たいじや -天青の夢- 終章 天青の夢
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 木漏れ日の中を歩いていていると、爽やかな風が吹いた。その気持ちのよさに水干(すいかん)を着た子供が空を見上げる。
 日はまだ高い。だが逢魔ヶ時までに都合の良い場所を見つけなければならない。
 首の後ろで一つに纏めた髪を揺らして、子供は使命を全うすべく歩きにくい獣道をひたすら進む。
 徐々に草木で視界が狭まり恐怖心が沸いてくる。近くで草を掻き分ける音がして、びくりと身を竦ませた。
 音の正体は狐か狸だったのか襲ってくる気配はない。胸を撫でおろし、子供は一度深呼吸した。
「早く帰らないと、父さんが心配するよね」
 誰に聞かせる訳でもなく、自分を奮い立たせるために独り言を言う。そして再び歩き始めたが、突然の浮遊感に、あれ? と首を傾げる。
 音もなく地面が抜けた――否、崖に気づかず子供が足を踏み外したのだ。
 悲鳴をあげる事も忘れて真っ逆さまに落ちる――。
「ぐはぁっ!」
 崖の下にあった何かの上に落ちた子供は、その弾みで横へと転がった。数回回転して止まる。しばらく動かなかったが、よろよろと身体を起こした。
「いったぁい……」
 痛みに涙を浮かべながらも、怪我しているか確認する。思っていたよりも高い崖ではなかったらしく、擦り傷程度で済んだようだ。
 乱れた髪を括り直し立ち上がろうとしたところで、子供は鋭い視線を感じた。そういえば、奇異な声が聞こえたような……と恐る恐る振り返る。
 長い銀髪を背中の真ん中あたりで緩く括り、天色(あまいろ)の狩衣に身を包んだ青年がそこにいた。穏やかならぬ雰囲気をかもした男は、腹部に手をあて、上から振ってきた子供に剣呑な視線を向けている。
「ご、ごめんなさい……」
 不機嫌そうに眉間に皺を寄せている男に恐縮したのか小声で謝る。相手の怒気が増した気がした子供はさらに縮こまった。
「――面倒が増える前に待機場所を変えるか」
 吐き捨てるように男が呟いた。
 人間(じぶん)と異なる容姿は化け物として忌み嫌うものだ。子供の怯えに舌打ちすると男は煩わしそうに前髪を掻きあげた。銀の髪が日の光を柔らかく反射する。
「あなた、神さまなの?」
 いつの間にか男の傍へと移動した子供が男を見上げて言った。物珍しそうな眼差しを向けられて、男の皺が深くなる。
「――何故そう思う」
「だって、強い神気だもの」
 それに綺麗、と囁いた子供は先ほどの衝撃で乱れた銀髪に触れた。
「勝手に触るな」
 子供が伸ばした手を振り払い、さらに睨みつける。だが、それ以上の粗暴(そぼう)な行動はせずに睨みすえることで退去を命じた。
 手を叩かれ目をぱちくりさせて見つめ返す子供には怯えた様子はない。なかなか立ち去らずに不快感をあらわにしていた銀髪の神は、子供に興味を持ったのか、幾分か眼差しを和らげて声をかけた。
「お前、女の子(めのこ)か。珍しいな水干など着て。白拍子ではないのだろう?」
 行脚中において舞を披露する白拍子には子供の舞人(まいびと)もいるが、このような辺鄙な場所にいる理由がない。近くに巫女舞を必要とする神社もないのだから。
 二人がいるのは都から遠く離れた山奥。人里はあるにはあるが、ここよりももっと都に近い。
「父さまがこの地で悪事を働いている妖を退治にきたの。わたしの一族は陰陽師なの。今夜は満月で、一族の力が最もみなぎる時だから」
 答える少女の顔は、ほんの少し誇らしげだ。
「そうかお前、(たかむら)の――」
 陰陽道を操り月を崇め祭る一族がいると聞いていたが……と思い至った神は、まじまじと目の前の少女を見つめた。別段自分とは関係もない。しかし稀有な出来事に心を動かされ再び話しかける。
「それで、お前はどうして崖から落ちてきたんだ?」
「結界を張るから都合の良い場所を探してこい、って父さまに言われたの」
「……それは、お前を危険から遠ざけたのではないか? この地の悪鬼は人間の手に負えるモノではないのだが」
 何の気なしに言った言葉に少女が反応した。たちまち顔が強張ってゆく。
「もう日が暮れちゃう! 戻らなきゃ!」
「待て」
 今にも駆け出しそうな少女の首ぐりを掴んで止める。
 首元を掴まれた少女が足を滑らせ派手に尻餅をついた。硬い地面で痛かったのか、瞳を潤ませて振り返り、上目遣いで相手を見上げた。
 放せと目で訴えている少女を神はちらりと見やると腕を引っ張り立たせる。困惑した表情を無視して、少女を軽々と抱き上げると崖へと跳躍する。
 急な出来事に驚いた少女は落ちないように必死にしがみついた。到着しても下へは降ろさず、神は歩き出す。
「あ……の……神さま?」
 戸惑いの声をあげる少女を一瞥すると、
「お前の足では時間がかかる。死人は俺の管轄だからな。ついでに父親の元へ連れてってやる――物の怪が動き出した」
 ぴくり、と子供の身体が震えた。顔が少し青ざめている。無理もない。陰陽道の家系に生まれても少女はまだ子供だ。
「安心しろ。誰も死なせんから。……どうせなら一掃して新たに創り出した方がいいと思うんだがな」
「どうして?」
「妖と人間、どちらか一方を排除では均衡が崩れるからな。ためらいなくやってしまえば、さぞかし穢れのない世になるだろうに」
「そんなの……」
 言いよどんだ少女の頭を優しく撫でて神が続けた。
「人間とは脆く卑しい生き物だ。お前も、化け物退治を生業(なりわい)とするならば、そのうち分かるだろう」
 子供ながらに理解したのか黙ってしまう。少女は口を開きかけるが、怨嗟(えんさ)のこもった声が聞こえて口を(つぐ)んだ。
 険しい神の目が一層鋭くなる。
「持ってろ」
 神は片手で自分の首飾りを外し子供の首にかけた。
「勾玉だ。いいの?」
 先端に付いている赤い瑪瑙(めのう)の勾玉を手に取り、まじまじと見つめる少女の目がきらきら輝いた。
「魔除けになるからな。しばらく貸してやる」
「ありがとう。大事にするね!」
 そう言って笑う少女の顔を眩しく感じた神は愛しげに目を細める。
 濃紺の空に浮かびあがる月の化身は、そのとき初めて笑顔を見せた。

   ◇ ◇ ◇

 まどろみの中で、彩華は自分の前髪がそよそよと揺れているのを感じた。ひどく懐かしい夢路を辿っていたようだ。だが思い出そうとしても、幸せな気分に満たされた、と朧げでしかない。
 窓も閉めずに寝てしまったんだろうかと考え、はたと気づく。
 昨日は麻布都に頼まれて、郊外へ怨霊退治に出かけたんだ。
 目を開けると視界が少し霞んでいる。数回瞬きし……彩華は目を疑った。
 厚い雲に覆われていたはずの空は、今は雲ひとつない。
 まだ少し目が霞んでいるが、群青色の空に無数の星がちりばめられているのが分かった。
 いくら郊外でも大気汚染その他の影響で満足に星を眺めるなど不可能である。軽く気が動転した彩華は、硬直したまま横たわっていた。
 夢を見ているのか、まだ寝ぼけているのか……と再び目を瞑る。
「起きたか」
 声をかけられた彩華は、はっと目を開けて視線を巡らせた。ところどころ壊れているフェンスに、よく知った気配の青年が寄りかかっている。暗くて表情は分からない。
 手をついて起き上がろうとした彩華は、アスファルトの床ではない柔らかい感触に驚き、目だけを動かして確認した。
 ――何も見えない。が、触ると何かがある。ジェルでできたマットが敷いてある感じだ。力を入れると少しへこんだ感触まで分かる。
 バランスをとりながら彩華が起き上がった。急に起き上がったせいか、吐き気と眩暈がして軽く目を閉じる。しばらく呼吸を整えてからゆっくりと目を開けた。
「そうだ、あの商人は?」
 できる範囲で頭の中を整理した彩華は倒れていた男を思い出し、詠に問いただす。
「放っておいても問題はないぞ」
 にっこりと、見た者が騙されるような不釣合いな笑顔を向けた。
「でも、気絶してたし……」
「怪我もないし、放っておけばそのうち目が覚める。真人間にでもなっててくれりゃいいけど、無理だろうな」
 あの手の人間は喉元過ぎればなんとやらで同じ事を繰り返すだろうな。またそのうち痛い目見るだろう、と吐き捨てる詠を見て彩華は苦笑した。たしかに胡散臭くていけ好かないと思った相手だが、こう言い切られると同情したくなる。
 寄りかかっていたフェンスから身体を離すと、詠は彩華の元へと歩いてゆき右手を差し伸べた。
 取ったその手が暖かくて、彩華は僅かに顔をほころばせる。
 力強く引き上げた。
「ひゃっ」
 勢いでバランスを崩した彩華が詠の胸へと倒れこむ。急に気恥ずかしくなり慌てて離れようとするが、一足早く背中に手を回されていてそれは叶わない。
 ばたばたと暴れだした彼女に対し怪訝とした表情のあと、詠は口許に薄い微笑を浮かべた。
「何を今更照れている」
「うるさい」
 頬を染めて小さく呟く彩華をひょいと抱き上げると、詠は屋上にある貯水槽の上へと跳躍した。
 驚いた彩華は詠の背中にしがみつき、瞬きするのも忘れて彼の顔をじっと見つめた。
「どうした?」
 いつか経験したような既視感に彩華は首を傾げる。
「……なんでもない。わたしの気のせい」
 遠くに見える高層ビルや電波塔の明かりがぼんやりと夜空に浮かんでいる。
 先ほどと比べてたいして高くなっていないが、ここは小高い丘になっている。他に景色を遮る物がなくなり見晴らしが良い。
 良いが、足元が不安定で、彩華は怖々と見下ろした。地面に吸い込まれそうな感覚に陥って後ろへ下がろうとするが、立てるスペースはごく僅かだ。
「俺がいるのに落とすわけないだろう。失礼な」
 血の気のひいているその姿に詠は幾分か呆れ顔をしたが、腰に回している腕に力を入れて安定させる。
 詠が右手で彩華の目を覆うと、彼女から驚きの声があがった。
「このまま上向け」
 ややムッとしながらも、彩華は言われたとおりに顔を上げた。
 右手が外されて、今にも振ってきそうな満天の星空に彩華は感嘆の声をもらした。都会では決して見られない星々が、雲ひとつない夜空一面に燦然(さんぜん)と輝いていた。
「……やっぱり幻じゃなかったんだ」
「一時的なものだから、明日には見えなくなってると思うが……明日というか、今日の夜か」
 怨霊退治のためにここへ到着してから結構な時間が経っているはずだ。出かけた時間も遅かった。朝から神社の仕事もある。だから早く帰らねばならないのに、勿体なくってこの場を離れたくない。
 徹夜は辛いけれどなんとか耐えようと心に決めて、彩華は天を仰ぎ見る。
 ひとときの幻に、まばたきするのも忘れて()き込まれた。


 東の空は闇色が薄まってゆき白みを帯びはじめた。
 まもなく夜が明ける。

- 終 -


天青石(てんせいせき):セレスタイトという石の和名
作中には一切出てきませんが、タイトル付ける際に名前のイメージからこれにしました
ラピスラズリの和名瑠璃≠ナはちょっと違うな〜と




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