月華抄-月隠- 9-1
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 床に敷いた畳の上に腰をおろし、桔梗はほっと息をついた。
 首を前後左右に軽く動かしてしばしの休息を取る。少ししたらまた調べに回らなければならない。
 桔梗が今いるここは、内裏の西北部、飛香舎の廂だ。
 出仕してまずつぼねを与えられた。几帳やその他の調度品は古くしまわれていた物を借りている。
 女房見習いでもない自分が個室をもらうわけにはいかない。
 目を丸くして、桔梗はすぐさま辞退したのだが、飛香舎は怪異が最も起きる場所だからと半ば強引に押し付けられた。
 たしかに都合は良いのかもしれない。簀子すのこへ出れば、弘徽殿も見ることができる。さすがに中の様子まではわからないが。
 飛香舎と弘徽殿は、それぞれ帝の正妻の住まいだ。もしもの時には異変を察知しやすいし、話によれば怪異の目撃が多いのは飛香舎と弘徽殿。術者が身を潜めるには適切な場所なのかもしれない。
 とはいうものの、女房としての教養その他が足りない自分には、少々酷な空間だ。
 誰にも気づかれぬよう、小さくため息をつく。
 なんせ、すぐそこに中宮がいらっしゃるのだ。呼吸ひとつするのも相手を不快にさせそうで、臆してしまう。
 桔梗は目を閉じた。
 怪異を探るため、常に神経を張り巡らせていた。内裏へ着いてすぐ、各部屋へと赴いた。挨拶と知っていることを話してもらうため、そして、今回の怪異以外にも問題があるのか確認するためだ。
 結果はまずまずといったところだった。
 早く解決してほしいのだろう。皆好意的で、内裏の隅々まで調べることができた。そのおかげで、いくつか怪しいモノを絞りこめた。
 ひとつ気になったのは内裏に巣食う霧のようなモノだ。女の子の霊よりも厄介だと思うのだが、これは放っておくしかない。常人には視えないモノであり、祓ってもまた現れる。
 霧の正体は後宮で働く者の妬みや対抗意識――負の感情が具現化したモノだ。一種の妖と言ってもよい。
 人間は誰しもが心に闇を持っている。持っていない者はいないに等しい。それは仕方のないことだ。
 桔梗は内裏に勤める者たちの姿を思い浮かべた。
 昨日挨拶を交わした者たちは、原因不明の女の子の霊に怯えてはいたものの、活力が漲っていた。帝や中宮は御簾越しではあったが、かけられた声の質は同じだった。
 嫉妬心は、言い換えれば生気だ。誰にも負けたくないという気持ちは己を育てる糧になる。ただ、それが行き過ぎたときに問題となる。
 生成なまなりと呼ばれる鬼や、かつて都を騒がせた怨霊は、人の心の闇から生まれたモノなのだ。
 ふっ……と短く息を吐き出して、桔梗は目を開けた。
 休憩は終わりだ。内部の調査は済んでいるが、外はまだなのだ。
 立ち上がり、己の姿を確認する。
 外へ出るには適さない。今のままでは袿を引きずってしまう。
 かといって、普段着ている水干では、何者かと見咎められるかもしれない。
 桔梗はしばらく考えて、表着と袿を脱いだ。代わりに小袿を身に着ける。こちらの方が丈が短い分動きやすい。
 長いかもじも邪魔になるので、背中で楕円を描くように纏める。
 最後に使い慣れた袿に袖を通す。これはいつも目隠しに被っている物で、念のためだ。髢が外れてしまったときに色素の薄い髪を一時的に隠すため。妖退治に来て、こちらが妖扱いされてはたまらない。
 ふいに、甘い香りが漂ってきた。
 簀子へ出て桔梗は足を止めた。何かの気配を感じた方へ身を乗り出してみると、飛香舎と弘徽殿の間の路に白い塊が見えた。ここからでは全体を見ることはできなかったが、どうやら花のようだ。
「……」
 眉をひそめる。
 気になったそれをじっと見据えていたが、どうすることもできない。ならばあの場所へ行って確かめるしかないだろう。
 女房の作法などはまったくわからない。
 だから桔梗は極めて慎重に、渡殿を通っていく。
 女房たちはそれぞれの仕事についているので目につくところに姿はない。だが人の気配はある。荒っぽい音を立てて皆の気を散らさぬよう動くのは、着慣れぬ女房装束ではいささか難しいのだが、これも修行の一貫と己に言い聞かせた。
 ほどなくして桔梗は外へ出た。
 そのまま真っ直ぐ内裏の北東へと移動する。ここを起点とし、南、西、北という順に周ることにしたのだ。外を調べ終わったら飛香舎へ戻る予定なので、この方が都合が良い。
 人目のつかない隅でしゃがみこみ、桔梗は懐から紙を取り出した。細長い、白い紙には文字が書かれている。
 右手の人差し指と中指で手刀を作ると、ついと紙を一撫でする。それと同時に短く呪文を口ずさむ。
 風もないのに舞い上がった紙は、瞬く間にその姿を変えた。空中で泳ぐように身をくねらせて、それは桔梗と向きあった。
 眼光と三本の爪は鋭い。口元には長い髭。頭部には鹿に似た角が生えている。
 真っ白い龍だ。
 桔梗は己の術を以て龍の式神を生み出したのだ。
「床下をくまなく調べて、わたしの元へ戻っておいで」
 桔梗の指先から肘ほどの大きさの白龍は、応、と答える代わりに宙で一回転した。そうして、するすると床下へと泳いでいく。
 何か怪しい物があればあれが持ってくる。
 一番適切なのは、己が床下に潜って確認することなのだが、いくら動きやすい格好でも土や蜘蛛の巣で汚れてしまう。その姿で飛香舎へ戻るのはまずい。
 立ち上がり、桔梗は軽く目を伏せた。
 おかしな気の流れはないか、見過ごせない妖の気配はないか――直接目で見るのではなく、五感すべてを研ぎ澄まし全身で視る。普段意識せずに視ているのとは違うので、これはかなりの気力が失われる。
 時折、額に滲む汗をぬぐい、内裏の中でも行ったように敷地内を少しずつ移動していく。
 思った成果は得られなかった。が、逆に言えば問題視すべきモノはなかったということだ。
 桔梗は少しだけ疲れた表情を緩ませた。
 原因の目星はついた。けれども見落としがあってはならない。ことさら慎重に調べていく。内裏をくまなく周り、桔梗は最終地点へと辿り着いた。
 気配を感じて下方に視線をやると、床下から先ほど放った式神が現れた。口に何かを銜えている。
 腰を落とし、差し伸べた手のひらにそれが落とされる。
「ご苦労」
 短く告げると、式神はあっという間に元の紙片へと変化した。それを懐にしまい、式神が持ってきた何か≠まじまじと観察する。
 土器かわらけだろうか。肌色の平たくて丸い器だ。埋まっていたのか土で汚れていて、ところどころ欠けている。
 ――窪んでいる底に赤黒い文字が書かれていた。
 桔梗は眉をひそめた。
 書かれている文字を懸命に解読しようとするが、掠れていてよくわからない。かろうじて一文字。
『怨』と読める。
「……」
 不快そうに顔を歪めながら祓いの祝詞を口ずさむ。
 効力はすでに消えているが、こういった呪具をそのまま持っているのは、いくら術者でも気分がよろしくない。
 懐から真新しい紙を取り出して、土器を丁寧に包む。これは後で処分することになるだろう。誰に対しての呪詛なのか気にはなるのだが、今目を向けるのはこれではない。
 ぽん、と衣の上から土器に触れる。
 効果がなくなっていたのは、おそらく玄翔の張った術で呪詛が無効化したのだと考えられた。術が発動してしまい、役目を終えた可能性も否定できないが、玄翔がこれを見逃すとは思えない。
 だから問題はない、と桔梗は判断した。どのみち自分が手を出すべき事柄ではない。
 桔梗は視線を巡らせて目当ての物を見つけた。
 局から少しだけ見えていた、白い花だ。飛香舎と弘徽殿の丁度真ん中に、それはあった。
 円錐状の花と柏に似た形の葉が特徴的なその花が、一株だけひっそりと植えられている。
「……紫陽花、なのか? これは」
 桔梗は呟き首をかしげる。
 知っている紫陽花は藍色で、花は房状だったはずだ。もちろん様々な形状や色を持つ種類の花もあるとわかっている。けれども、この花から得た雰囲気は紫陽花に似ているのに、見た印象が異なるので、どう判断したらよいのか悩んでしまう。
 しばらくして、桔梗は頭を振った。
 今注目すべき点はこの花の種類を突き止めることではない。これが件の怪異を引き起こしているのか、そして大路で遭遇した白昼の幽霊と関係があるのか。
 何もせず様子をうかがっていたが、普通の花にしか見えなかった。こちらを警戒して息をひそめているのかもしれないが、おかしな気配もない。このままこうしていても無駄に時間が過ぎるだけだろう。
 花に一歩近づき再度観察する――やはりただの花だ。
 自分の思い過ごしだろうか、と桔梗は口元を引き締めた。
 しかし、少なくとも原因のひとつであると確信している。白い花からわずかに漂ってくる香りは、大路で嗅いだものと同じ。ただの偶然とは思えない。
 膝を折り、紫陽花と思しき白い花に触れると、柔らかい感触がした。
 異変を感じられないのは、たとえば花に宿る霊魂のようなものが、今はどこかへ行っているとも考えられる。
 ――進展は、あったようななかったような。
 どうしようか、と渋い顔をしている桔梗の背後から、
「……そこで何をしているのかな?」
 若い男が声をかけてきた。
 突然のことに桔梗は肩を揺らす。少しだけ警戒しながら振り返り――あっ、と声をあげる。
「やあ。やはりきみだったか」
「あなたは……」
 声の主はこちらを見てにっこりと笑った。
「水干姿も凛々しくて良かったけれど、女房装束も良いね。……冬になったら、氷襲こおりのかさねも似合いそうだ。きみの艶やかな銀の髪と相まって、冬を司る女神と見間違えそうだ」
「はぁ……」
 氷襲とは冬に用いる装束の襲色のことで、光沢のある白い衣は冷たい氷を表している。
 青年はひとり納得しているのか、桔梗がどう反応しようが気にしていない。
 男は飾り気のない黒の直衣を身につけていた。それなのに、受ける印象はとても雅やかだ。彼の持つ独特の雰囲気がそう思わせるのだろうか。
「お久しぶりです」
 何と言ってよいのか困り果てて、ひとまず無難だと思われる言葉を口にする。青年と初めて顔をあわせたのはつい先日。
「あの後きみに会えないかと足を運んだのだけれど……ようやく願いが叶った」
 そう言って、青年は桔梗の側へ寄った。
 いつか市井で会った、随分と物腰の柔らかい青年だ。たしか名前は――高彬だ。
 桔梗は深々と頭を下げる。
「先日はご無礼をいたしました」
「いいや。急な誘いだったからね。内裏へあがる術者が桔梗殿と聞いて楽しみにしていたよ」
 顔を上げると、にこにこと満面の笑みを浮かべる高彬と目があった。
 失礼がない程度に笑顔を作るが、桔梗は内心困惑していた。
 内裏の人目がつきにくい、しかも最も身分の高い正妻たちの住まいが近い、路とは言いがたい路。人が通るような場所ではないここに彼は現れた。
 ちらりと懐疑の念が心をよぎった。
 身なりや立ち振る舞いから身分の高い男性だと窺い知ることができた。しかしそれだけで、他のことは何もわからない。
 用事があったとは考えづらい。建物の中ならまだしも、このようなところまで追いかけてくるものなのだろうか……。
 桔梗はぐっと拳を握った。
 彼がはかりごとを企んでいると決めつけるのはまだ早い。思いこみは真実を隠してしまう。
「わたしに何か御用でしょうか」
「うーん……そうだね。用といえば用だ」
 ふと真顔になった高彬は声をひそめた。
「進展はあったのかな」
「……はい」
 桔梗は迷いながらも頷いた。すると高彬の口端が面白そうに上がる。
「さすがだね。玄翔様でも突き止められなかったのに」
「いえ……たぶん、お師匠様もおおよその見当はついていたと思います」
 玄翔が怪異の原因を見出せなかったとは思えなかった。当初から考えていたように、内裏への影響が少ない今回の出来事で経験を積ませようとしたのだろう。
「ではたいした問題ではないのだね。それは良かった」
 そう言って、高彬はふたたび満面の笑みを浮かべる。
 桔梗はわずかに目を見張った。
 先日と今日、彼と会ったのはたった二回。いずれも彼は笑顔を絶やすことはなかった。しかし今の表情は違った。
 心の底から自然と湧きあがってきた笑みだ。それからは安堵も読み取れた。身内にひどい障りは降りかからないとわかって安心したのだろうか。
 内裏へ気安く参られる男性は数多くない。桔梗は、どなたかの弟君である高彬が御機嫌伺いに来たのだろうと考えた。
「御用というのはこの件でしょうか」
「これもだけれど、もうひとつ。頼みたいことがある」
 正直なところ調査以外に時間を使いたくはなかったが、まずは詳しく話を聞いて、その後引き受けるか否か判断してもよい。もしかしたら、怪異と関係しているかもしれないのだ。
 桔梗は頷き、
「どのような用向きでしょうか。わたしの力が及ぶことでしたらお手伝いいたします。ですが、内容によっては陰陽寮を頼られた方が良いかと思います」
 了承と意見を述べた。
「占いをしてほしい。今後の都について」
 用件を告げた高彬は神妙な面持ちだった。
「それでしたら、やはりお師匠様がよろしいかと……」
 断りを申し出る桔梗を遮るように、高彬が右手を上げる。
「きみがいい。あまり大事にはしたくない。四半刻ほどわたしに時間をくれないかな」
 あまりにも熱心に誘ってくるので、桔梗は重ねて断れずにいた。ほどなくして口を開く。
「自信はありませんが……お受けするにしても、あいにく今の仕事を完了させるまで内裏の外へ出ることができません」
「いや、外へ出なくても場所はあるよ」
 やけにあっさりと言ってくるので、桔梗はぽかんとする。
「それは……どなたかの部屋をお借りするのですか?」
 高彬も一瞬きょとんとしてから「あぁ」と納得したかのように声を洩らした。
「わたしの部屋があるから、そこへ招待するよ」
 ――何を言っているのかこの方は。
 桔梗は目を瞬かせた。
「ええと……仰っていることが、よくわからないのですが」
 言葉につかえながらも質問をする。直感で、この先は聞かない方が身のためだと思ったのだが、口にしてしまっては後戻りは無理だ。
 桔梗の動揺に気づく様子もなく、高彬は形の良い唇を綻ばせた。
「普段は主に二条の邸を使っているんだよ。ここでは空いている麗景殿れいけいでんをお借りして、行き来しているから……桔梗殿?」
 心配そうな声が頭上から降ってくる。にもかかわらず、桔梗は反応できずにいた。
 二条に邸は数あれど、内裏にも部屋を持っている男性となれば、ひとりしか思いつかない。
 どくん、と心臓が跳ねた。
 左手で拳を握り、桔梗は胸を押さえる。それからそっと口を開く。
「……宮、様……?」
 呟くとほぼ同時に唇に暖かい物が触れた。高彬の人差し指だ。
「それは禁止。仰々しいし、うっかり市井で呼ばれても困るからね」
「わたしが良くありません。第一、なぜ市井などにいるんですか!」
 かろうじて声を荒立てるのは耐えた。不用意に騒ぎを起こしては各方面に迷惑がかかる。それに彼≠ニいるところを誰かに見られるのも不都合な気がした。
 緊急事態ともいえるこの状況に桔梗はひどく狼狽していた。
「勉強だよ」
 しかし、あっけらかんとした物言いの高彬に毒気を抜かれてしまい、次第に冷静さを取り戻していった。
「勉強、ですか?」
 おうむ返しに訊ねると、高彬はうん、と首を縦に振った。
「間接的に話を聞くよりも、実際に自分の目で見る方がよくわかるからね」
 百聞は一見に如かずと言うが、だからといって高貴な身分の者がたったひとりで出歩いているのはどうなのか。何かが起きてからでは遅い。
 桔梗は眉をわずかに吊り上げて怒ったふりをする。
 実のところ怒りよりも呆れが勝っていた。けれども彼に立場を理解してもらうには、少々大げさに振舞うべきだと考えた。
「その意見には同意しますが……聞いてしまった以上、知らないふりはできませんので、のちほどお師匠様に報告します」
 最も威力を発揮するであろう者の名を告げる。
 暦や天文、占いなど、貴族の生活すべてを担っているとも言われている陰陽師。その頂点に立つ者から、彼の立場では許されることではないのだと注意してもらわねばならない。
 ところが高彬はまったく動じていない。それどころか笑みを深くした。
「玄翔様もご存じだから安心していいよ」
「はい?」
 間の抜けた声で聞き返すと、高彬は持っていた扇子で口元を隠すようにして笑った。優雅な動作でありながら、その瞳は悪戯を思いついた少年のように輝いている。
「わたしがこっそり外出するとき騒ぎにならないよう、玄翔様が身代わりを作る方法を教えてくれたのだよ」
 きみたちが使う式神に似ているかな、と続けられた戯言は、桔梗の耳には入っていない。
 ひどい眩暈を覚えた桔梗は、喉まで出かかった言葉を飲みこんだ。
 周囲に誰もいなければ吐き出したい心情を抑え、ここに影明がいなくて良かったと思う。
 間違いなく彼は声を荒げただろう。
『何を考えているんだあのじじいは!』――と。
「……今だけだ」
 ふいに、高彬が呟いた。
 できるだけ感情を抑え、口を開こうとした桔梗だったが、一転して高彬の瞳が少々寂しげに見えて、何も言えなくなってしまった。
「そのうち、今のような自由はなくなるのだから」
「宮様……」
「だからね、それは禁止。名前は教えただろう? わたしの可愛いひと」
 沈んだ空気を変えたかったのだろうか。口調が元の飄々とした感じになる。
 それに倣って桔梗も表情を和らげた。だが、この件は後で龍安様に相談しよう、と心に決めた。
「では……高彬様」
「呼び捨てでも構わないのに。きみならいいよ」
 批判めいた視線を感じて、桔梗は困ったように眉を下げる。
 どうやらお気に召さないらしい。しかし彼の望むようにはできない。
「高彬殿。これ以上は譲歩できません」
 わずかに語尾を強くして言い切ると、
「わかった」
 高彬の肩が小刻みに震えている。彼は扇子で顔を半分隠すようにして笑っていた。
 からかわれている、のかもしれない。
 そう思いつつも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。顔をあわせたのは今回を含めたったの二回と少ないが、彼が悪意を持ってこちらに近づいてはいないとわかったからだろうか。
 とはいえ、毎回このようなやり取りを行える自信は髪の毛一本ほどもない。
「……あまりからかわないでください。男女の駆け引きなどは、得意ではありませんので」
「うん。……戯れのつもりはないのだけれど」
 ひとしきり笑ったところで、高彬はぱちん、と扇子を閉じた。
「話を元に戻すけれど」
 占いをしてほしいという用件だ。
「きみにも都合があるだろうし、後日改めてでもいいのだけれど」
 言いながら高彬は視線を上へ向けた。
 つられてそちらを見ると、灰色の雲が広がり始めていた。空気がほんの少し埃っぽい。
 まもなく雨が降るだろう。
「一度中へ戻ってはどうかな? 雨が降ったら行動が制限されてしまわないかな?」
 たしかに高彬の言うとおりだ。それに、彼の人となりも気になった。
 桔梗が誘いを承諾すると、目の前の貴人は嬉しそうに微笑んだ。



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