都の外れにある市井は、路上の片隅で遊ぶ子供たちの声と、飛び交う客引きの声で活気に満ち溢れていた。 その雑踏の中を縫うようにして歩いていく者がいる。線の細さから、女だということがうかがえた。 彼女は頭から薄手の袿を被り、軽やかな足取りで進んでいた。動きにあわせて白地の袿がひらひらと揺れる。少し光沢のある布が揺れる様は、まるで蝶が舞っているかのようだった。 「――さん」 己を呼び止める声を耳にした気がして、女は立ち止まった。 周りに人が多すぎたためか、女は声の主を発見できなかった。きょろきょろと見回してから僅かに首を傾げる。そうして、気のせいだったのだろうとひとり納得して行きかけたところで、 「桔梗さん! こっちこっち!」 もう一度呼び止められる。 振り返った桔梗は、あ、と小さく声をあげた。人々の隙間から、恰幅のよい女が右手を上げてこちらを見ている姿が目に映った。 「ごめんなさい。ちょっと通して」 声をかけ、人々の間をすり抜けながら目的の場所へと進む。 呼んだのは野菜売りを生業としている女だった。木製の台の上には色艶の良い野菜が並んでいる。 桔梗が辿り着くと、女は人の良い笑みを浮かべた。 「ごめんよ。仕事の途中だろう?」 女は桔梗が手に提げている風呂敷包みに目をやって、済まなそうに言った。 「いや、大丈夫です。それで、何か?」 訊ねながら、桔梗はあれこれと考えを巡らせていた。 数日前に渡した薬で依頼は完了している。顔色をうかがうが、野菜と同じく色艶の良い肌で実に健康的だ。嫌な気配もないし、他に困った様子も見受けられない。 「この間煎じてもらった薬。あれ効くねぇ。あたしの膝、ほらこの通り」 女はそう言って、自身の足をぴしゃりと叩く。 「まだたまに痛くなるけど、日常生活には困らないよ。おかげで旦那にこき使われてねぇ」 からからと笑う女につられて桔梗は口元を緩めた。 「それは良かった」 「疳の虫がひどかった甥っ子も、禁厭で治まったって言うし。それもこれも、桔梗さんのおかげだよ」 「いや……禁厭はともかく、薬は同居人が作ったものだか……っ」 否定する桔梗の言葉が途切れた。足早に歩く誰かにぶつかられてよろめいたのだ。 「なんだい謙虚だねぇ。その人の紹介人はあんたと言ってもいいんだから、当然だって顔して、もっと堂々としてりゃいいのに。……まぁ、あんたにゃそこいらの貴族のように威張り散らすってのは似合わないしね」 言いながら、女は片手の塞がっている桔梗の代わりに、ずれた袿を直してやる。 「……ここいらの連中は、もう誰も気にも止めないと思うけど」 女の視線の先には、色素の薄い桔梗の髪。薄手の袿は目立つ髪を少しでも他人の目に触れさせないためのもの。 最初の頃に比べて知り合いが多くなったためか、今では異質な桔梗の容姿に驚く者は少ない。 桔梗は首を横に振った。 「意外と洛外からの訪問者が多いからね。騒ぎになって、お師匠様に迷惑がかかっても困るから」 桔梗の説明を受けると、女は眉をへの字に曲げて、うーんと唸る。 「それはそうか。……ところで時間大丈夫かい? 引き止めちゃったけど、あんたどこかへ行く途中だったんだろう? 悪かったね」 女は桔梗の持つ風呂敷包みをちらりと見た。瞳には興味津々といった色が浮かんでいる。 その視線から隠すように、風呂敷包みをごく自然な動作で身体の影に隠す。 「平気です。でも、そろそろ。……ほら、お客さんが来てる」 話を切り上げて立ち去ろうとした桔梗は、女に呼び止められて足を止めた。 「お礼にね、今日取れた大根でもあげようかと思ったんだけど、今渡しちゃ邪魔になるかねぇ」 「あとで瑠璃がこの辺りに来ると思うから、そうしたら渡してほしい」 「わかったよ」 短く返事をして、野菜売りの女は接客に戻っていった。 桔梗は右手をあげて簡単な別れの挨拶をすると、踵を返して歩き出す。 ふたたび人々の間をすり抜けながら歩いていくと、桔梗は野菜売りの町屋から少し離れたところで立ち止まった。 市井の路に並ぶ町屋は、大抵どこも似たりよったりだ。この辺りに住む者たちは、通りに面した一部を店にして、奥は住居として使用している。 桔梗は、とある町屋の入口に設けられた板扉を拳で軽く叩いてからそっと引き開けた。 「こんにちは。邪魔するよ」 いつも通りに声をかけて足を踏み入れる。 足元を黒い塊が横切ったが、桔梗は一瞥しただけで素知らぬ顔をする。 町屋の中は、短冊形などと呼ばれるように奥行きが長い。 その手前のところに背の高い棚や、桔梗の腰くらいの高さの台があり、色々な物が並んでいた。表面が汚れた書物や、口縁が欠けた壺。骨董品を扱っているのかと思いきや、反対側には真新しい小袖が綺麗に畳まれて置いてある。ここは何を得意分野とする店なのか不明なほど、品揃えは様々だ。 採光の窓と、入口の反対側の戸が開いているにもかかわらず室内は暗く感じる。うっすらと黒い霧がかかっているかのようだ。 桔梗は被っていた袿を取った。板の間の端に座り、店主が出てくるのを待つ。 やがて奥から物音が聞こえ、人影が見えた。 「おう。待たせたな桔梗さん」 のそりと現れたのは大きな男だった。 平民の割にはがっしりとした身体で、もしも彼が暴れ出したら、何人かで束になってかからなければ止めることは不可能だろう。だがその印象とは裏腹に、眉が八の字に下がった人懐こい風貌である。 「この間預かった巻物。終わったから持ってきたよ」 終わった、とは、巻物に憑いていた邪気を祓ったということだ。 「ありがたいっ。これはなかなかの代物なんだが、異形の手付きは嫌だとみんな怖がってなぁ」 言いながら、店主は巻物を受け取ると自身の目線にあわせ、陽に透かすような動作をする。 そんな男を半目で見ながら、 「……今も、ある意味異形の手付きだよね」 ぼそりと呟く。 ――と、店主が不服そうな声をあげた。 「ひでぇなあ桔梗さんは。こちとら数十年、人肉は喰わずに精進してるってのに」 店主が笑った拍子に、尖った歯が口元から覗く。 「それはわかっているけれど」 桔梗は何とも表現しがたい顔になる。 人間と異形は本来相容れぬものだが、双方は無意識ながらも互いの領域を守り暮らしている。 しかし、こうして異形が当然と言わんばかりに人間社会で生活しているのは、いささか問題ではないか。 桔梗の考えを読んだのか、店主は豪快に笑う。 「あんたが心配するのはわかるが、おれは二度と人間を手にかけることはしない。約束するぜ」 はっきりと言い切った瞳には曇りはない。それを認めた桔梗は、相手の目を真っ直ぐに見つめて頷く。 「嘘を吐いていないことはわかる。信用している。けど、妖が人間と交流しているのが不思議な感じだから、たまに戸惑うだけだよ」 店主は八の字眉をさらに下げた。 「それは……誰も知らないからな。おれの正体を知ってるのは、玄翔さんと、あんたと。あとは、あんたの知り合い数人くらいか? この辺りの連中はおれの正体に気づいたら、あっという間に他所へ逃げるだろうなぁ」 陽気な口調であるものの、言葉の端々に沈痛な雰囲気が漂っている。 「そうだね。生き物は、自分たちと異なるものに対して敏感だから。悲しいけれど」 「なぁに。人間も妖も変わらんよ。いつもは抑えていても、何かのきっかけで理性がおかしくなっちまえば、己の欲望のまま動くからな。我を忘れた人間ほど質の悪い生き物はいないさ。……こっちは山奥に引っこんでるってのに、わざわざ探して鬼退治なんてする輩もいるし」 言いながら、店主は立ち上がった。背後の棚に桔梗が持参した巻物をしまって、また戻ってくる。 「おれからしてみりゃ、本性を隠してる人間の方が恐ろしく感じるが、連中はそうでもないみたいだな。普段妖と呼んでるモノは、大体が人間の欲望やら憎悪やら……渦巻く激しい感情から生み出ているものだってのに。悪いのはいつも人間以外だ」 桔梗が苦笑いする。 いくら外見が普通と異なっているとはいえ、分類上は人間に属する自分に人間は悪≠ニ言わんばかりの意見を述べてくるのだ。しかも自分は悪しきモノを祓う力を持っている。 「で、何が言いたいかってぇと、あんたは見た目がどうであろうと堂々としてりゃいいのさ。市井の連中は、みんな頼りにしてるし、あんたには巧みに人を騙すような器用さはないって知ってるからな!」 そう言って店主が笑う。 言葉選びが少々乱暴だが、慰めてくれていることは理解できた。 「じゃあ、がっかりされないようにもっと精進しなきゃね」 桔梗は笑い返して、 「邪魔したね。また、わたし向きの仕事があったら声をかけてくれるとありがたい」 立ち去ろうとしたが、呼び止められて足を止める。 「ちょっと待ってくれ。礼を……ええと、何か欲しいもんはあるかい?」 「しばらくいらないよ。うちの門と塀を直してもらったからね」 「それは駄目だ。ちゃんと対価を受け取らなきゃ。仕事の価値が下がっちまう」 大袈裟なくらい表情を作り店主が嗜める。ふむ、と考える仕草をして、彼は棚を漁った。 「銭が渡せればいいんだが、あいにくなくってなぁ……大体が物々交換だから。うーん……何かいいもんはないか」 あれでもない、これでもないと店主はぶつぶつ言う。 「最近入った檜扇はどうだい? 職人の技が光る一品なんだが」 桔梗は首を横に振った。 「使う機会がないと思う」 「それじゃこいつはどうだ。なんでも良く切れる小刀。護身用にもいいぞ?」 しばらく考えてから桔梗が答える。 「たぶん使わないかな」 「そうか」 店主は困ったように眉を下げて、隣の棚へと移動する。見つけた書物を手に取り唸った。 「これは……いらないだろうなぁ……陰陽道虎の巻」 「お師匠様から譲ってもらった書物で今は足りているかな。……本当に何もいらないよ」 「いやいや。そうはいかん」 一通り棚を漁ってから、店主は肩越しに訊ねた。 「欲しいもんはなんにも思いつかないかい?」 「じゃあ……」 呟いて桔梗はしばし考える。 「書き付け用の紙はあるかな? あればあるだけ困らないから」 「あるぞ」 店主の顔がぱあっと明るくなった。客が望む商品を渡せることに喜びを感じているようだ。 彼は大きな身体を屈めて棚の低い位置から何かを取り出すと、笑顔のまま振り向いた。手には薄桃色の紙の束がある。 「これで恋文を書くと、どんな相手でも落とせるという不思議な和紙だ」 「いや普通の紙にしてほしい」 即答すると、店主は肩を落とした。 「普通のももちろんあるが」 随分と不服そうだ。 桔梗は眉をひそめ、 「そんな、得体の知れないモノが憑いていそうな物を術者の端くれがもらっても、どうしようもない」 にべもない返事をする。 「残念だなぁ。それじゃこっちだ。上質の紙だが、安く手に入ったんだ」 差し出された今度の紙は真っ白だ。銀砂が漉きこまれているのか、紙を動かして光を当てると雪原のようにきらきらと光る。 それを風呂敷に包んでもらい、桔梗は右手に提げた。 「いつも来る度に思うけど、色々な商品を揃えているんだね」 「うちはどんなもんでも客が欲しがってるなら対応するぜ!」 自信満々に胸を張る店主に気づかれぬようため息をつき、桔梗は袿を被る。 あまり怪しい物を売らないでほしいのだが、口出しできる立場でもない。 桔梗は努めて笑顔を作ると口を開いた。 「それじゃあまた。紙、ありがとう」 「おうよ! 最近、大路で妖を見たって連中がいるから気ぃつけてな! ……って、あんたは大丈夫か」 外に行きかけた足を止めて振り返った。 妖は様々な場所に存在している。道端の隅に、草木の影に。朽ち果てた邸跡に。 普段は目にも止めないところに、妖たちはひっそりと身を潜めている。大半はそうやって隠れているから、不容易に怪しい場所へ近づかなければ危険は少ない。 しかも、祓う力を持っている人間は、不意に異形に出会っても常人よりかは対処しやすいので心配することはない。 だから桔梗は、そんな自分にあえて注意を呼びかけるところに引っかかった。 「妖が出るのか? 大路に」 仰々しく店主が頷く。 「真っ昼間からな。人間を襲ったりってのはなくて、ただ大路を歩いてるらしい。遭遇した奴の話だと、妖と言うよりも幽霊に近いらしいが、おれは見てないしわからねぇな。……もしかしたら知ってるかと思ったんだが、やっぱあんたも知らないか」 どうやら鎌をかけられたらしい。 「うん」 つい先ほど大路を通ってきたが、怪しい気配は感じられなかった。 「おれも聞いただけで、実際それが何なのか……」 「幽霊、か」 桔梗の呟きに、店主は肩をすくめた。 「被害が出てる訳じゃないから、気にするほどじゃないとは思うがな。神出鬼没でどこに出るかわからないって話だし。半透明の人の姿だから、見た連中は幽霊って呼んでいるようだ」 「……もしも、わたしがそれに出会ったら、退治させようって魂胆か?」 しばし考えを巡らせてから、見当をつけて質問すると、店主は大袈裟に首を横に振った。 「とんでもない! 滅相もない! ただの興味本位さ。正体不明の同族が近くにいるってのは、ちぃと気味が悪いが」 大きな身体を縮こませる男の姿に苦笑する。図体の割りに気が弱いようだ。 「別に構わないよ。でも、害をなさないうちは何もできないよ? 気に止めておくけれど」 被害がない間は手出しできない。妖と呼ばれるモノが減りすぎても多すぎても、陰陽の均衡が崩れてしまう。調和しているものが崩れたら、何かしらの不具合が出る。 今はまだ手出しができないがそれでもいいのなら、と承諾すると、店主の表情が見る間に変わっていく。今まで見たことがないような良い笑顔だった。 「そいつはありがたい。人が出歩かなくなったら商売あがったりだからな」 嘆いたり喜んだりと忙しい。 そんな店主の様子に思わずふきだしてしまう。ややあって、桔梗は口角を上げて、 「大路に妖がいることよりも、鬼がこんなところで人間相手に商売していることの方がおかしな話だと思うけれど」 わざと冷たい口調で言った。 鬼と呼ばれた店主が、にぃ、と笑う。頭部にうっすらと角が見えたのは、桔梗の気のせいではない。 「ひっでぇなぁ。だいたい『人肉を喰らう代わりに、人間の精気をすこーしいただけば問題ないだろう』と言ったのは、あんたの師匠だぜ? 文句はそっちに言ってもらわねーとなぁ」 負けずに言い返す店主と桔梗の間に笑いが起きた。 市井には様々なモノもいる。 初めて存在を知ったときには、驚くと同時になんてことを言い出すのだと頭痛を覚えた桔梗だったが、改めて考えて、良い方法だと思う。 精気を少し、ならば、取られた人間は疲れる£度で済む。それすらも困った事柄ではあるが、人が消えることに比べればまだましだ。第一、年老いた今でも陰陽頭を務める玄翔が決めたことに口出しできる立場ではない。 「信用しているけれど気をつけてね。このことを知っているのはほんの数人だから。いくらお師匠様が決めたことでも、善く思わない連中はいるから」 神妙な面持ちの桔梗を安心させるかのように、店主は手をひらひらさせた。 「いざってときは山奥へ逃げるから心配するな。あんたたちに迷惑はかけないよ。責められたら、おれに脅されてたとでも言っときな」 豪快に笑う男に、桔梗は何と言ったらよいかわからず困り果てた。 店を営み人間に紛れて暮らすこの鬼と接していくうちに、その正体に反して以外と気が良い妖であるとわかった。 だから信用しても大丈夫だ。 けれど、今は和やかに接している市井の者たちは、事実を知ればころりと態度を変えるかもしれない。 個々の性質は関係なく、異形というだけで人々が不快感を露わにするのは仕方のないことだから。悲しいことだが。 桔梗は複雑な思いを抱きながら男の顔を見つめていた。 |