「身なりの良い童が持ってきましたが、主の名は明かしませんでした」
 ほんのりと香りが漂った。
 文そのものに香を焚きしめるなどという行為は、一般人はやらない。香を焚きしめた上質な和紙の文。こういった雅な物を送ってくる貴族の知り合いもいない。
 訝しみながら文を開くと流麗な文字が現れた。和歌が一首綴られている。他には何も書いていない。
 筆跡には書き手の個性や人柄が表れる。乱れのない流暢な文字から、この文の送り主は高貴な家柄か、もしくはそれに近い身分であることがうかがえた。
 文に目を通していた桔梗の眉間に深い皺がよる。



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