詠が「意外と近い」と言うだけあって、源泉渇水の根源があるらしい山へはすぐに着いた。旅館からはほんの二十分ほどだった。 麓には立ち入り禁止≠フ札とロープが張ってある。 さほど高くはない山だ。小高い丘と言った方がいいのかもしれない。所々に落石防止用の網と柵が設置されている。 「ここでいいの?」 訊ねると、詠が頷いた。 近くまで来ているはずなのに、彩華にはまだ異変を感じられない。 辺りを見回して誰もいないことを確認すると、ふたりはロープを潜って奥へと進む。 「……立ち入り禁止っていうから、もっと歩きにくいのかと思ったんだけど、綺麗な道だね」 神域とされる山は登山禁止になったりするが、ここは違うらしいのはわかる。元は登山道だったのだろうか。よく整備された道は頂上まで続いていそうだ。 詠が立ち止まり、右手上部を指差した。 「あの辺、見えるか? 山肌が少し崩れているだろう?」 「えー? どこ? ……あ、本当だ」 「地盤が弱いんだろうな。なかなかいい場所なんだがなぁ」 大雨による土砂崩れ等で今は立ち入り禁止区域になっているらしい。人の手が加えられないためなのか、自然の生気が感じられる。深呼吸すると身体全体に力が漲りそうだ。 ゆっくりと数回呼吸していると、詠の呼ぶ声が聞こえた。いつの間にか先に行っていたらしい。彩華は慌てて先を歩く詠のあとを追う。 彼は緑が生い茂り、トンネルのようになっているあたりで彩華を待っていた。 ちらりとその奥に目を向けると、出口らしき辺りが日光で白くなっていた。さほど長いトンネルではないようだ。 「ごめん」 「妙な気配は感じないけれど、俺から離れるなよ。……行くぞ」 先を促されて森の中を歩いていくと、あっという間に森を抜けた。 幻術の結界がかけられていたらどうしようかと一瞬思ったが気にしすぎだったようだ。ほっとして、彩華は周囲を観察する。すぐにあるものが目についた。 「……。なんか、いかにもな洞窟発見」 少し離れた場所に、人ひとりが通れるくらいの洞窟の入口があった。 ここまで来れば流石に彩華でも異変を感じ取れた。微量だが洞窟から妖の気配が洩れている。 周囲の気配を注意深く探りつつ妖の潜む洞窟へと入ってゆく。 「森気と妖気の入り混じった奇妙な場所だな」 詠がため息のように呟く。 入口と比べると中は思っていた以上に広かった。真っ暗で彩華の目ではどこに何があるのか確認できない。 詠の細長い指がぱちんと音を鳴らす。――瞬間、彼の指先から現れた白光が辺りを照らした。 目の前が急に明るくなり、彩華は数回瞬きして光に目を慣れさせると、周りの様子をうかがった。妖の気配は感じるが、一体一体の力は弱そうだ。 「結構広そうだね」 「あぁ」 「……。奥……に妖気が溜まってるみたい?」 その言葉に詠が頷くのが視界の隅に入った。彩華はふたたび周囲を見回すと、妖気を感じる奥へと目を向けた。洞窟の奥底は人の視力ではわからない。深い闇が広がっている。 「行くぞ」 先導する詠の後をつかず離れず着いてゆく。 奥へ進むほど冷たく湿った空気を肌で感じた。源泉がここにあるとは思えないが、水と縁のある場所のようだ。 ぬかるむ土を踏むと独特の音がする。帰ったら靴洗わなきゃなぁ、などと彩華が物思いにふけっていると――。 足場が悪かったのか、考えごとをしていたためなのか。泥に足を滑らせた彩華は小さく悲鳴をあげた。 後ろ向きに転倒しそうになったところを詠に支えられて、安堵の息をつく。 「いつ襲われるかわからないのだから、ぼうっとするな」 詠の声音は呆れ気味だ。 「ごめん。ありがとう」 手を借りて体勢を立て直すと、彩華は足元に目をやった。その途端、眉間に皺をよせる。 ぬかるんだ地面は人型を取っていた。泥人形がうつ伏せで落ちている――そんな感じだ。人形の背中のあたりに、彩華の靴底らしき跡がついている。 その泥人形が体を震わせたかと思うと僅かに顔をあげた。恨めしそうに彩華を睨みつけ、やがて形のない泥へと戻っていった。 「やるじゃないか」 思いもよらない方法で泥の妖怪を退治したらしい。 「なんか、すっごく複雑な気分……」 歩きながら彩華が呟いた。 霊力も使わず意識もせず、ただ踏みつけたことで一発退治とは。乱暴者が力任せに排除したようではないか。 「普通の人間はなかなかできないぞ」 感嘆とした声をかけられても彩華は嬉しく感じない。彼女が眉をひそめている顔は、先を歩く詠には見えないはずなのだが、彼は楽しげに喉を鳴らしている。 「おっと……」 笑うのをやめた詠が不意に立ち止まった。 詠の背中から覗くと、最奥まで来たのか行き止まりだった。 「あれか」 松明代わりの光で照らした方を見やると、彩華は思わずたじろいだ。人の気配に驚いたのか、光に照らされた半透明の塊が蠢いたのだ。 何かで見たことがある、と彩華は思った。人の背丈の二倍はありそうな大きさで、形は半球状。その体を構成している物質が何なのかは考えつかない。ゼリー状で後ろが透けて見える。これは――。 「……スライム……?」 その声に反応したかのように、半透明の物体が身を揺すった。 これが、源泉が枯れた原因なのだろうか……? 彩華の疑問に答えるように詠が口を開いた。 「妖気の塊だな、これ。この辺り一帯の気の流れを遮っているらしい」 「そっか。どこか別の場所に移動する気はない? そうすれば退治しないから」 妖に言葉が通じている様子はない。そ知らぬ顔で上下に揺れている。 先に変化に気がついた詠が訝しげに目を眇める。 「――彩華、下がれ」 耳障りな金切り音を出して、妖が突然ふたりに襲いかかった。 ひらりと妖の攻撃を避けると、彩華は神呪を紡ぐ。言葉が霊力の刃となり、妖の体を真っ二つに引き裂く。断末魔をあげる間もなく、妖の体は千々に砕け散った。 「これで大丈夫……かな?」 流れ出した気≠僅かながらも感じ取った彩華は視線を巡らせた。 「少ししたら元に戻るだろう」 「よかった。帰ろうか。そろそろ日が暮れそうだもの」 用事が済めばいつまでもここにいる必要はない。 来た道を戻って洞窟の外を目指す。 人が踏み入れない土地は妖たちにとって棲みやすい場所だと彩華は思うのだが、帰り道は不思議と妖に出会うことはなかった。最奥にいた妖を退治したことで、他は逃げ出したのかもしれない。 「え……」 外の眩しさに細めていた目を見開いた。 「綺麗……なにこれ?」 彩華が感に堪えないといった風に笑みをこぼす。 無数の青白い光がふわふわと漂っている。地上から天へ向かって昇ってゆくようだ。 「自然界に溶けこむ生気だよ。滞っていた気の流れが急に正常になったから、人の目にも見えるようになったんだ」 詠の説明を聞いて、彩華が疑問を投げかける。 「麓は騒ぎになってないかな?」 邪気を感じなくても、そこかしこに光が浮いているのは異様な光景だろう。 「霊感があるなら見えるだろうけれど、大抵はわからないだろうな」 「ふぅん。……ねぇ、少し遠回りしていかない?」 二度とはお目にかかれないかもしれない。時間の許す限りこの景色を眺めていたい。 そう思いながら彩華は小首をかしげて詠の顔を覗きこむ。 「あぁ。そうだな」 彼女の提案に快く頷き、詠は笑顔で答えた。 |