たいじや -天青の夢- 二章 6.誘い 3
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 心地のよい誘いに意識を飛ばしかけ、彩華が瞼を落としかけた時だった。
「――そこまでだ」
 凛々しい声が闇夜を裂いた。
 姿は見えなくても誰なのか分かった彩華は、ぎくりと身体を強張らせた。途端に金縛りが解け、ずるずると冷たい床に座り込む。
 彩華は身体が僅かに震えているのを感じて、それを誤魔化すように自身の腕に爪をたてた。
「こんな小物の誘いに乗ってどうするんだ、お前は。……まぁ、俺のせいではあるのか」
 この場に似合わない和やかな声で青年が呟いた。
 威風を纏った月の神は、自身に向けられる殺意を無視して、真っ直ぐに彩華の元へと歩いてゆく。少しだけ膝を折り、力が抜けて立てない彼女の腕を取ると引っ張った。
 なすがままの身体を左腕で支えて耳元に囁く。
「すぐに済むから、しばらく目を瞑ってろ」
「……うん」
 いささか困惑した表情をしていたが、穏やかな空気に包まれて安心したのか、彩華は素直に目を閉じた。
 詠は優しい眼差しで見つめると、
「さて」
 先ほどとは一転して、鈍く光る塊を冷たく見据えた。


「こいつに手を出さなければ見逃してやってもよかったんだが、な」
 動きもせず、言葉も発さず、ただ時が過ぎるのを待っているかのようだ。
 詠が右腕を伸ばして石を握りこむと、逃れようとがたがたと暴れだす。古い棚が軋んで今にも壊れそうだ。
 必死に抵抗するそれを難なく神気で押さえ込み、さらに力を込める。
「――今度この世に現れた時は相手を選べ」
 ぐしゃり、と。
 断末魔をあげる間もなく、石は詠の手の中で一瞬のうちに粉々になる。指を開くと、どこからか吹いた風が砂粒を攫って何処(いずこ)ともなく消え去った。
「終わったぞ」
 彩華の肩に手をあて身体を少し離そうとする。しかし、背中に回された彼女の両腕に力が込められた。
 目を細め、同じように彩華の背中を包み込む。
「……ごめんなさい……」
「何がだ?」
 今にも消え入りそうな声で言ったきり黙りこんだ彩華に問いかけるが、答えは返ってこない。
「詠を裏切ろうとした」
 縋りつく腕が小刻みに震えているのに気がつき、詠は背中を撫でながら再度声をかけた。
「浮気くらい俺は気にしないが」
「……真面目な話してるの」
 茶化した物言いに、彩華は伏せていた顔をあげた。いくらか普段の調子が戻ったのか、僅かに眉をよせている。
「だから、その程度のくだらないものは気にしない。欲を剥き出しにしてこそ人間。感情を持たない人形は要らぬ。――道を誤ったら俺が正してやるから、何度でも踏み外せ」
 真顔で言い切る詠に彩華がたじろいだ。
 不行状(ふぎょうじょう)を勧める神など邪神以外いない。何を言っているのと目で訴えている。
「いや……。お前が心配しているのは俺の心変わりか。気に病むのは時間の無駄なんだが――ならば輪廻(りんね)の道から外れて俺の傍にいるか?」
「え?」
「人間でいることを辞めて、俺に魂を預けてずっと傍にいるか? それでお前の気が安らぐのならそうしてやる」
 柔和な眼差しを彩華に向けて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「だが俺はそうはしたくない。知り合った人間が自分を置いてこの世を去っていくのは、なかなか堪えるぞ」
 命を助けてやる力がないわけではないが、ただ最期を見守るしかない。
 目の前で愛しい人が死にそうになっているからといって、己の感情のまま天命を変える事はできない。
「……詠は」
 そこまで言って彩華は躊躇する。
 一瞬の間のあと、意を決したように続けた。
「詠は、ずっとそんな想いをしてたの?」
 返事はなかった。
 代わりに、彩華の両頬を包み込んで仰がせる。
 不安げな表情を滲ませた彼女の額に、瞼に、頬に、唇を落として。最後に薄く開かれた唇を塞いだ。
(むつ)むなら、こんな廃墟は避けたかったな」
 少しばかり頬を赤く染めている様子に微笑み、吐息が触れ合う距離で囁く。
「心配しなくても、俺にはお前だけだよ」
 密やかな声は彩華の耳には届かなかった。聞き返す彩華に、詠は微笑んだだけでそれ以上は何も言わなかった。
 抵抗する間も与えずに、今度は深く深く口づけて、こぼれる批難の言葉すべてを吸い尽くす。
「悪夢は忘れてしまえ」
 そうして、優しく瞳を覗き込んだ。
 二人の目線が絡みあった瞬間、彩華は身体を震わせると目線を逸らそうとする。だが、詠の行動はそれよりもごく僅か早い。
 ぼんやりとした彩華の瞼が徐々に重くなり、次第に視界を暗闇が覆う。急な眠気に驚いて、彩華は慌ててかぶりを振った。
「まって。まだききたいことが」
 必死に耐えようと詠の背中にしがみつくが、不思議と身体から力が抜けていく。
 暖かく優しい気配に身を包まれて、彩華は完全に意識を手放した。
「――心配しなくとも俺にはお前だけだ。たとえお前が嫌がっても手放すつもりはない」
 すでに深い眠りについている彼女に聞こえることはないが言葉を紡ぐ。指で梳いた黒髪は、艶やかな絹糸のようであって、頑丈な鎖のように絡みつく。
 ただの暇つぶしのつもりが、あのとき捕らわれたのは天運か。
 自嘲気味に喉を鳴らすと、彩華を優しく抱え直した。
 視線を巡らせ――ふと、小さいラピスラズリに気がついた。
 目を細めて考える仕草をし、何か思い立ったのか手を伸ばす。石に触れると微量の静電気が走った。それで、理解する。
「……あいつの見立ては間違っていなかったか」
 間違うはずはないと分かってはいるが、こう思い通りに事が進むのは面白くない。
 詠は青い小さな珠を摘み上げると、シャツの胸ポケットに落とし込む。
「しばらくの間ここで我慢しててくれ。お前の望むようにしてやるから」
 鈍く光る珠に囁き、気を失っている彩華の身体を優しく抱き上げて歩く。
 途中、倒れている男の姿が目に入った。生きていると分かっているから、一瞥(いちべつ)しただけで何もしない。
 詠が歩いた後に微細な光の欠片が流れ落ちた。それが輝き渡る銀紗幕(ぎんしゃまく)となり、広がる瘴気を呑みこんでゆく。
 商人が集めたらしい呪具類は、音もなくばらばらになった。
 建物全体に巣食っていた妖たちが騒ぎ立てる声を聞く者がいたならば、恐ろしさに震え上がっただろう。それほど気味の悪い異音が辺りに轟いた。
 神気から逃げ切ったモノもいれば、真っ先に浄化したモノもいる。浄化を免れた妖たちは、どこぞへと立ち去ったのか、暗闇に紛れてゆく。
 のたうつ妖たちは、やがて海の藻屑のように果てた。


 しんと静まり返った場所に足音が響く。
 屋上へと続く鉄の扉は、錆び付いた音を立てながらゆっくりと動いた。
 緩く吹く風を一身に受けて詠は目を細めた。どんよりとした厚い雲は晴れ、群青の空が広がっていた。
 中央辺りに立つと、膝を折って腕に抱いていた彩華をそっと横たえる。アスファルトに直にではなく、若干、宙に浮いた状態である。
 規則的な寝息をたてている彩華に微笑み、その真横に片膝を立てて座る。
 軽く空を見上げた詠の唇が、人の耳には聞こえない言葉を紡ぎ、す……と緩やかな動作で右手を掲げる。
 何もない空間から詠の掌に青いネックレスがこぼれ落ちた。彩華が麻布都から預かった例のネックレスである。
「ご苦労。あとはいい」
 (あるじ)の言葉を受け、月の神気に似た気配は一陣の風と共に消え去った。
 受け取ったネックレスをちらりと見やると、胸ポケットから青い珠を取り出し、片手で器用に紐に通す。
 呪具というものは一カ所に集まりやすい。付喪神が憑いていなくても、不思議なことに勝手に移動している。
 負の気が強い場所へ。呪具(じぶん)を必要とする人間の元へ。そして、本来あるべき場所へと帰りたがり、それが可能な場所を捜し出す。
 目の前にネックレスを掲げると、再度詠の唇が動いた。
 満天の夜空を切り取ったラピスラズリのネックレスは、陰湿な雰囲気を立ち上らせていたが、今は神気を反射してきらりと輝いている。先端から徐々に形が崩れていき、金砂となったそれは下へは落ちずに舞い上がった。
 付喪神とは違い魂は宿っていない。あるのは持ち主の強い(おもい)のみ。
 光の粒子は心残りがあるらしく、詠の頭上で渦を巻くように漂っている。
「……情けをかけてやる」
 お前の望む夢を与えてやる。それが偽りのものだとしても。
 ついと手を翳すと、柔らかな青白い光が流星に似た軌道を描いて上昇する。金砂と交じりあい、天空で琴を思わせる音を奏でた。
 その霊妙な楽の音に、詠は目元を和ませる。
 楽しげに乱舞していたその光は、満足したのか闇夜へと溶けていった。



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