紙をめくる音が断続的に続いている。 月詠神社の授与所裏。薄い壁と壁代と呼ばれるカーテンで仕切られた休憩室で、彩華は置いてあった雑誌を斜め読みしていた。 壁時計を横目で確認してみると昼休みが終わる十分ほど前だった。 両手を天井に向けて大きく伸びをすると、目の前にいる巫女に声をかける。 「有紀ちゃん、お茶もう少し飲む?」 「半分くらいちょーだい」 そう言って静かに置かれた湯飲みに緑茶を淹れて渡す。 指先に伝わる緑茶の熱さに湯飲みを落としかけた彩華は眉をしかめた。 うちにあるの熱伝導率が高いなぁ、とぼやきつつ彩華が自分の湯飲みに口をつけていると、 「ねー、上月さんって今こっちにいないんだよね?」 携帯を弄っていたアルバイト巫女の有紀が、唐突にそんなことを言った。 「詠? ……うん。実家に戻ってるよ」 「じゃあーあれってやっぱり他人の空似かなぁ……」 有紀が頬杖をついて呟く。 「空似って?」 雑誌を閉じて彩華が尋ねると、有紀はうーんと唸りながら首を傾げた。そのときのことを思い出しているのか、宙に視線を漂わせている。 話の先を促すと有紀は彩華の方を向き、少し困った風に言葉を続けた。 「昨日、駅前でね、上月さんに似た人がいたんだよね。出かけてるって聞いてたから、まぁ夜だし、そっくりさんなだけかなーと思って」 「そんなに似てたの?」 頬杖をついたままの有紀へ笑いを含んだ声をかけた。 自分と同じ顔の人間が三人はいると言い伝えはあるが、彼にそれが通用するかは疑問である。 「あっちの人の方が怖い感じはあったかな。近づきにくいというか。目があった気はしたけど、すぐにどこかへ行っちゃったから、やっぱり他人の空似なんだろうなぁ」 でも、すんごく似てたんだよねーと湯飲みを啜る。緑茶の熱さに舌を痺れさせながら有紀が言葉を重ねた。 「兄弟とか?」 「んー……兄弟はいるけど、双子みたいにそっくりじゃない」 ――と思う、という言葉を飲み込んで彩華が答えた。 だいたい会ったことがないから何とも言えないのだ。詠とは遠い親戚と話しているし、ではどうして会ったことがないのかと問われても、答えようがない。 言いよどむ姿に有紀は気づいていないらしく、彩華は安堵した。 「えーじゃあ、あれが見間違いじゃなかったら、ドッペルゲンガー? ……あ、なんか怖いかも」 浮かんだ考えに有紀が身震いする。 もうひとりの自分に出会ってしまう心霊現象のことをドッペルゲンガーと言う。 鏡には映らない。 正体は自身の魂である。 予知能力があるためドッペルゲンガーを見る。 正体は何かわからないが、本体と入れ替わるために本人を殺してしまう――。 さまざまな謂れがあるが、もっともよく伝わっているのはその存在は自分とそっくりでありながら邪悪なモノで、これに本人が出会うのは死の前兆≠ナある。 「はい、先生。素朴な疑問。日本にもドッペルっているの?」 有紀が顔の横で小さく手をあげた。 「んーと」 突然問われて、彩華は自身のこめかみを両の拳で挟みぐりぐりと揉む。記憶を掘り返しても該当する妖怪は思い当たらない。 「わたしが知らないだけかもしれないけど、いないかな。似たモノはいるけど」 オモカゲと呼ばれる妖怪がそうであるという説もあるが、オモカゲは遺恨を持ったまま彷徨い続けている幽霊に近い存在だ。 幾分か冷めた中身を半分ほど飲み干して、彩華は湯飲みを静かに置いた。残った緑茶にぼんやりと映る自身の顔が、不意に笑った気がして肩を揺らす。 すぐに気のせいと気づいた彩華は、そっと息を吐いた。 「どんなの?」 「たとえばね……」 たとえば、人の姿に擬態する能力を持ったモノ。その人間の容姿・性格を完全にコピーして、悪戯程度ならばまだいいが、本人と成り代わろうとする。 映画等で登場するそれら定番の化け物は、ドッペルゲンガーとは違うと思う、と彩華が答えた。 「そっか。その、見かけた人。見た目は冷たそうだったけど、悪人には思えなかったし、ただのそっくりさんかもね」 「うん」 有紀の言葉を肯定して頷きながらも再度思案する。 ただの人ならば異形の可能性もあるが、彼は別格だ。神の御霊を模写するなんて芸当ができるのならば、それは相当な力の持ち主であろう。 本当に他人の空似ならばそれで問題ないし、少し調べた方がいいのかもしれないと彩華は独りごちた。 術を使用して幻影を見せるのではなく、そっくりそのままというのは難しいはず。だから月詠尊のコピーではないと思う。 だけどもしそれが可能だったとして、と思いついた彩華が眉をひそめた。 「どうしたの?」 「…………。彼の姿をコピーした妖が出てきたとして、それが悪意持ってない方が怖いかも……」 「なんで?」 有紀がきょとんと聞き返す。 「あんな大食いがふたりも居ついたら、うち破産するよきっと」 同じ性質を持つ者がふたり。必然的に高村家の居候となるだろう。ひとりでも大変なときがあるというのに、それが増えたらどうなるのか――。 彼の食べっぷりを知らない者は、この神社にはいない。 真顔だが目が笑っているのに気がついた有紀がぷっと吹き出した。思っていた以上に大きい笑い声を出してしまい、慌てて声を殺す。 どうやら授与所側には聞こえなかったらしい。視線をあわせたふたりは、ほっと胸を撫で下ろした。 「じゃーそろそろ食費稼ぎに戻りましょーか?」 おどける有紀と顔を見あわせて彩華は密かに笑う。 手早く休憩室を片付けると、仕切りの壁代をそっと開けて授与所側を覗いた。 今日は晴天で風も暖かく気持ちのよい日だが参拝者はまばらだ。知名度の高い神社ならば毎日のように祈祷が行われているであろうが、祭事や行事がなければ月詠神社はさほど忙しくはない。もっとも、外法師の仕事である怨霊退治が立て続けに入ってくれば話は別だ。 彩華の父親である宮司は、すでに前線からは退いている。兄の咲也も術者であり、いずれ月詠神社を継ぐことになっているが、外法師ではない。 将来的には彩華も神職の資格を取ることになるが、中心の仕事は怨霊退治である。古の時代よりは異形の数も減ってきているとはいえ、怨霊の類は今だ少なくないのだ。 陽のある場所に陰がある。昼は明るく夜は暗く。男がいて女がいて――そして、人がいる場所には妖が存在する。 すべての現象は相対する陰と陽から成る。陰陽思考に基けば、いつか詠が言っていたように一掃≠オなければ妖が消えることはない。 少々げんなりとする考えを頭の隅に追いやって、彩華は硬くなった顔を軽く揉みほぐしてから移動する。 「彩ちゃん、お札が少なくなってきているから先にお願い」 授与所番の交代のため顔を出した彩華に、巫女が声をかけた。 「ん。わかった」 外へ出た彩華は降り注ぐ陽の眩しさに僅かに目を細めた。数回瞬きして視界をはっきりさせる。 自宅方向へ歩きかけて、ふと立ち止まり本殿を見やった。澄んだ青空の下、本殿は威風堂々と佇んでいる。神社周囲の緑も、いつも通り生き生きとしている。 神社に満ちている神気に変化はない。問題があれば、まず宮司が気づくはず。何も聞かれないのだから通常の状態なのだろう。 「だけど」 ぽつり呟いた。術者の勘なのか心がひどくざわつく。 青空とは裏腹に、不安の渦が広がってゆくのを感じた彩華は唇を噛みしめた。 ただの思い違いならいいけれど――と。 |