月華抄-月隠- 3−2
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 鬼のよろず屋を後にする頃には、太陽は高い位置にあった。
 市井の朝は早い。普段はまだ陽が昇る前から動き出すのだが、今朝は夢見が悪かったおかげで始動が遅くなってしまった。
 少し急ごう、と桔梗は足を早める。
 今日は玄翔の邸へと赴く予定にしていた。本日訪問する、と約束をした訳ではないのだが「まめに顔を出せ」と言われているからには、やはり時間のあるときに訪ねた方がいいだろうと考えたのだった。
 活気の収まらない市井の小路を足早に進んでいた桔梗だったが、その歩みが時折緩慢になる。
「さぁさ、寄ってきな。安くするよ」
「おう兄さんお目が高いな。こんなのもあるぜ……なに? 高い? それだけの価値はあるんだぜ、こいつはなぁ――」
 売りこみの声が飛び交う。
 路の左右に並ぶ露店を人だかりの間から覗き見るが、完全には足を止めずに歩いていく。
 よろず屋ほどではないのだが、ごくたまに掘り出し物や、異国から入ってきた様々な物が陳列される。そんな物品を見るだけでも楽しいし、珍しい物には心惹かれる。
 物欲がない、と思っていたのは己の勘違いだったと、市井に顔を出すようになってから桔梗は気づいた。
 だが、やはり、今日は駄目だ。
 後ろ髪を引かれる思いはあるものの、確固たる意思で欲望を切り捨てる。
「――っ」
 真っ直ぐ前を見て歩いていた桔梗は、不意に横からの衝撃を受けてよろめいた。そのまま地面に倒れこむ。
 被っていた袿は倒れた拍子に桔梗の頭を滑り落ちていく。
「あぁ、すまない。わたしがよそ見をしていたから。怪我はないかな?」
 市井にいる者にしては随分と物腰の柔らかい男の声だった。しばしぽかんとしてから頷くと、目の前の男がにこりと笑った。
 きゃあ、と黄色い声がした。
 声のした方を向くと、顔見知りの店番の若い娘が男を見ている。見つめていると言った方がよいかもしれない。娘の頬がほんのりと赤く染まっていた。
 市井の中心部から少し外れた場所のため、辺りには人はまばらだった。だが往来する人々は、路の中央に立つ青年と、座りこんだままの桔梗に迷惑そうな視線を投げた。
「おや、きみは……」
 男に凝視されて我に返る。反射的に頭に手をやって、内心しまったと思う。被っていた袿は先ほど落としてしまい、銀色と見紛う髪は人目に晒されている。
 桔梗が拾い上げるより早く、青年が袿を手にして、反対側の手を桔梗に差し出した。
 少し迷ってから桔梗が手を伸ばすと、青年は優しくその手を掴んで立ち上がらせた。それから袿の砂埃を軽くはたき落とし、桔梗の頭にそっと被せる。
「ありがとう、ございます」
 一連の行動の間に青年を観察していた桔梗は、たどたどしく礼を述べた。
「いや、こちらこそ」
 青年が笑みを浮かべる。――と、一際高い嬌声があがった。今度は複数だ。
 そちらを見ずともどんな様子か想像がつく。きっと、後で何を話していたのかと聞かれるのだろう。
 好奇に満ちた彼女らの目が矢となり全身に突き刺ささってくる気がして、桔梗は苦虫を噛み潰したような顔になる。
 青年は烏帽子に直衣のうしといった、ごく普通の貴族の格好だ。だが、その内から滲み出てくる高貴な雰囲気は市井に似つかわしくない。
 庶民中心と言えども市には全国から様々な産物が集まるから、貴族も一目置いているらしい。しかし大抵は下人に命じて見にこさせるか、商売人を邸へ呼びつけるかだ。こうして自らが出歩いているのは非常に珍しい。
 なぜ彼のようなひとが市井にいるのか。疑問符が浮かぶ。
「きみは、噂の術師かな?」
 青年が口を開いた。
「噂、がどのようなものかわかりませんが、おそらくそうでしょう」
 言葉を選びながら桔梗は答える。
 貴族らしいと思うだけで、青年の正体も、自分に話しかける目的も不明だ。彼の機嫌を損ねたり、うっかり不利な話をして玄翔に迷惑をかける訳にはいかないのだ。
 青年は笑顔を絶やさないが、彼の内面を窺い知るのは難しい。
 陰陽頭が弟子にとった異形の女。
 市井で不思議な力を扱う女。
 どちらの噂なのか、もしくは両方なのか。
 単なる好奇心なら慣れている。それに、彼から興味深く観察されている気配を感じるが、不思議と嫌な視線ではない。
 桔梗は次の言葉を待った。
「そうか。一度会ってみたいと思っていたから。こうして会えて嬉しいよ」
「何か困ったことでも? それでしたら、見習いのわたしよりも陰陽寮へ依頼された方がよろしいかと思いますが」
「違う違う」
 一瞬きょとんとした青年は、すぐに言われた意味に気づいて否定する。
「今のところ難事はないよ。もしあれば、まずは玄翔様に相談する」
 己の師匠が信頼されていることを誇りに思い、桔梗は全身に張り巡らせていた緊張を解く。
「では、どのようなご用件でしょうか」
 重ねて訊ねると、青年は困ったのか柳眉をひそめた。そんな何気ない仕草でさえ雅やかだ。
「これといった用事はないかな。玄翔様の秘蔵っ子だという弟子に興味を覚えてね」
「はぁ……」
 何と返せばいいのかわからず、少し間の抜けた声をあげる。
「それでしたら、やはりわたしではなく他の者が適切かと思います」
 桔梗はそっと否定した。
 同じ年頃の仲間とは、学問の向き不向きを除けば力の差はほとんどない。兄弟子たちは、先に勉強しているだけあって知識が豊富だ。
 秘蔵っ子、という言葉は兄弟子の誰かに相応しいと思う。
「そんな謙遜を」
 青年は肩を竦めた。
「玄翔様にきみの話は聞いているからね、桔梗殿。物覚えも良く、将来有望だといつも嬉しそうに話されているよ」
 出し抜けに名を呼ばれて目を瞠る。
「わたしの名をご存じでしたか」
 桔梗はたいそう驚いた様子で聞いた。
 複数回話題にしたとしても、まだ半人前の弟子の名を覚えているとは。
「ん……まあね」
 意味ありげな表情をする青年の内心は、やはりわからない。注意深く観察してみるが、柔らかく笑んだ顔を崩さぬままだ。
 青年が一歩近づいた。
「どこかでゆっくりと、きみと話をしたいものだが……時間はあるかな?」
 突然の誘いに面食らいつつも、桔梗は平然を装う。
「あいにくと先約がありまして」
 訪問予定の玄翔と約束はしていない。
 嘘を吐くことに少しばかり罪悪感を抱いたが、青年の素性も目的も不明なのだ。彼がいくら人が良さそうに見えても、頭から信用するのは避けるべきだろう。
 桔梗がそんな風に考えているとは思いもよらない青年は、
「そうか。朝顔の花は、やはり早朝に愛でないと駄目かな」
 残念だと言わんばかりに声の調子を落とした。
「わたしの名前は高彬たかあきら。今度会えたときにはお茶くらいはつきあってほしいな。……ではまたね」
 高彬は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
 桔梗が何か返すよりも早く、彼は人混みに紛れて行ってしまう。目で追おうとしても、もうその姿は見えなくなっていた。
「……」
 一年分の疲れが出た気がして、桔梗は深いため息を吐いた。
 高彬と名乗った青年に対してと、自分にだ。
 上品でありながらも様々な浮名を流していそうな彼は、自分に気をつかってくれていたのだろう。きっと。もっと、気の利いた受け答えができなかったものか。
 こればっかりは、人と交流して経験を積んでいくしかないのだが――彼のような態度で接しられる経験は、後にも先にもこれっきりのような気がする。
 ――そろそろ行こうか……。
 朝よりも重くなった気がする身体に鞭を打ち、桔梗は玄翔の邸を目指した。



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