良い天気だ。青が広がる空を見上げ、桔梗は思った。 今日は外出日和だろう。邸の門まで歩いてきて、しかし彼女は外へは出ようとしない。用事があるのはすぐ近くにある小さな建物だ。こつこつと数回扉を叩くと、小さく返事が返ってくる。どうやら相手は起きているようだ。 そっと扉を開けて中へと足を踏み入れる。眠っているようならば出直すつもりだったのだが、丁度良かった。 昨晩は神威と話をして、いつも通りに就寝し、朝も普段と変わらない時間に起きた。その前――神威と話した日は、深夜の騒動で朝寝坊と言うには遅すぎる頃にやっと目が覚めた。 後にも先にももこのような事態はないのではないかと思うほど気力を使い果たしたのだから、一流の術者ならばいざ知らず、仕方がないといえば仕方がないのだが。甘えたことも言っていられない。 とはいえ、式神たちも桔梗が疲れきっているのはわかっているから、自然と目が覚めるまでそっとしておいてくれたのだ。 「あ、そのままで」 起き上がろうとする男に慌ててそう言って、桔梗は大人しく身を横たえる男に近づいた。 「気分はどう? 忍」 枕元に座り、忍の額に手をあてる。まだ少々熱いものの、深い傷による熱はだいぶ治まったようだ。 「どうにか」 短く返す声は掠れている。顔色が悪いのは流れた血の量が多かったためだろう。 何か精のつく物を用意するよう式神たちに伝えなければ、と考えたところで、 「ご迷惑をおかけしました」 と、弱々しい声が聞こえた。 桔梗は一瞬きょとんとしてから、わずかに眉をひそめる。 「何を言ってる」 強めの口調になったのは、妙に遠慮しているように感じたからだ。何があったのか少しも話せていないが、彼がふざけた結果怪我をしたわけではないことは明白だ。 忍はそのような男ではない。 「ひどい傷で心配したのと、どうしてとは思ったけれど、迷惑をかけられたとは感じていないよ」 若さゆえの技術不足はあるのかもしれない。 しかし桔梗の知るこの男はいつも冷静で、玄翔の元にいるだけあって、二手三手先を読む力があるのではないか、と思ってしまうくらい、感も剣術の才能も長けているのだろうと素人目にもわかる。 玄翔の邸にいた頃に、何度か稽古を見学した。回数は片手にも満たないが手合わせをしてもらったこともある。 当然ながら稽古用の細い棒を闇雲に振るうしかできなかった。影明と協力して背後から襲うなど、正々堂々とは言い難い方法もやってみたが、すんでのところでひらりと躱されてしまう。 剣を振るったときには必ず空気の流れが生じる。忍は文字通り空気を読む≠フかもしれない。 陰陽道の術や異形の放つ妖気も似たところがあるのだが、こちらは大気に溶けこまれると判断が難しい。忍が術者に弱いのもこの辺りだろう。 「何かお腹に入れるなら、瑠璃に頼んでくるけど」 「いえ。今は大丈夫です。少し前に粥と薬を飲みましたから」 「そっか」 桔梗はほっとした表情を見せた。 自力で飲みこめるほど回復しているならばもう心配はない。妖を祓ったばかりのときは水すらも満足に摂取できなかったのだ。 「桔梗様」 忍は横向きになるように身体を動かして、桔梗を見上げる。 「聞きたいことがあるのでしょう?」 「あー……うん」 促されるが桔梗は言い淀んだ。忍の様子と、あの夜に何があったのか気になって顔を出したものの、完治してからでもいいのではないかと思いはじめていたのだ。 例の妖を取り逃がしてしまった今、忍から嫌な気配は感じられない。 「お気遣いなく」 そう言ってふたたび起きあがろうとするのを桔梗は忍の肩を軽く押すようにして床へ戻す。 もちろん傷に差し障りのない部分に触れたのだが、本人の動き自体が身体に負担をかけたらしい。忍は眉間に皺をよせて、ぐっ、と喉を鳴らした。 珍しいこともあるものだ。と、桔梗も顔をしかめた。自分の知っているかぎり、忍が誰かに弱みというか、隙を見せたことはなかった。それだけ身体に負担がかかっているのだろう。 手短に済ませてゆっくり休ませた方がいい。 そんな桔梗の考えを読んだのか、忍は少しだけ不満げな表情をみせた。 じっと桔梗を見つめる視線は、主に向けるそれではない。兄が妹を諭すようなものに似ていた。 「……そんなに柔じゃない」 桔梗の肩がぴくりと揺れる。 「それは、わかっているけど」 反論する言葉は徐々に小さくなっていく。 忍は年齢のわりに剣術も精神面もしっかりとしていると思う。だからこそ心配が増すばかりだ。 このような大怪我をして、あのまま黄泉の国へと旅立ってしまったかもしれないのだから。 硬く目を瞑っていると、手に何かが触れた。はっとした桔梗は目をあけて、己の手を見る。 少しばかり血色の悪い忍の手に包みこまれていた。その温かさに桔梗は全身から力を抜いた。 「……なにがあったの。あの夜に」 一度息を飲みこむようにして気持ちを切り替えると、桔梗はそっと訊ねた。 あの日、忍は影明と共に高彬を彼の邸へと送って行った。その後に玄翔から用事があると式神を通じて呼び出しがあり、彼の邸へ向かったそうだ。ここまでは途中で別れたという影明からの連絡で聞いている。 問題はここからだ。 「用事自体は玄翔様の邸で済みましたが」 記憶を辿っているのか、目を伏せ気味にして忍が言う。眼窩の黒ずみは部屋の薄暗い灯りのせいだけではないだろう。 「少し手間がかかって、外へ出たのは夜半過ぎでした」 そのまま帰路についたのだという。丑三つ時になろうという頃でも、必ず妖に遭うわけでもないし、ましてや忍も怪異にはそこそこ慣れている。そうでなければとうの昔に玄翔の邸を逃げ出していただろう。陰陽道の才には恵まれていなくとも、強靭な精神力はそれに匹敵する。 「自然発生したモノか式神のようなモノかはわかりませんでしたが、近くに術者の類はいなかったと思います」 忍はそう言い切った。 桔梗は眉をしかめる。 自然に生まれた妖にしては、アレは用意周到に見えたのだ。遠く離れた場所から操っていたのだとしたら、手練の術者だ。 「高彬殿を送ったときには怪しい動きはなかったんでしょう?」 「えぇ」 忍が頷く。 「私は牛車に付いて歩いていたので中の様子は知りませんが……影明が彼の君の側に控えていましたので」 「待った」 話を続ける忍に被せるようにして、桔梗は言葉を発した。 「影明は、その……高彬殿と一緒に牛車に乗った、の……?」 途切れ途切れになるのは、そうでなければいいな、という願望があったからだ。 「そうです」 短く、けれども明確な答えに、桔梗はなんともいえない表情になる。 邸へ来るとき桔梗も同乗していたのだが。顔見知りと今回会ったばかりでは状況が違う。臣下すらでもない者が同乗するなど、普通では考えられない。 何を言うのかと拒否をしたが、結局は玄翔と高彬のふたりに言いくるめられたのだ。酸いも甘いも?み分けた彼らに口で勝てるわけがない。唯一それが可能なのは、桔梗の知る限りでは兄弟子の龍安くらいだろう。 思わず遠くを見るような目になっていると、忍が喉を鳴らして笑う。 「私も初めて言葉を交わしましたが、あの方と対等に渡りあえる人は数少ないないでしょうね。背負った物の重さが我々とは違う」 慰めているつもりなのか、声音が柔らかい。しかし眉間にわずかに力が入っているのを見て取り、桔梗は動揺を示した。 「忍、平気?」 「えぇ」 答える忍の呼吸は穏やかなままだ。ほっとして小さく笑むが、すぐさま表情を硬くする。いくら落ち着いたとはいえ無理をさせるのはまずい。ちょっとしたことで体調は変化しやすいのだから。 「そっちの話はまた今度。それより……苦しいなら、日を改めるけど」 「いえ」 忍は自身の額に手の甲をあてて、目を伏せるようにした。 「あまり間が開いてしまうと記憶に齟齬が生じるかもしれない……」 たしかに一理ある。忍に妖と対峙したときの恐怖心があるとは思えないが、思いもよらない出来事から自身を守るために忘れてしまう方法がある。しかも無意識にだ。 それに、本人が望まなくても時間が経過するとともに記憶が薄れてしまうこともよくある。 「じゃあ……最初からがいいのかな。ここを出て、高彬殿を送っていくところから」 どこから異変が起きたのか、あるいは術者に狙われていたのか。それとも無差別に襲っていたのか。現段階では何も情報がないので桔梗にはさっぱりなのだ。 「玄翔様の符で牛車を作り出したのは、桔梗様もご存知の通りで」 「うん」 忍は天井に目をやって、ぽつりぽつりと話し出した。視線が一点を見つめたままなのは、余計な情報を入れないようにしているからだろう。 記憶違いのないように思い出そうとしている忍の邪魔をしないよう、桔梗は口を閉ざした。 自身の容姿は初めて会った者に妖と思われるほど周りとは違っているし、ちょっとした相槌ですら彼の回想の妨げになりそうだと考えたからだ。 そんな桔梗の意図を読み取ったのか、忍は返事をしない主を気にもしない。 「彼の君の邸へは問題なく到着しました。牛車の中はどうだったのかわかりかねますが、側に控えていた影明が騒がなかったので、特に妖しい気配もなかったのでしょう」 詳しくは本人に聞かなければならないが、忍のことは軽くだが伝えているのだ。何らかの違和感を覚えたらすぐさま桔梗に伝えるはず。 ただ、相手が巧妙に己の存在を隠していた場合はどうか。 影明の近くにいたときにそのような事態にはならなかったためわからない≠ニしか言いようがない。 「その後は邸の前で影明と別れて、私は玄翔様の元へ向かいました」 何もおかしなことはなく。ここまでは桔梗も予想していた。 高彬を狙っていたのなら、影明が真っ先に気づいたと思う。彼の妖を視る力は誰よりも勝っている。それこそ現在の陰陽師たちにも負けない。 今は経験が薄いために実際の対処はできなくても、詳しくはわからなくても。何かがおかしいと感づくはず。 少しもそう思わなかったのなら、問題はなかった。そう確信した。 「玄翔様からの頼まれごとを済ましている間も、何もなかったと思います。とても静かでしたから」 玄翔の邸は当然しっかりとした結界に守られている。そのせいなのか、邸内は少々不思議な空間に感じられるのだ。 敷地内で誰かが大騒ぎしていたとする。近くの部屋にいるのになぜかほとんど聞こえない。けれども聞こう≠ニすれば、遠く離れているのに内容まではっきりとわかったりする。 特別な能力がなくても聞こえてくるので、あの邸に住む者はまずそれらの抑制を身につけなければならない。 桔梗は苦虫を噛み潰したかのような顔をする。 寝ても覚めても常に耳元で囁かれているのは、なかなか精神をおかしくする。幻聴ではなく言ってみれば付喪神の類で、術者を目指すのなら耳を傾けることも慣れることも、時には無視することも大事なのだ。 しかし、来たばかりの者にはかなり酷だ。同じ頃に集められた子供の中には、いつも青ざめた顔をしていた者もいた。与えられた部屋に閉じこもり、そこから一歩も出てこない。大人でも、耐えられず玄翔の元を去った者もいた。知らぬ間に姿が見えなくなり、後日どうやら暗闇に紛れて逃げた者もいたらしいと噂もあった。 それは仕方がない、と桔梗は思う。 「あれは、たしかに辛かった」 黙っているつもりだったのに、ついぽそりと呟くと、忍はわずかに笑んだ。 「……ええ」 短い返事の中に同意と困惑、その他様々な感情が滲み出ている。彼も最初は苦労したのだろう。陰陽道の才はないはずなのに、すでにその術を身につけているなんて流石だ。 「それで、静かだったんだ?」 「ええ。あまりにも。ですから聞こう≠ニしたのですが、何も。玄翔様が集中できるようにと、私がいた部屋に術をかけていったのかもしれません」 「あぁ……」 ありえる話だと桔梗は頷く。 自習を命じられたときのことだ。急な来客との会話を誰にも聞かれたくなかったのか、弟子たちを各自の部屋に入らせ、さらに結界を張ると言っていた。当然術が解除されなければ一歩も出られない。 そのときも、とても静かだった。 この世に存在するのは、自分ひとりなのだ――と思いこむほど。 いつもなら、かすかな生活音がするのだ。けれどもそのときばかりは無音。しばらくすると慣れてしまったが、最初はひどく恐ろしかった、と桔梗はしみじみ思う。 「話が逸れましたね」 忍が真顔になる。 「玄翔様の依頼が済んだのは、亥の刻近くだったと思います。月が南の方角に見えましたので。あとは、まっすぐこちらへ帰るばかりでしたが……」 言い淀む忍を訝しんでいると、彼は困惑した表情をみせた。身体に掛けてある衣の上で、右手を軽く握ったり開いたりで、落ち着かない様子だ。 「どうしたの?」 普段の忍は絶体絶命の窮地に陥ったとしても、焦りを表に出さないほど冷静に対応する。桔梗の知る忍はそうだった。 なのに、今はひどく狼狽えているように見える。 「忍……?」 訝しんだ桔梗が名を呼ぶと、忍は不服だと言わんばかりに眉をよせた。 「夜も更けていましたし、まっすぐこちらへ戻ってくるつもりでした」 一度言葉を切った忍は、ふう、と息をついた。 「何故だか、大路の方へ足を運んでいました」 何度か口にしているように、玄翔の邸からここまでの道は基本まっすぐ≠ネのだ。 都は大路を中心に、東西南北に小路が細かに設けられている。鳥のように空を舞い見下ろすか、遠くの山から望いてみれば、建物が綺麗に揃って並んでいる様子が一目瞭然だ。 正確には、玄翔邸から二回三回、道を曲がらなくてはならないのだが。わざわざ遠回りになる大路に出る必要はない。 「それも、妖の仕業なのかもしれませんけれど」 桔梗はぎゅっと口元を引き締めた。聞いたことはないが、いつもと違う行動が妖術によるものではない、とは断言できない。 「……」 忍は、黙りこんだままの桔梗をちらりと見やるが、それだけで彼も何も言わず主から視線を外した。 「居場所が大路だと、思いこんでたって可能性は?」 たとえば相手の結界内に知らず知らずのうちに取りこまれていたとしたら。 はっきりとそうだとわかる術もあるが、こちらを貶めようとするならば、やはり視え難い細かな術を紡ぐだろう。光の加減で見えなくなる蜘蛛の巣のように。 「それは……」 忍は一瞬言葉を詰まらせた。 「ありえるとは思いますが、間違いなく大路であったと。たしかに視界がひどく悪くて……ただの勘でしかありませんが」 「そっか」 わかったというように桔梗は相槌を打った。 大路だったと誰もが納得するような明確な根拠は忍も上げられないのだろう。しかし勘というものはなかなか侮れない。これは特別な力が有る無しに関わらず、誰しもが持ちあわせている。ただそれを偶然ととるかこの世にある不可思議な出来事のひとつととるかは個人による。どちらも間違いではない。 「大路に出るまでおかしいと思うことはあったの?」 問うと、忍は緩く首を振った。 「視界がおかしい、具合が悪くなるなどのわかりやすい異変はありませんでした」 そう言って、額に右手の甲をのせる。顔半分が隠されて、彼がどのような表情をしているのかわからない。 「普段通る路を歩いていたはずなのですが、気づいたときにはすでに大路に」 ふぅ、と忍は息をついた。少し弱々しく感じるのは体調が万全ではないことに加えて、自身の行動を恥じているためなのか。言葉の端々からそういった雰囲気が伝わってくる。 なんだか気まずくなった桔梗は俯いた。 いつも行っている動作は、たとえ無意識だとしてもだいたいはそのまま問題なくするものだ。 生き物には帰巣本能というものもある。たとえば帰路に着くとき。「邸へ戻るときには必ずこの路を通ろう」とあえて考えなくても、それまでの経験で、最短の最善の行動を無意識にする。もちろん、無意識だからこそいつもと違う動きをしてしまうこともあるのだろうが。ほとんどの場合は呼吸をしているのと同然だ。 「はっと気づいた、と表現するのがまさに適しているでしょうね」 忍が苦笑する。 「思わず立ち止まりましたよ」 いつも通り歩いていたはずなのに、予想外の場所に着いたとしたら。何があっても平常心を保っているのだろうと思っていた彼ですらそうなるのか。 自分が同じ状況に遭遇したらどうなるのか、と桔梗は膝の上に置いた手を握りしめた。でも、それだけだ。かなり苦労したものの、先日の内裏での騒動も、ひとりでやってのけたのだから。 心を占めていた言いようのない不安は、もうない。 「最初は、ぼんやりしていて路を間違えてしまったかと思いました」 自分で感じていた以上に疲れていたか、考え事はしていたから意識が飛んでいたか。おそらくどちらかなのだろうと軽い気持ちでいた、と忍は小さく笑った。 「今更元の路へ戻っても、かかる時間は一緒だろうとそのまま大路を南に歩いて行きました」 昼間ならともかく、夜半となれば人はほぼいないに等しい。夜遊びをする貴族の牛車なのか、からからと遠くに車の音がしていた、と忍は言った。 「それが、唐突に聞こえなくなって」 やや掠れた声が静かな部屋に吸いこまれていった。 音が止まったのではなく音が消えた。外を歩く人がいない真夜中なのだから、静寂に満ちているのは当然だ。 しかし……と足を止めた。 視線は真っ直ぐ前を向いたまま、音で周囲を探った。突然、深い森に迷い込んでしまったような、おかしな気持ちになってしまったから。 「忍の故郷って、都じゃなかったよね?」 「ええ。玄翔様との最初の出会いは市井でしたが、正式にお会いしたのは郷でですね」 ◇ ◇ ◇ 元々の出身はここから少々離れたところにある集落だ。都のような華やかさも広さもない。もっとも、辺りは誰の所有かもわからぬような山々しかないから、境界線などは無いも同然だ。子供の足でも行けるところすべてが自分たちの遊び場であり、特訓の場だった。 どこにでもあるような小さな集落だ。しかし生業としていたのは、都ではほとんど見かけないものだ。少なくとも忍自身は同業者に会ったことがない。――隠している、のかもしれないが。 簡単に言えば、薬師に似ている。が、違う部分もある。 集落の至るところに植物が生えている。生活するために植えた野菜の他、自然と育った草花。この草花が厄介だ。害のないものもあれば、具合の悪いときに煎じて飲めばたちまち良くなるもの――そして、自らを守るためにその身に毒を有しているもの。それらは不思議と姿形が似ていて、簡単には区別がつかない。さらに誰かがわざと植えたわけでもないだろうに、神の思し召しか隣りあって生えている。 草木が生えるところには、そこに住む生き物もいる。部外者が不用意に足を踏み入れれば攻撃される。 人もそれ以外も同じだ。草を掻き分けて移動する音で居場所を判断できればよいが、微動だにしない生き物――たとえば蛇――の存在を感知するのは難しい。うっかり踏みつけでもすれば、そしてそれが毒持ちで、咬まれれば一貫の終わりだ。 鳴かない蛇でも、耳を研ぎ澄ませば生命音というものは聞こえる。生い茂る草で足元が見えなくても、そこに棲むモノが小さくたてる音で判断して行くしかない。 植物の知識を得ることと、蛇の潜む音を聞き取って回避すること。 これらが集落に生まれた子供の最初の訓練であった。 そうして都へ出てきた。正確に言うなら呼ばれた≠フだろうか、と忍は思う。 まだ遊びで野山を駆けていた頃だ。兄の仕事に付き添って都へ出てきたことがあった。自給自足の他に、人伝に仕事を依頼されるときもある。その納品に荷物持ちとして連れて行かれたのだ。 本来ならば誰かを連れて行くにしても子供はその対象ではない。当時の忍の年では考えられなかった。 どうして自分なのかと訊ねるも、 「さあ……なんでだろうな……」 などとはぐらかされて、結局真相はわからずじまいだった。 ともあれ、これも経験と何度か後をついていった。 その日は市井で薬を売るだけだった。陰陽師のように貴族の邸に呼ばれることもあったあったが、それは非常に稀だ。都で仕事をするにしても、市井で商いをしている人々と変わらない。 兄に倣って薬を売っていると、地面に影が落ちた。 新しい客だろうかと忍が顔をあげると、目の前に立つ男が笑った気がした。気がした≠ネのは、表情が見えなかったからだ。太陽がちょうど男の真後ろにあったために影になって顔が見えなかった。日の光に目が眩んだことも要因のひとつだろう。 瞬きを繰り返して目が慣れてくると、見下ろしてくる老人が目元の皺をさらにくっきりとさせて笑っていた。それはもう愉快そうに。 「坊主、見かけない顔だなぁ」 のんびりとした声でそう言った老人は、来客に気づいた兄と言葉を交わした。ふたりの会話から、どうやら知り合いだとわかった。 市井には兄は何度も行商に来ているのだから、顔見知りができるのは当然だろう。なんとなく耳を傾けていたが、別の客に話しかけられてそちらへ集中した。 ――ふと気づいたときには老人は消えていた。 それから、何度目かの満月の頃だ。 都で出会った老人が、ふらりと集落へ現れたのだ。供もつけずに一人でだ。ここまで来るのに労力を要しただろうに、老人は疲れなど一切見せなかった。せいぜいふぅと息をついて「遠いですなあ」と苦笑した程度だ。 しかしそれは潤滑に事を進めるための演技だったのかもしれない。活き活きとした目が印象的だった。 その老人を最初に出迎えたのは忍だ。ちょうど、訓練という名の遊びに興じていたときだ。 がさりと鳴った草の音に肩を揺らし、忍は勢いよく振り返った。少し離れたところに老人が――玄翔が立っていた。 「おう。驚いた」 と言うが、まったくそんな素振りを見せない。 驚いたのはこちらだ。忍は心の中で呟いた。玄翔の後ろは、緩やかだが坂道になっていて、ところどころ岩肌がむき出しになっている。山に住む者なら老若男女問わず難なく登るが、慣れていない者には困難だろう。ましてや相手は都人と思われる。市井で見かけた彼と同世代の者よりも若々しく感じるが、老人が登るのは到底無理だ。 心底驚いていると、そんな忍の心を読んだのか、玄翔はにやりと笑った。 どうだ、凄いだろう――などと、幻聴が聞こえてきそうな、得意げな笑顔だった。 「市井で会った小僧だな。ちょうどいい。お前さんの兄者か、この村の長に取り次いでくれんかのぅ」 そう言って、腰を己の拳で軽く叩いている。やれやれ老体にはには厳しい山踏みだったなぁ、などと呟いていても、忍には老人が嘘ぶいているようにしか見えなかった。 注意深く観察してみても、やはり疲れたような様子はないし、なにより息が少しも上がっていない。相手の警戒を解くために少々弱みを見せるのはよくある手法だ。特別おかしなことではない。 「案内します。ここから少し離れていますが……」 この様子なら問題はないと思ったが、大丈夫だろうと決めつけてしまうのは客人に失礼になる。いくら元気そうでもだ。 まだ歩けるかと忍は言外に問うた。場合によっては老人を背負っていかなければならないだろう。 「ああ、平気だ」 老人が頷くのを見て、忍は「こちらです」と先導した。 顔を引き締めて長の元へと向かう。どのような用事があるのか興味はあるものの、子供にはまだ関係ない。 「ふむ。……洞察力が鋭いのは利点で難点か」 「? 何か?」 老人がぽつりと洩らした感想は、前を歩く忍の耳には届かなかった。 「いいや何でもないさ」 からからと笑う老人を不思議に思いつつ、忍は先を急いだ。 集落の中央にある一番大きな建物が長の邸だ。そこで働く使用人の女に来客の旨を伝えると、女は奥へと引っこみ、しばらくしてから戻ってきた。長は老人と会うと決めたようだ。後は忍がやれることはない。 「坊主、助かったよ」 礼を述べる老人に軽く頭を下げて、忍は元の場所へと戻った。 ◇ ◇ ◇ 「そうなんだ」 忍の昔話を聞き終わった桔梗は詰めていた息を吐いた。 大体は予想していた通りだった。玄翔は自分の足で弟子を集めたのだと聞いたことがあった。弟子入りを志願して門を叩く者たちももちろんいるが、そういった者は素質がないのか知らぬ間に姿が見えなくなる。 誰も居なくなった者の話をしないので、どういった理由で去っていったのか本当のところはわからない。 側近とも呼べる近しい相手は、玄翔が自ら決めた者のみにしているようだ。桔梗も影明もまだ未熟ながらここに含まれる、らしい。当然忍もだ。 長い付きあいながら、こういった話はしたことがなく新鮮だった。 「……もしかして、玄翔様の頼まれ事って郷も関係してたりするの?」 「ええ。詳しい話はできませんが」 玄翔の邸で世話になっていたときも、度々忍がいなくなるときがあった。そういったときは大抵二晩三晩見かけない。郷へ帰らなければならないのならば時間はかかる。 「羨ましいな」 ぽつりと呟いた桔梗の言葉に、忍は不思議そうな顔をする。 「わたしは生まれも育ちも、都だから」 桔梗は言って寂しそうに笑う。 「ここは好きだけど、故郷に誰か待っているひとがいるのは羨ましいなって」 大事な人たちは都にいる。ただ、血の繋がりがあるのとないのでは、少し意味合いが違う。 「家族も同然でしょうに」 わざとらしくため息をつかれるが、桔梗はさらりと受け流して微笑んでみせた。 「うん。そう思ってる」 このような冗談めいた会話も、以前は無理だった。 誰かに止められていたわけではないが、極力自己主張は避けていた。変化があったのは祖母の邸へ移り住むことになるほんの少し前であったか。変わるものなんだなと、桔梗は他人事のように思う。 「仮に家族でも、受けられないこともあるが……」 ぽそりと言う忍に目を向ける。彼の顔は少し強張っているように見えた。 「何が?」 「依頼ですよ」 不思議そうな顔をする桔梗に、忍は困ったように眉根を下げた。 「私の郷に伝わる、いわゆる秘薬の類を望まれても、内容によっては簡単に応じることはできません」 たとえその相手が玄翔様だとしても。 「……そう……」 小さく告げられて、桔梗は短い返事をするしかなかった。何とも言い難いあやふやな顔をして、忍の様子をうかがう。彼からは感情が一切読み取れない。綺麗に隠している。 これはどうしたらよいのか、と困り果てて、桔梗は口を噤むしかない。 「何か、受けたくない仕事内容だったの?」 わずかの時間をおいて、沈黙に耐えられずに恐る恐るといった風に切り出した。聞かない方が良いような気もしなくはないのだが、普段は必要なこと以外、言葉少ない忍が珍しく多弁なのだ。愚痴などを言いたいときも、たまにはあるのだろう。 言いたくなければ上手く誤魔化すだろうと結論づけて、桔梗は忍を促した。 「詳しい内容は、やめておきましょうか。知らない方が良いこともある」 心を読んだかのように言うので、桔梗はどきりとする。 読心術は特別な能力でもない。数多くの人と会って、経験さえ積めば、表情や仕草から相手が何を感じたかくらいは簡単に読み取ってしまうだろう。忍と桔梗では、立場は違えど年齢分の差が出る。 せっかく話を振ってくれたのだ。桔梗は短く訊ねるのみにした。 「それで?」 「簡単に言えば、害獣を殺すような毒薬はあるのかと聞かれたのですよ。実際の用途までは知りませんが」 話しぶりから、何処の貴族に頼まれたのではないか、と、忍が言った。 「たしかに存在するし、精製方法も頭の中にあります。けれども、危険な物だ。良からぬ者が暗殺を企てていないとは言い切れない。玄翔様を守るためにも断りました」 「……うん」 桔梗は相槌を打つしかできない。 玄翔に依頼した何者かが、何を考え――何を企てているのか。本人にしかわからないのだから。 上手く騙されて、立場が悪くなるようなことになりかねない。 「どのような理由であれ、人を殺めるかもしれない真似はしたくないと。……そうかと言われただけで、話はそれで終わったのですが、何となく心に引っかかっていて」 退出してからもずっとそのことを考えていた。そうしたら――。 「注意散漫になっていたのでしょうね。妖が近くにいたというのに、全くと言っていいほど、わからなかった」 告げる忍の声は硬い。 「気配を巧妙に隠す妖もいるから仕方ないよ」 桔梗の慰めの言葉もあまり効果はなかったようだ。 「それでも、陰陽師の邸に仕える身ならば、妖気を感じとるべきだった」 なおも自身を責める忍の頭にそっと触れた。 「――っ」 虚を突かれ、目を丸くした忍が桔梗を見やる。 「なにを……」 疑問には答えずに、桔梗は彼の髪に指を滑らせた。年上にするような行為ではないだろう。しかし、こうするほか思いつかず、しばらく 撫で続ける。その間、忍も言葉を発さなかった。 「……どういうつもりです?」 手がそっと離れたのを見計らい、忍は訊ねた。批判的な言葉とは裏腹に、咎めている様子はない。 「なんとなく」 「なんとなく、ですか」 苦笑するその顔は、もういつもの忍だった。 「誰かを甘えさせる気があるのなら、影明にでもしてやればいいのに」 やれやれと言わんばかりの仕草にぎょっとした桔梗はとっさに言葉を返せない。 「馬に蹴られる気は更々ないし、あれはなかなか嫉妬深いから面倒臭いし、さっさとくっついてもらいたいものですが」 「そ、そんなことより!」 慌て口調のまま強く言い切るが、忍は意地の悪い笑みを浮かべたままだ。 「もう少しその話をしたいところですが、まあいいでしょう」 ふっ、と表情が変わった。桔梗も遊びはこれまでと口元を引き締める。 「玄翔様の邸を後にして、考え事をしていたためか、路を間違えた」 ここまでは先ほども聞いた。 「そのまま歩いていたら……いきなり背後から襲われました」 不意打ちを食らっても、忍ならば難なく退けるだろう。そう思っていた桔梗は唖然とする。しかし、だからあのような大怪我になったのだ。 「人の形をしていましたが、アレは妖か術者の作り出した使役でしょうね」 背丈は自分よりもずっと低い。髪は長いのを背中で纏めていたらしく、動く度に馬の尾のように揺れていた。線が細かったので、性別があるのならば女。 記憶をたどりながら、忍はゆっくりと話す。 「顔は?」 訊ねると、首を横に振った。 「見えなかったのです」 「え?」 「そこだけ、黒い靄に隠されているかのように、何も見えなかった」 黒すぎて、底なしの空洞のようでした。 抑揚のない声が部屋に響く。背筋に冷たい物が流れた気がした桔梗は、ぶるりと身震いする。 顔がない妖など、怪談話ではありがちだ。ただの噂話も兄弟子の体験話でも、飽きるほど聞いている。 それなのに胸のざわつきが止まらない。 陰陽道に関わる者の勘、だろうか。ただ暗くて見えなかったとか、驚いて記憶が飛んでしまった、ならばまだしも――忍が妖に遭遇したのはよくある偶然≠ニは思えなかった。 桔梗は爪が食いこむほど強く手を握りしめた。 「その妖は、側に立っているだけでした」 視えるだけなら大したことはない。だから安心してしまった。 顔がないのに、ソレがニィ……と笑ったように見えた。あっ、と思った時には肩が熱くなっていた。 斬られたのだと気づいたのは、反射的に肩を押さえた手が、ぬるりと滑りを帯びたからだ。 血が、手のひらにべったりとついた。 二度三度と全身に激痛が走った。陰陽道の術なのか、それとも相手が刃物を持っていたのか。わからぬまま一方的に攻撃を受けた。 「命からがら、とはこういうことかと、今だからしみじみと思いますよ」 などと可笑しそうに忍が笑うので、桔梗は少々心配になる。 忍に限ってそのような事態にはならないと思っているが、恐怖を感じすぎて正気がなくなってしまったのではないかと一瞬疑いかけた。けれども彼の瞳に浮かぶ光はしっかりとしている。心の中で安堵の息をつき、桔梗はそっと声をかけた。 「助かって良かった」 簡潔に気持ちを述べるとふっ、と忍の瞳が揺らぐ。 「突然のことで混乱しましたので、怪我程度でよかったと自分でも思います」 実際は良かった≠ネどと言えないほど危険な状態ではあったのだが。命があるだけましなのかもしれない。 「けれど、しばらく動けないのは痛いですね。なんのためにここにいるのか……」 「忍はいつも真面目だから、今はゆっくり休めばいいんじゃないかな」 忍の額に手を当てながら桔梗が言う。 少し熱い。話をして、熱が上がってきたのかもしれない。 「長居しすぎたね」 「いえ。必要なことですから」 自分たちのあずかり知らぬところで起きた事柄は、宮廷は基本無視する。 こちらの管轄などと大層なことは言えないが、桔梗をはじめとした大内裏の外の法術師――外法師や術者、術師と呼ばれる者が対応しなければ、妖を退ける術を持たない民は一方的にやられるだけ。しかし、そこかしこに存在する妖たちが命を狙ってくるのは稀だ。 いわゆる丑三つ時に彼らの癇に障らなければ、になるが。 桔梗は話そうとして二の句が継げなくなる。 忍が何かしたとは思えなかった。無意識にやってしまったのか。いくら気まぐれな妖でも、歩いているだけで命を取るような真似をするのか。言葉を話す鬼ならば、腕を寄越せだの心の臓を喰わせろなど主張しそうなものなのだが。 「……気づいたことは、他には思いつきませんね。必死だったのもありますが、ひどく攻撃を仕掛けてきたわりに、興味がなくなったのか、すぐに立ち去ったようですし」 そうでなければ今頃こうしていられないだろう。 「無差別な犯行とも思えないんだけど、ね」 人間を揶揄う遊びや報復が暴走したのとは違う。何らかの理由はあるはずだ。 「……できそうですか?」 主語はないが、妖を追えるのか、と聞かれているのはわかった。一拍ほど反応が遅れたものの、桔梗は頷いた。 「忍に憑いていたモノは残念ながら捕まえられなかったけれどね」 首を竦めると、忍が小さく笑った。 あのとき、念入りに張った結界を破って本体の残滓を取り逃がしてしまったが、そのまた残りかすと言えるものはあった。 血の滲む指を反射的に口に含もうとして、動きを止めた。咬まれた指に、微量だが妖気が纏わりついていたのだ。 桔梗はとっさにそれを人型の紙に移し取り、ある意味呪具となるものができた。何らかの意図を持ったモノ。使おうと思えば、これで呪いをかけることが可能だ。微量だから、大したことはできないが。人を驚かせるくらいの芸当は簡単だ。 とはいえ今回は誰かを貶めるためにこれを作ったわけではない。術者もしくは妖の棲み家を突き止める。 「これを放てば、相手のところまで案内してくれる」 桔梗はだれに言うともなく呟いた。忍に伝えるのももちろんだが、同時に自分自身への暗示でもある。 口に出して唱えることで潜在意識に働きかける方法は馬鹿にはできない。術者の使う呪文も似たようなものだ。ただ念じるだけで己の持つ能力は発動されるが、より確実にするために音として出す。 「……今すぐに、ですか?」 格子に視線を向けた忍がそう言った。寝殿造りの構造とは違う嵌め込みで動かせないが、明かり取りとしては充分だ。そこから僅かながらの月の光が差しこんでくる。 まだ夜だ。遠回しに明日になってからにした方がいいのでは? と言いたいのだろう。 「今夜は、禊をするのみにしようと思ってるよ」 術の施工は早ければ早いほどいいのはわかっているが、できる限り万全な状態で行うべきだ。それに、相手に逃げる気があるのなら、とっくに手遅れだ。 これは勘でしかないが、相手はまだ都のどこかにいる。 「では――」 言いかけた忍を制し、桔梗は肩越しに振り返った。扉の前に、何かの気配を感じた。 「……誰?」 訊ねる声が低い、と桔梗は他人事のように思った。長く話して、喉が渇いてしまったようだ。 応えるようにかたかたと扉が開く。 「なんだ、瑠璃か」 膳を持った瑠璃が音もなく入ってくる。 「白湯をお持ちしました」 にっこりと、彼女の赤い唇が弧を描いた。 |