月華抄-月巫女- 5
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 その部屋へ向かおうとしていた桔梗の元に、女の声が届いた。
 声は目指す方角から風に乗って流れてくるようだ。唄とも祝詞の類とも違う。聞いたことのない言葉の羅列だ。けれども心地の良いそれに耳を傾けながら、桔梗は歩みを進めた。
 簀子に女が立っていた。神威は外を眺めるようにして、何かを口ずさんでいる。聞こえてきたのはこれだ。
 神威の声は澄んだ鈴の音のようだ、と初めて会ったときから思っていた。こうして改めて聞いていると、月の光のように感じた。暗闇の中、すっと差しこむ一筋の光。異国では、月の女神は旅人が迷わぬように道案内をするのだという。困った人を陰陽道に似た術で助ける神威は、さながら月が遣わした巫女のようだ。
 そんなことを考えていると、桔梗の視線に気づいたのか、神威が顔を巡らせた。
「何をしているんですか?」
 声をかけると、明るい応えが返ってきた。
「まぁ桔梗。呼んでいただければ参上しましたのに」
 神威がにこりと微笑んだ。
「お気になさらず」
 促されて、桔梗は部屋へと足を踏み入れる。
 ひょんなことから居候することになった神威は、市井で軽い仕事をする以外はだいたい桔梗の邸にいるようだ。今日は何をしていたのか、彼女の周りには巻物や紙が乱雑に置かれている。きっちりとした性格の女性なのだろう、と思っていた桔梗は少々驚いて目を見張った。
「見苦しいことになっていまして」
 そう言って、袖を口元に持っていく仕草は女の目から見ても色気がある。不意をつかれて頬を染めた桔梗は誤魔化すように咳をした。勧められた円座に腰をおろし、突然の訪問を詫びる。
「桔梗の邸なのですから、そんなにかしこまらなくても」
 鈴を鳴らしたかのような笑い声に、桔梗も笑みを浮かべた。
「それでも突然でしたから」
 神威の言う通りでもあるが最低限の礼儀は必要だ。
「……勉強熱心なんですね」
 床や机に広がる書物を見やり、桔梗は呟くように言った。
 先ほどは気づかなかったが、大半の書物に見覚えがあった。使う人間がいないからと完全に物置代わりになっている塗籠にあったもの。陰陽道関係の書物があると、何かの折に話した際、興味を持った神威に自由に出入りしていいと伝えていた。
「何か役だったものはありましたか?」
「えぇ。郷には先人がまとめた書物はありましたが、どうしても偏りがあって……」
 神威は近くにある書物に指を滑らせた。
「この邸にあるのは……ひとつひとつ深く掘り下げてはありませんが、幅広く取り扱っているものばかりですね。私も初めて見るものがあって、興味深いです」
 神威の視線につられて桔梗も書物に目を落とす。
「わたしが妖が視えると知って、祖母が色々と探してくれたんです」
 桔梗ははにかんだ。
 陰陽道を市井に広めてはいけないと禁止令が発布されている。それでも完全には止められない。また、生まれつきその才の持ち主が独自で学んだりするため、陰陽師以外で術を扱う者もそれなりの数存在する。そういった者たちが独自に書き綴ったものを、大変だったはずなのに、密かに集めてくれた。
 幼い頃のことで祖母の記憶はほとんどない。玄翔の邸へ引き取られた後にそう聞いただけなのだが、数少ない良い思い出なのだ。
 語る桔梗の目が懐かしむように細められた。
「そう……桔梗のお祖母様が……」
「……気になることでも?」
 ふと気がつくと、笑みを湛えていた神威は俯くようにして、それっきり黙ってしまった。長い黒髪が顔にかかり表情はよく見えないが、冷えた空気が彼女にまとわりついているような気がした。
 怒っている、のかもしれない。
 理由はわからないが、桔梗はそう思った。
「あの……神威……?」
 恐る恐る声をかけると、はっとしたように神威が顔をあげた。その瞳に浮かんでいるのは優しい光だった。彼女を取り巻く雰囲気も普段と変わらない。
 先ほど感じたのは気のせいだったのだろうか。桔梗が思っていると、違和感を綺麗に消し去った神威は、慌てた様子で身を乗り出してきた。
「私の身内は早くになくなったので、少し懐かしくなってしまって」
 神威の細長い指が桔梗に触れる。
「……そんな顔しないで?」
 ひんやりとした感覚がくすぐったく、桔梗は頬を緩ませた。
「短い時間でも、思い出はここに残っているもの」
 空いている左手で自身の胸を指した神威は笑顔を見せた。
「だから、悲しそうな顔をしないで」
 そう言われても、桔梗は顔を曇らせたままだ。
 記憶が薄いとはいえ、血の繋がった家族がいない寂しさは桔梗にもある。平気なふりをしているようにしか思えなかった。
「わたしには身内の記憶がほとんどないから。神威も同じじゃないのかなって」
 ぽそりと告げた心情に、神威はきょとんとする。そうしてからふわりと笑った。
「寂しくないと言ったら嘘になるけれど」
 桔梗はわずかに反らしていた目を戻す。すると、優しい視線と絡みあった。
「私は大丈夫よ。私がこうして存在して、覚えていることが、形見のようなものだから」
 負の感情はほんの少しも見られない。
 今、辛くないのなら良かった。
 桔梗はほっとする。無意識に息を凝らしていたのだろう。胸のあたりのつかえがするりと取れた気がした。
「記憶が形見……?」
「ええ」
 怪訝な顔をすると、神威は楽しげに言った。
「私が家族のことを話したら、誰かの記憶に少しだけだとしても残るでしょう? 術で誰かを助けることもだけれど……何の縁もない人の心の中で生き続けていくのだ、とね……ただの自己満足だと、私も思っているけれどね」
「わからなくもない、です」
 忘れてしまうのが一番悲しい。故意ではなくても記憶というものはやがて薄れてしまう。己がそうなっても、別の誰かの中に残るのならば――そんなことを思うのは、たしかに独りよがりな考えだろう。
 ここのところ思考が堂々巡りしていたためか、前向きな神威を見ていると、胸が軽くなる気がする。ついこの間まで心に巣食っていた感情よりもずっと良い。
 桔梗は晴々とした顔つきで訊ねた。
「神威の生まれ育ったところって、どんなところなんです?」
 目を細め、故郷を懐かしんでいるのだろうか。
「……そうね……」
 遠くを見るような目つきをした神威は、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「ここから離れた場所にある、山奥よ。都とは全然違うわね」
 違うと言われても、都から出たことがない桔梗には想像がつかない。
 幼い頃に見た書物の中に、山に住む鬼の話があったが、事細かに描かれているわけでもなく。大事なのは絵ではなく話なのだから、当然かもしれないが。
「山奥なら、都よりも草木が多いのでしょうね」
 当たり前のことを言ってしまったと気づいた桔梗は赤面する。誤魔化すように小さく笑うが、神威は気にも留めなかったようだ。
 緑が生み出す空間は独特だ。自然の多いところは龍脈の流れも違う。喧騒から少し離れただけで変わってくる。都の外れですらそう思うのだ。ならば土の匂いや風の流れが、都で感じるのと違う気がする。さぞかし美しい場所なのだろう。
「神威の家族も術者だったのですか?」
 訊ねてみたが、一族すべてが何らかの能力を持つとは限らない。
「私の他には母と妹が。先祖には男の術者もいましたが、女に強く出る家系だったようです」
「妹様が……?」
「ええ」
 神威が微笑む。慈愛に満ちた笑顔だ。なのに、どことなく翳りがある。
「早くに離れ離れになってしまいましたけれど」
 そっと告げられて、桔梗はぐっと喉を鳴らした。
 はっきりと言われたわけではない。しかし神威と何度か言葉を交わして、彼女の身内がいないことに気づいた。自分と同じだ。
「妹は手習いを始めたばかりで、まだまだ未熟でしたが、いずれは良い術者になるだろうと思っていました……でももう、それを見ることは叶わないでしょうね」
 神威に孤独感が漂っている。
「私にできることは、もうほとんどありませんが、鎮魂たましずめは郷でもしていましたし、私が為すべきことだと事あるごとにするようにしているんです」
「死者の弔いですか?」
 桔梗は驚きの声をあげた。
 彼女は占いが得意なのだと決めてかかっていたため、生者相手が多いのだと思いこんでいた。
「亡者のためでもありますが」
 一旦、言葉を切った神威はまっすぐに桔梗を見つめる。
「鎮魂は、本来は霊を弔う、鎮めるだけのものではないの。人々の活力を蘇らせたり、悪影響を及ぼすものを清めて、祓う」
 ふたたび口を閉じて、神威は外をちらりと見やった。外はとうに日が落ちて、月が顔を覗かせている。
「私が先の術者から習ったのは、月の満ち欠けになぞらえた死と再生の鎮魂の唄なの」
 艶やかな黒髪を揺らして、神威が得意げに言った。
「一族には、我々は月から移住してきた、なんてお伽噺もあるのよ」
 そうして、神威はころころと笑った。彼女の大人びた雰囲気が、無垢な子供が持つそれに変わる。こうしていると、年上だと考えていたが、同じくらいの年頃なのかもしれない。
「鎮魂の唄って、もしかして先ほどの歌ですか?」
 神威を訪ねた際に、彼女が外に向かって紡いでいた言葉。あれは独特の響きを持っていた。意味はわからなくても心地の良いものだった。響く声も、澱んだ空気が神威を中心に清められていくような、透き通った音だった。たしかに清めの効果があるのだろう。術者を中心におもいが伝わっていく。水の波紋のように、静かに、けれども確実に広がっていった。
「……昨晩は、なにやらお忙しかったようですね」
 記憶に残る音の余韻に浸っていると、神威がそう切り出した。
「ここへ来られたのは、そのことと関係がありますか?」
 はっと我に返って桔梗が頷いた。
「ええ。かなり騒がしかったと思いまして、お詫びに」
「そんなことは」
 神威が無邪気に笑う。
「居候をしているのはこちらですのに。どうしてそう思いましょう」
 ひとしきり笑い、神威はふと表情を変えた。
「ただ、気にはなりました。――妖の気配と、血の匂いがここまで漂ってきましたから」
 彼女に貸しているこの部屋は門から遠い。妖の気配はともかく、血の匂いまでわかるほどだったかと、桔梗は眉をひそめた。
 忍の出血はひどかった。あの後、忍は呼吸が落ち着き気を失うように眠りについた。もう大丈夫だろうと思ったが、心配でしばらく枕元に控えていた。
 その後、瑠璃に自室へと追いやられ、気も張って疲れもあり、さらに夜半の出来事だったために眠りについた桔梗が目を覚ましたのは、あと数刻でまた夜になる頃だった。
 慌てて起きた桔梗はすぐに忍の元へと顔を出した。疲れ果てていた主の代わりに、玻璃が献身的な看病をしてくれていた。忍は相変わらず眠ったままだったが、何度か目を覚まして水分補給はしたそうだ。まだ顔色が良くなかったが、最初の頃よりも呼吸は安定していた。
 引き続き玻璃に看病を頼み、桔梗は深夜の騒ぎを詫びにこうして神威の元へと訪れたのだった。
「すでにお休みでしたでしょうに、騒がしくして申し訳ありません」
 頭を下げるようにして告げる桔梗を制し、神威は真顔になる。
「なんとなく胸騒ぎがして、目は覚めていましたからお気になさらず。……それで、従者様のご容態は?」
「今は落ち着いています。妖はわたしの力が及ばず逃してしまいましたが」
「差し出がましい真似をしてご迷惑をおかけしてもと思って部屋におりましたが……顔を出したほうが良かったでしょうか」
 などと、しょんぼりと肩を落とされては、こちらも困ってしまう。桔梗は慌てて膝を詰めた。
「客人に手伝わせたなんて知られたら、師匠に怒られます」
 術を失敗して元凶を逃した、と知られても、何らかの指導はあるでしょうけれどね。
 桔梗は力なく呟いた。
 今回のことを黙っているわけにもいかない。自分が原因ではないとはいえ、忍は怪我で臥せってしまったのだから。
「そのような謙遜を。桔梗はいずれ良い術師になります。私が保証します」
 間髪入れずにきっぱりと言い切られてしまい、桔梗は目を丸くした。
 慰めや励ましとは違う雰囲気を感じ取って、なぜなのか、と困惑する。
「あ……りがとうございます」
 一応は褒められたのだ。礼を述べると、神威が表情を和ませた。
「だからね桔梗。なにやら苦しんでいるようだけれど、あなたはそのままでいいのよ。悩んでもきちんと自分で進むべき道を選べているのだから」
 その言葉に、桔梗は瞬きするのを忘れるほど、目の前の女を凝視する。一番近くにいる式神たちにも気づかれていないと思っていたというのに。まだ知りあったばかりのこのひとにそんなことを言われるとは。
 桔梗は口元を引き締めた。
 ――いや、気づかれていないと思いこんでいたのは自分ひとりで、感情はだだ漏れだったのかもしれない。瑠璃と玻璃は知らないふりをしてそっとしておいてくれたのだろうか。
「桔梗?」
 視線を床に据えたまま微動だにしない桔梗を訝しんで、神威は小さく声をかけた。
「……どこか苦しい?」
「いえ」
 桔梗は膝に置いた手をぐっと握りしめた。視線は下を向いたままだ。やがてあげた顔は少し赤らんでいる。
「見守られていたのだな、と」
 口に出して改めて認識すると、なんだかいたたまれない。全身がくすぐったい気がして、桔梗はもぞもぞと身体を動かした。そんな様子を見ていた神威にまた笑われて、さらに赤くなる。
「……笑わないでください」
 平然と返したつもりだったが、思っていたよりも拗ねた声になってしまった。桔梗が気づいたときにはすでに遅く。少し抑え気味の笑い声はいつまでも消えなかった。
「桔梗、怒らないで?」
「怒ってはいません」
 きつく唇を結んでいるためか、そんなことを言われる。気を緩めると顔まで緩みそうになりそうで、なんとか取り繕う。怒りなんてものは少しも湧かなかった。
 あえて言葉にするのなら、面映ゆい、だろうか。嬉しさはあるけれども恥ずかしさが勝る。
 顔を半分手で隠すようにしてごまかしてみるが、神威にはお見通しだったらしい。優しい眼差しがこちらを向いている。けれども何も言わない。気持ちが落ち着くまで待つつもりのようだ。
 桔梗は床を見つめたままじっとしていて、変化に気づいた。いつまでも心にわだかまっていた暗い感情が、いつの間にかなくなってしまった。あれだけ心の奥底に根強く巣食っていたというのにだ。
 顔を覆っていた手を下ろし、桔梗は目の前に座る女を見る。
「ええと……すみません」
 神威が不思議そうな顔をした。
「どうして謝るの?」
「神威を放置してしまったからです」
 客人を前にしていながら蔑ろにしてしまうなど以ての外だ。
「そんなことはないわ」
 気まずそうにしている桔梗を見やった神威の瞳が悦の色を浮かべた。
「百面相は、なかなか見ごたえがあったもの」
 否定の後にさらりと伝えられた事実は、桔梗の言葉を詰まらせた。何かを返そうとするのだが「あ」や「う」などと、意味のない途切れ途切れの音しか発せられないでいる。
 くすくすと、耳あたりの良い声が部屋に満ちた。桔梗の他にはひとりしかいない。神威だ。心底楽しそうに笑っている。だが、不思議と嫌な気分にはならなかった。悪意がないとわかるからかもしれない。
「笑わないでください」
 先ほどと同じように言う桔梗の表情も和らいでいる。
「楽しいときは笑ったほうがいいのよ。……もちろん桔梗がおかしいからではないのよ。難しいことは考えないで、気が抜ける時間を一緒に過ごせることが嬉しくて」
「わかっています」
 自分もそうだと頷く。すると、神威の瞳が優しさを増した。
「桔梗は硬いところがありそうだから、周りの人たちよりも頭を休ませる時間を増やしたほうが良いかもしれない。深く考えすぎるよりもね。……何に悩んでいたのか聞いても?」
 神威から笑みが消えた。こちらを心配しての態度なのはわかった。けれどもがらりと変わった空気に戸惑って、桔梗はひゅっと喉を鳴らした。
何か≠ノ対しての憤りを感じ取ったのだ。
「えっ……と」
 神威の唇は弧を描いているが、纏う気がまったく違う。心が変わるような会話は、なかったはずだ。
 訳がわからずに桔梗は黙りこんでしまう。
「ごめんなさい。桔梗に怒っているわけではないの」
 部屋の空気が少しだけ和らいだ。
「強いて言うなら、あなたを困らせているモノに対してなの」
 しかし彼女の瞳の奥にはいまだ強い光が宿っている。何をそんなに気にしているのかと、桔梗は疑問を抱いた。その感情が表に出ていたのだろう。硬くなっていた雰囲気が、幾分か神威から消えた。
「……こうしてあなたと出会えたのは、偶然か必然かわかりませんが、これは定めなのだと思っています」
「さだめ、ですか?」
「ええ。天からの、逃れることはできない決定事項。……近い未来に、出会わなければよかったと思うかもしれないけれど」
「そんなことはない」
 神威の言葉を遮るようにして桔梗は主張する。ぎゅっと、膝に置いた両手に力がこもった。
「神威と出会えて、こうして話ができて、わたしはとても嬉しい」
 この邸を訪問するのは、ごく限られた数人だけだ。桔梗と血の繋がった身内もすでにいない。ただの他人の空似だとしても、血縁関係を思わせる神威の存在は、どういうわけか心強く感じた。
 見えない手が常に背中を支えてくれているような、不思議な感覚だ。これまで出会った影明や忍たちとはまた違う。当然、式神のふたりとも異なる。うまく言えないが何らかの深い繋がりがあるように桔梗は感じた。
「どうかしたの?」
 言葉を発しない桔梗を不信に思ったのだろう。神威が身を乗り出すようにして近づいた。
「神威の親族が都へ移り住んだという話は聞いたことがありますか?」
 目を瞬いていた神威は、しばらくしてから口を開いた。
「……ない、と思うわ。故郷は少し閉鎖的なところがあって、簡単には外へは出られなかったの。自給自足の生活だったし、外との交流も必要なかったから、時の流れ方が周囲と違っていたと思う」
 困ったように眉根を下げる仕草に、桔梗も同じような表情になる。
 秘術を扱うのなら、どうしても他者を排除する形になってしまうのは、いささか仕方がない。
 ほぼ市井で働いている桔梗ですら、術の教えはきつく断っている。まだ教えられる立場ではないのももちろんだが、生半可な気持ちで挑めば、本人が考える以上に危険だからだ。
 被害にあうのが術者当人のみならばまだいいが――厳しいことを言えば、力が足りないから失敗するのだ。周囲への影響は避けられないだろう。術の内容によっては都が一晩で消える可能性もある。
 先祖代々伝わる禁忌の術だとしても、後世へは残さずに自分の代で終わらせる、くらいが丁度良いのかもしれない。
 しかしそうなると、疑問が湧く。
 神威はどうして外≠ヨ出てきたのか。最初に彼女の口から詳しくは話せないと聞いている。必要に応じて術を行使することは問題ないのだろう。要はどうやるのか≠ェ外部に知られなければよいのだから。
「どうかしたの?」
 考えこんでいる桔梗の耳に、ふたたび問いかけの声が届く。はっとして、床に落としていた視線を上げた。
「っ……すみません。少々、気になって」
「あら、何が? 私に答えられることなら、いいのだけれど」
「神威はどうして故郷から出ることになったのですか?」
 話ぶりから、彼女の郷の者はそのまま生まれ育った土地で終えることが多いように感じた。それが望んでなのか郷の掟なのかはわからないが、桔梗はそう思った。
 しかし、考えが正しかったとしたら、ますます神威が都へ来たことを不思議に思う。
 大内裏にも似たような暗黙の了解があるらしい。集落は特に掟やしきたりは絶対守らなければならないだろう。そうしなければあっという間にこの世の均衡が崩れてしまう。真面目な彼女がそれを自ら破るとは考えられない。
 年若い者は掟などあろうがなかろうが未知の場所へと行きたがるものだ、とは誰が言っていたか。師匠でも兄弟子でもない。たしか、市井に住む老君だったと思う。若い者は落ち着きがないと愚痴りながらも、しかし熱意や関心がなければ、それはそれで気に入らないらしい。わからなくもないが、矛盾しているのではないかと苦笑した覚えがある。
 神威は意味もなく外へと出たがるとは思えないし、探究心によるものだろう、と桔梗は考えた。
「そうね」
 と、一言呟いたあとは考えるように黙りこんでしまった神威は、
「そういう、運命だったから、かしら」
 やがてゆるりと口を開いた。桔梗の顔を見つめていながらも、瞳には何も映っていないように感じる。遠くの何かに想いを馳せている、といった雰囲気があった。
「私は、あそこから出るつもりはまったくなかったの」
 ぽつりと話し出した神威の瞳はどこか寂しげだ。時折、瞳に宿る光が揺らいだように見えるのが気になった。
「……ぁ……」
 しかし話しかけることはできず、桔梗は神威を見つめるしかなかった。
 開きかけた口を閉じて、膝に置いた自身の手は衣を握りしめる。皺になったら瑠璃に怒られる、などと今は関係のないことが頭に浮かぶのは、少しばかり居心地の悪いこの雰囲気にいたたまれない気分になっているからなのだろうか。
 神威の話す内容が、ひどく悲しいことのような気がしてならないのだ。
 声をかけようとするが、思うように言葉が出てこず、桔梗は身じろぎすらできないでいた。
 すると神威がくすり、と笑い、
「どうしてこんなことに? と不満を口にしたときもあったけれど……今はこの状況で良かったと思っているのよ」
 まるで桔梗の考えを読んだかのように言った。
 だから、悲しいとは思っていないの。
 そう続けた。
「……」
 桔梗はぎゅっと唇を噛みしめる。
 そうは言うものの、瞳に悲しそうな色を滲ませたままで、とても気になるのだ。神威の言ったことは事実であり、同時に嘘が含まれているのではないか。漠然とそう思った。だがそれを証明するものは今の会話の中にはない。感じたことを指摘しても、彼女は上手くはぐらかして答えてはくれないのだろう。
 会ったばかりだけれど心を寄せてくれているのはなんとなく感じた。けれども同時に遠く離れているようにも思える。いわゆる親しき中にも礼儀あり≠ニは異なる。もっと、はっきりとわかる境界線が彼女との間に引かれているような、そんな気がした。
 近づきすぎずかといって離れがたい感情があるような――そう思うのは自分の勘違いだろうか。
「桔梗に……あなたにこうして会えて、本当に良かったと思っているのよ」
 念を押すかのように言葉を区切りながら神威が言う。浮かんでいた悲しみは消えていて、今度は愛しむ瞳に変わっていた。
「神威?」
 桔梗は思わず目を見開いた。
 式神たちや友人からのものとは違う。このような慈愛に満ちた視線を向けられるのは初めてだった。
「ねぇ、桔梗」
 素敵なことを思いついた、と言わんばかりに神威の瞳が輝いた。
「はい」
「機会があったら、郷に伝わる術を知りたいと言っていたでしょう」
「えぇ」
 疑問符を浮かべながら桔梗が頷く。
「ひとつ、教えようと思って」
「えっ」
 神威の提案に動揺して、桔梗は目を瞬いて彼女を凝視する。顔は笑っているが冗談を言っているようには見えない。
「どうして」
 驚きのあまり掠れ気味の声で訊ねると、
「どうして……って」
 神威が不思議そうに繰り返した。
「桔梗が興味を持ってくれていたし、あなたは悪用しないでしょう? でも、教えるのはひとつだけね。それに、桔梗はもう知っているも同然だもの」
 こともなげにさらりと告げられて、桔梗の困惑は増すばかりだ。
 悪用なんて頼まれてもする気などない。これはともかくもう知っている≠ニはどういうことか。あれこれと思い出そうとするが、考えつかなかった。
「あ」
 桔梗は声を洩らした。
 ふいに、ひとつ思いついた。神威を訪ねたときに彼女が口ずさんでいた、あの不思議な響きの言葉ではないか、と。
「先ほどの……?」
 けれども断言はできず、桔梗は曖昧に呟く。すると神威が嬉しそうに頷いた。
「そうよ。あなたにぜひ覚えてもらって、機会があれば口ずさんでほしいの」
「はぁ……」
 神威が紡いでいた唄のような祝詞のような言葉には、たしかに興味を持った。たとえ術が身につかなくても知識が増えるのは良いことだ。
 けれども、と桔梗は心の中で呟いた。
 いずれ何かを、とは言われていたが、急な申し出に少々面食らった。裏があるのでは――と、疑わなくもない。
 しかし、力のある術者がいくら巧妙に隠したとしても、負の感情はほんの少しでも滲み出るものだ。神威からそういったものは感じられない。それすらも巧妙な術である可能性も否定できないのだが――彼女が誰かを謀るはずがない、という思いこみを抱いているのが問題ではないかと、桔梗自身も頭ではわかっている。
 わかってはいるのだが。
「桔梗?」
 訝しむ声が桔梗の耳に届く。
「ぜひ教えてください」
 そう言うと、神威は嬉しそうに目を細めた。
「えぇと、鎮魂の歌、でしたね。清めと祓いの」
 記憶を辿って術の効果を口にすると、神威が相槌を打つ。その拍子に黒髪がさらりと揺れて、声だけでなく彼女の髪までも良い音を奏でそうだ。
「文字を残すことは、駄目だから。口頭伝承になってしまうのだけれど」
「でしょうね」
 限られた者にだけ伝える、特に秘術の類となると、やはりそうなってしまう。口移し、口伝えなどとも言うこれは、術者に限らず師匠から弟子へ伝えるためのよくある方法だ。
 衣擦れの音もなく、神威がにじり寄るように桔梗に近づく。
「結界はしっかり張ってあるけれど、念のため、ね」
 囁きに近い声が耳をくすぐる。心地の良いその声に身を委ねて桔梗はぼんやりと聞いていた。
「ですが、妖には逃げられました」
「今はもう大丈夫よ」
 きっぱりと言い切られて、桔梗の肩から力が抜けた。根拠はこれっぽっちもないが、あぁ大丈夫なのか、と思う。素直に納得できる響きが、神威の声から感じられた。
 大丈夫――だが、教わるなら結界をさらに強化した方がいいだろうか。すでに神威が何かしているかもしれないが。不特定多数に知られるわけにはいかないのだろうから。――教わるのは嬉しいが、師匠に黙って別の術者から教えを請うのはまずいのだろうか。
「桔梗?」
 とりとめもなく考えを巡らせていた桔梗は、はっとする。
「また今度にする? なんだかぼんやりとしているみたい」
「いえ……」
 ほぅ、と溜まっていた息を吐いた。考えこむ癖のようなものは、幼い頃からでどうにもならないのだが、これも一人前の術者になれば治るのだろうか。
「なんでもないです」
「昨夜のこともあるし、疲れているのかもしれないわね」
 笑いながら伸ばされた神威の手に、桔梗は一瞬目を瞑った。
 頬に触れた彼女の指は、ひんやりとしていた。

◇ ◇ ◇

 その影は階から外を眺めていた。
 邸を囲む塀の先。貴族たちの邸を何軒も通り過ぎた、その先を。そろそろ腰も曲がるほど齢を重ねた男は、ぴんと背筋を伸ばし、その姿は年齢を感じさせない。
「――」
 男は遠くを見据えて小さく何かを口ずさんでいる。生温い風に言葉を乗せるように、声は囁くほどでも確実に、術を紡いでいる。
「――っ」
 老人は喉を引きつらせた。滑らかに繋がっていた術は、そこでぴたりと止まってしまう。重ねて術を仕掛けるが、二、三呟いたのち老人は口を閉ざした。
 目に見えない壁に阻まれた。
 それに気づいた老人の口元には、三日月のような笑みが浮かんでいる。
 邪魔をされると予想はしていた。何事も上手くいきすぎては面白くもない。顎に右手をあててしばし考えを巡らせて、ふと気づく。
 掌に違和感がある。指についた何かを飛ばすように、数回手を振り動かした。ぱらりぱらり――と砂粒が落ちる。手を広げると、目に映るのは以前負った傷だ。掌に残る一文字の跡はこの先も消えることはない。
「もう、そんな時期か」
 やれやれと言わんばかりにため息を吐く。しかしその顔はどこか楽しげだ。
 己の掌を見つめて、玄翔はうっそりと笑った。



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