月華抄-月隠- 8
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 影明は筆を置いて大きく伸びをした。
 上げた御簾の間から入ってくる風を感じて外に目を向ける。先ほどまでは晴れていたのに、今は灰色の雲が広がりはじめていた。
 僅かに眉をひそめた影明は、膝でにじり寄るように移動する。廂の端から空を見上げると、広範囲にわたって雲が広がってた。
 風に混じる埃の臭いに顔をしかめる。
 間違いなく雨が降るだろう。
「ほとんど室内だから平気だろうけど」
 誰に言うともなしに呟く。呟いてから、そうとも限らないのかと思い直す。
 影明の心に浮かんでいる人物は現在、都の心臓部である大内裏にいる。陰陽頭・玄翔からの命で、単身潜入しているのだ。
 あまり大事にはしたくないらしく、それを知っているのはごく僅かな者のみだ。だから桔梗はひとりで行くことになった。
 大内裏の関係者のほとんどが理由をわかっていて協力的とはいえ、ほぼすべての作業を一人で行わなければならない。今回は大内裏で起きている怪異の原因を突き止め、それを迅速に祓うなり諭すなりをする。女子めのこの幽霊が現れるという、大した怪異ではないのが幸いか。
 影明は男の身であるがゆえに外からの補助しかできない。大内裏は限られた男しか参内できない。身分の低さは当然のこと、新米陰陽師でもない人間が気軽に行ける場所ではないのだ。
 彼女が密かに出仕して一日半経過した。
 あれから音沙汰がない。
 ――いや、一度だけ無事を知らせる連絡があった。彼女と入れ違いに忍が戻り、こちらからその旨を伝えたきりになっている。
 桔梗のことが気がかりではあるが、何か連絡があるまでは待つしかない。便りがないのは無事な証拠、とも言うのだから。
 そう考えていた影明の耳が足音をとらえた。
 規則正しく歩みを進める音はこちらへと向かってきている。渡殿の隙間からちらりと見えた衣は黒色。
 衣冠姿のその者は、影明もよく知っている男だった。
 男は真っ直ぐにこちらにやってきた。
「何かご用でしょうか。龍安様」
「ああ」
 短く返事をして、龍安は差向いに座り、小脇に抱えていた風呂敷包みを影明の前に置いた。
 包みが開かれると、中から数本の巻物が現れた。
「これらの写しを作成してほしい。急ぎはしないが」
「……。承知しました」
 たっぷりと時間を置いてから応じる。――と、龍安の口元が緩んだ。
「――嫌そうだな?」
「いえっそんなことは」
 慌てて答えると、龍安は今度は喉を鳴らして笑った。どうやら機嫌は損ねていないようだ。
「お師匠様からの頼まれ事がありましたので、そちらがあとどのくらいで終わるかと考えていただけです」
 言い訳は、半分嘘で半分は事実だ。『急がない』の同義語は『急いでいる』なのだ。ここでの常識では。
 玄翔に預けられたばかりの頃は、言葉通りに受け取り散々な目にもあった。
「本当に急いでいないから、ひと月後でも良い。優先事項は他にあるのだからな」
「わかりました」
 頷き巻物を受け取る。そのとき表題が目についた。見たことのないのないものであったが、陰陽道に関係する書物だろう。
 興味を持った影明の瞳が僅かに輝く。
 玄翔所有の書物の中にはなかったはずだから、陰陽寮所蔵のものなのかもしれない。未熟者には滅多にお目にかかれない代物だ。ただ写し書きするだけでも勉強になる。
 書き写しは時間もかかるし正直言って面倒なのだがありがたくもある。
「ところで」
 心なしか抑え気味の声で龍安が問いかける。
 影明は巻物から彼へと視線を移した。
「何か知らせは来ているのか?」
「いえ……」
 誰から、とは言わなかったが、今訊ねてくる件はひとつしかない。
 影明は言葉を選びながら口を開いた。
「初日に無事に辿り着いたと連絡がありましたが、それ以降は何も」
「そうか」
 短く言葉を発した龍安の表情は、何とも言い難いものだった。考えを表に出さぬよう無表情を装っているのだが、ほんの少し眉間に皺がよっており、傍目には怒っているように見える。
「ええと……龍安様?」
 おそるおそるといった風に影明は声をかけた。
 切れ長の鋭い目と視線が交わった。一瞬怯みかけるが気を取り直して続ける。
「何か問題があるのでしたら、俺も連帯責任だと思うので――」
 さらに睨まれた気がして、影明の語尾は徐々に小さくなっていく。
「問題はない。今のところは、だが」
「いずれそうなるかもと? たしかに俺たちはまだまだ危なっかしいと思いますが」
「単なる思い過ごしならそれでいい。気にするな」
「はぁ……」
 気にするなと言われても、逆に気にしてしまうのが人間の性だ。こんな風に意味深なことを言われては特に。
 よほどおかしな顔をしていたのか、龍安が笑い声を洩らした。
「……そうだな」
 龍安の表情が一変して真剣なそれになった。
「人を見極め仲間を増やしておけ。誰が味方で誰が切るべき人間なのか」
 味方もくしは仲間。たしかに必要だろう。だが今の流れから話が繋がらない。
「人の多く集まる場所には負の感情が渦巻いている。嫉妬、羨望、憎しみ……一見雅やかで争いがないような内裏ほどそれが色濃い。何かの拍子に信条が崩れてしまえば、人間など脆い」
 まるで講義を行なっているかのように、龍安の声は淡々としている。
 意味がわからず頭に疑問符を浮かべていた影明だったが、ひとつ思いついたことがあり、ずいと膝を寄せる。
「桔梗が裏切るとでも言いたいのですか?」
 我ながら低い声音だと影明は思う。兄弟子に対して不適切な態度だとわかってはいたが、うやむやにはできなかった。
 影明の問いには答えず、龍安は目を細めた。その感情を窺い知ることはできない。
「そうは言っていない」
「はっきり否定しないのなら言っているのと同じです」
 鋭い双眸に見据えられ、室内の空気が一瞬にして低くなった気がした。思わず肩を揺らしたが、かまわず影明は続ける。
「仲間を増やせと言うならば、彼女は俺の大切な仲間です」
 龍安は黙ったまま影明の様子を眺めていた。
 やがて、少しだけ顔を緩ませた。
「非のない人間などいない。だが、信用しているかしてないか答えろと言うのならば、桔梗のことを無条件には信用していない」
 表情とは裏腹に、言葉は険しさを増している。
「なぜです。少なくとも桔梗と同期の俺のことは信用してくださっているようですが。彼女が要注意人物だというなら、こんな話はしないでしょう? 俺は桔梗と親しくしていますから」
「たしかに。現段階で判断するのは早い」
 自身の怒りは伝わっているだろうに、龍安は余裕たっぷりの態度を崩さない。それが影明には少し腹立たしい。
「だから近しい仲のお前が見極めろ。あれが何を考え、どう動くのか」
 それを聞いて影明は首をひねりながら口を開いた。
「桔梗のこと、特に厳しく接しているようですが、なぜですか? 龍安様が理由がなくそんなことを仰るとは思えませんが」
 次期陰陽頭に最も近い者、と噂されているだけあって、龍安は他者にも己にも厳しい。だが、桔梗に対してはひときわ当たりが強く感じる。
 龍安は答えない。しばらく待ってみたが同じだった。影明は諦めて質問を変えた。
「俺を買ってくれるのは嬉しいですが……もしも反逆者がいたとして、俺がそいつを助けたいがために裏切るとは思いませんか?」
「ありえる話ではあるが」
 一旦言葉を切り、龍安は唇の端を吊りあげる。
「お前にそんな駆け引きができるほどの器量はない、と思っている」
「……」
 何気に失礼なことを言う。
 顔に出ていたのか、龍安を取り巻く空気が先ほどとは打って変わって和らいだ。
「お前は素直なところが長所だが短所でもある。そ知らぬ顔をして嘘を吐くくらい要領よくなれ。玄翔様を騙せるくらいにな。いずれ足元を掬われるぞ」
「肝に銘じておきます」
 緊張した面持ちで、影明は力強く頷いた。



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