たいじや -鏡の月- 2
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 薄い掛け布団の中から細長い指が現れた。電子音を頼りに目覚まし時計を手探りで探している。
 目当ての物にたどり着いた指がスイッチをオフにした。
 音が止んでから数秒後。のそのそと布団から這い出た彩華(あやか)は、小さな欠伸をひとつ噛み殺した。目じりに浮かんだ涙を指先で払うと、首を前後左右に動かす。
 癖のない黒髪を手ぐしで軽く整えつつ、カーテンと窓を開けた。
 部屋中に入ってくる心地のよい風を受けながら、彩華は肩から腕をほぐすように動かした。
 身体がひどく重い。
 無理な体勢で寝てしまったのかと考えた彩華は、昨夜のことを思い出して動きを止めた。

 雲ひとつない晴れた夜だった。なのに、雷がひとつ落ちる音が轟いたのだ。
 独特の雷光はなく、何事かと思った彩華は窓を開けて外の様子をうかがった。
 ――やはり晴れている。
 耳を澄ませるが雷の音はもう聞こえない。
 なにか霊的なことでも起きたのか、宮司である父の元へ行こうかと思い窓を閉めた瞬間、背後でどさりと音がした。
 どこかへ姿を消していた月詠尊――(えい)が、文字通り転がり落ちてきた。
 先ほどまで自室でのんびりと過ごしていた彩華は、突然のことに頭が真っ白になり事態を飲み込めずにいた。
 詠が床に這い蹲り荒い呼吸を繰り返している。
 こんな風に苦しんでいる詠は知らない。
 初めてのことに彩華はどう対処すればいいのか戸惑った。第一、三貴神のひとりと言われている神相手に、人間ごときができることなんてないのだ。
 ひどく狼狽して、貧弱ではない男を支える。熱を帯びた身体はいつも以上に重く感じる。
 両腕で抱えるようにすると、彩華の首筋に顔を埋める男の息がかかった。
 傍にいろ、と耳元で囁く艶のある声に、思わず倒れこんできた彼を突き飛ばしたくなるほど心臓が飛び跳ねた。一瞬硬直して気を取り直して、何とか重い身体をベッドに横たわらせる。
 そうしてやっと鼓動の早い心臓を落ち着かせられると思ったというのに――するりと伸びてきた詠の手に捕まった彩華は、あっという間に彼の腕の中へと収まった。
 絡みつく腕は、彩華がもがけばもがくほど纏わりついてくる。強い力で組み伏せられて、ぴくりとも動けない。背中が圧迫されて苦しさに彩華の顔が歪んだ。
 かすれた声で訴えて、やっと緩められる。
 そろりと離れた詠は今にも泣きそうな目をしていると思った。そのまま去ろうとする男を、今度は自分から引き寄せて、抱きしめて。
 やっと落ち着いたのか、彩華を見下ろす詠の眼差しに感じていた(かげ)りが消えた。互いの息がかかりそうなほどの至近距離で、ふたりの視線が交わる。
 その後のことは覚えていない。眠ってしまったのだろうと彩華は考えた。
 ただ、服ごしに触れた肌と唇が熱を帯びていたのは、よく覚えている――。

「彩華様」
「ぅひゃぁ!」
 突然声をかけられた彩華は、素っ頓狂な自分の声にバツが悪くなり眉をよせた。気を取り直してきょろきょろと部屋を見回すが、どこにも誰の姿もない。
 あんなにはっきりと聞こえたのに幻聴ってことはないよね……と彩華が首をかしげていると、足元で霊力が竜巻のように巻き上がった。銀に近い真っ白な風は、間もなく回転の勢いが弱まって消える。その跡には、銀色の毛並みをした仔犬が、行儀良く待て≠フ姿勢で座っていた。
 辺りに漂う霊気で、これが妖の類ではないということがわかる。仔犬が纏っている神気は、彩華の住まう月詠神社に満ちているものと同じである。
「えっと……緋月?」
 多分そうだろうとあたりをつけて名を呼ぶ。
「はい」
 銀色の尻尾がぱたりと振れた。よく見ると毛の色は銀ではなく、うっすら緋色がかっている。瞳の色も緋色だ。だから緋月≠ネのかと納得する。
 以前、数回会ったときは仔犬ではなく、詠に似た雰囲気の人型をとっていた。違うのは、髪の長さと表情がないことくらいだろうか。
「私は本殿におりますから、御用があれば呼んでください」
「ん。ありがとう。……彼は、出かけたんだよね?」
 緋月の目の前に正座する。彩華が耳の後ろを撫でると、気持ちよさそうに耳をそよがせた。
 こんな何気ない仕草もよく似ている。
 目を伏せた彩華に対して、緋月が心配そうに見上げた。
「ええ。理由は教えていただけませんでしたが」
「すぐに、戻るよ。きっと」
 本音を誤魔化すように彩華は平然を装って答える。
 そっと手を伸ばして緋月を胸にしっかりと抱き上げると、柔らかな毛が彩華の顎をくすぐった。
 過去にも離れていた時期はある。だがそれは学生時代の修学旅行程度。今回のように期間が決まっていない別離は初めてだ。
 何とも思わずに笑い飛ばすことなどできない。
 泣きそうになるのを誤魔化すように、彩華は緋月を抱く腕に力を込めた。
「……彩華様。そろそろ離してください」
 身をよじって緋月が訴える。
「え? あ、ごめん! 苦しかった?」
 両脇に手を入れて緋月を持ち上げると、ぷるぷると犬が水分を飛ばす感じで体を揺すってから緋月が口を開いた。
「いえ、そうではなく……」
 言いよどむ緋月に彩華が先を促すと、少し困ったように呟いた。
「あまり密着しすぎると、私が主に殺されますので」
 殺伐とした言葉とは裏腹に、緋月の尻尾が軽やかに揺れた。
「…………」
 緋月には、はっきりと分かる表情がない。ないから、ぱたぱたと左右に振れる尻尾との奇妙なアンバランスさに彩華が吹き出した。
「おかしいですか?」
「う、うんっ」
 ひとしきり笑ってから、彩華は瞳に涙を浮かべつつ弁解をはじめた。
「詠がその姿のときって表情豊かだから、何か変な感じで。動物って表情がないから、別に変じゃないんだけどね」
 普段冴え冴えとした月そのものの彼は、あれでなかなか子供っぽい部分がある。変化しているときは特にそうだ。小柄な姿と相まって、さらに幼く見えるのかもしれない、と彩華は独りごちた。
「ごめんね、緋月」
「いえ。あなたが笑ってくださるのなら本望です。あなたが寂しくならないようにと仰せつかっていますから」
 思い出し笑いをしていた彩華が真顔になる。
「……そっか」
 夢うつつの中で聞こえた「すぐに戻る」という言葉を、今は信じて待つしかない。
 これで仕事もしないでグズグズしてたなんて知られたら怒られちゃうもんね、と寂しげな表情をしつつ、それでもしっかりとした声で言葉を紡ぐ。
「ねぇ。ところで緋月って、お菓子とかご飯とか食べられる?」
「それなりに」
 左右に振れた尻尾が嬉しそうだと彩華は思った。
 食事は必要ないはずなのだが、詠と同じらしい。飼い犬は飼い主に似るのか……と彩華が失礼なことを考えているとは露知らず、緋月は不思議そうな顔で次の言葉を待っている。
「詠と似てるね。食べることが趣味?」
「趣味とは違いますが。私は主の神気から作られた存在ですから、性質は似るでしょうね」
「じゃあ、好きな食べ物は? やっぱり洋菓子より和菓子がいいのかな?」
 ふさふさな尻尾が揺れた。艶やかな毛並みは、日の光を受けて時折銀色の輝きを放った。
「餡子は好きです。甘すぎず、きめの細かい餡子は上品で良い。そこに柔らかい餅があわされば、なお良いですね」
 緋月が神妙な顔で首肯する。どうやら以前食べた菓子を思い出しているようだ。
 その様子がおかしくて、彩華は小さな笑みを漏らした。



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