温泉へ行こう-温泉地にて1-
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 ホームに降り立った彩華は、すぐにぶるぶると身を震わせた。
 底冷えのする寒さだ。気温はさほど低くはないのだが、冷え切ったアスファルトからの冷気が伝わってくる。
 雪の季節ではなかっただけまだ良かったのかもしれないと、彩華はコートの胸元を手繰り寄せた。
「そんなに寒いか?」
 訊ねる詠は薄着のわりにあっけらかんとしている。
「そりゃあ、詠は感じないでしょうよ」
 霊気も冷気も熱気も自動シャットアウトだ。人間ではないから。人である彩華にとっては羨ましい限りである。熟練の術者ならば、霊気は自身に影響が出ないように調節可能なのだが、彩華はまだそこまで達していない。強い霊気にあたれば具合が悪くなってしまう。
「いいなぁ」
 ないものねだりをしても仕方ないのだが思わずぼそりと呟く。寒暖はともかく霊気に関しては自分が頑張るしかない。
「……あれ? 詠?」
 いつの間にか少し離れた場所に移動していた詠は、辺りを見回して何か考えてこんでいた。顎に手を添えて、遠くを探るように目を細めている。
「どうしたの? なにかあった?」
 声をかけると、彼は不思議そうな顔をしつつ彩華の元へと戻ってきた。
「わからないか? ……微量だからなぁ。仕方ないか」
 彩華を責める風でもなく詠は独りごちる。
「まぁいい。少し様子を見てみるか。――最初はご当地ラーメンだっけか?」
 話しながらふたりは改札口へと向かう。オフシーズンのためか、平日のど真ん中だからなのか、地元住人以外は見当たらない。
「うん。ここから十分くらいのところだって。……こっちだね」
 地図で場所を確認した彩華は、詠を手招きすると軽く眉をしかめた。
「お腹空いた……」
 彼女の言葉にあわせるように、ぐぅ、と腹の音が鳴った。小さい音であったが詠には聞こえたようだ。
「さっき何か食べておけばよかったのに」
 詠は新幹線の中で駅弁をふたつ腹に納めたのだった。彩華は飲み物程度しか口にしていない。
「わたしは小食じゃないけど大食いでもないから無理。ラーメンがどうしても食べたかったんだもの。お腹がブラックホールのあなたと一緒にしないでくれますかー?」
 呆れたようにため息をつく。
 ふたりで話している間も何が気になるのか、詠はしばらく辺りを見回していたのだが、やがて心外だとでも言いたげな顔をして視線を彩華に移した。
「俺の腹もブラックホールじゃないけどな」
 いささかとんちんかんな答えである。
「……本気で回答もらっても困るけどね。でも一度中がどうなっているか切り裂いて見てみたいかも」
「やってみてもいいけれどな」
 彼の言を聞いて、彩華は僅かに顔をしかめた。人間とは違い命を落とすようなことはないのだろうが、腹を掻っ捌いてニコニコと笑う異様な姿を想像してしまったのだった。
「……手品と思えばなんてことないけど、お断りします」
 きっぱりと拒絶した。
 タネも仕掛けも本当にない状態では、不気味すぎる。
「じゃあ、機会があったらそのうちな」
「ないない。一生ない!」
 軽口を叩きつつ、ふたりは目的地へと歩いてゆく。
 さりげなく寒気から身を守るべく身体を抱き寄せられて、彩華はほんのりと顔を赤らめた。


「ふー。つっかれたー」
 部屋に案内してもらい、彩華の口から最初に出た言葉はそれだった。柔らかな座布団の上に足を投げ出して、自身のふくらはぎを指で強く押す。
 目的のご当地ラーメンの店は駅から徒歩十分程度であったのだが、その後近くの神社やら無料足湯やら、さまざまな観光スポットに立ち寄った。結果、要所要所で休憩が入ったとはいえ、旅館まで一時間ほど歩いたことになる。
 いい運動にはなったけれど足がパンパンだ、と彩華が呟く。
「温泉行ってこようかな」
 せっかく温泉地へ来たのだから、やはり夕飯前に一度入っておきたい。存分に満喫したいものだ。そう思い立った彩華は、詠を見やった。彼は少しだけ眉間に皺をよせ、考える風な仕草をしている。先ほどから気になることがあるらしい。
「この部屋、何かいる?」
 神経を研ぎ澄ませてみるが、彩華には何も感じられない。そういえば、ホームに降り立ったときから様子がおかしかったと思い直し、外へ意識を移動させてみたが、やはりわからない。
「部屋じゃなくって外だな。さほど離れた場所じゃないようだが……」
「……駄目。さっぱりわからない」
「ほんの僅かな気の歪みだからなぁ……これに気づくのは神霊の類か妖怪か……もしくは一流の術者くらいだろうから安心しろ」
 ――慰められているのか、それとも貶されているのか。
 おそらく前者なのだろうが、彩華は渋い顔をした。少々ムッとするものの、旅先で喧嘩するのも馬鹿らしいと聞き流す。
「遠くないなら散策ついでに様子見に行く?」
「あとで行くつもりだったからまずは場所特定しないとな……。ひとまず温泉行くなら行ってこい。歩き疲れてるんだろう?」
 疲れを微塵も感じさせない顔で詠が言う。
「いいの?」
「調伏退治に来たわけじゃないしな。楽しんでこい」
「そう? ありがと」
 備えられているバスタオル類と、チェックインした際に貸し出された浴衣を手に持って準備する。浴衣は最近多いらしい、女性専用のおしゃれ浴衣≠ナある。
 定番の紺色もいいが、こういった心遣いは嬉しい、と彩華は顔を綻ばせた。
「じゃあ行ってくるねー」
 彩華はひらひらと手を振って部屋を出る。
 まずは大浴場がいいだろう。この辺りは星が綺麗だと聞いたから、露天風呂は夜にしよう。
 そう思いつつ廊下の案内に沿って進んでゆくと、すぐに大浴場の入口が見えてきた。
「……ん?」
 なにやら様子がおかしい。先に入ろうとしていた女性ふたり組みが、一言二言言葉を交わして、中には入らずに去っていった。
 不思議に思いつつも入口に近づくと、彩華は足を止めた。ただいま準備中≠ニ書かれた札の前でしばし立ち尽くす。
 温泉旅館で温泉に入れないとは、これいかに。掃除の時間はとうに終わっているはずなのだ。
「どういうこと?」
 誰に言うわけでもなく呟く。いくら宿泊が無料でもこれはないだろう。理由は書いていないから、誰かに訊ねるしかない。
 彩華は周囲に視線を巡らせて仲居の姿を探した。


 彩華が部屋に戻ると、詠は窓際のソファに座って目を閉じていた。眠っているわけではなく、外の気配を探っているのだろう。
 彩華が近づくと詠は瞼を開けた。切れ長の瞳は少しだけ険しさを帯びている。
「ただいま」
「ずいぶん早いな。忘れ物か?」
「違う。温泉ない」
「……は?」
 簡潔すぎる返事に、詠は目を丸くする。
 詠と反対側のソファに腰掛けると、彩華は旅館の女将から聞いた話をかいつまんで話し出した。

 この辺り一帯は豊富な源泉に恵まれていて、常に良質な温泉をお客様に提供しているのだが、最近温泉が止まってしまうことがある。源泉が枯れた訳ではなく、止まったかと思えば突然湧き出てくる。原因は調査中だが、訳がわからず近隣の旅館もほとほと困っている、と。

「今日は朝から止まっていたけれど、昼過ぎに湧き出てまた止まって……。今は勢いよく湧き出しているから、夜には入れますって言ってた」
 詠が言ってた気の歪み≠ニ関係あるかなって思って戻ってきたんだけど……と、彩華は小首をかしげた。
「……そうだな。僅かでも周囲に影響が出ているんだろうな」
 険しい表情のまま、詠は腕を組み深く嘆息する。
「場所はわかったの?」
 彩華の問いかけに口の端を少しだけ持ち上げて笑う。
「当然。意外と近い」
「じゃあ、早速行こう」
 言って、今にも飛び出しそうな勢いで立ち上がる。
「……凄いやる気だな……」
 詠は若干呆れ顔だ。
「だって、温泉はまだ入れないから時間潰せないし」
 行動を起こすなら日が暮れる前がいいだろう。
 彩華が詠の見つめながら言葉を続ける。
「明日の朝も入れなかったら嫌だもの」
 今夜は大丈夫でも明日問題ないという保証はないのだ。せっかく温泉地へきたのだから、可能な限り何回でも入りたいと思う。ここは美肌の湯と聞いたのなら、肌がふやけるまで入りたいと思うのが温泉好きの性なのだ。
「この先も温泉が出ないままならここ廃れちゃうでしょ?」
 ここへ来ることはもうないかもしれないが、消えてしまうのは寂しい。
「それに、一仕事終えた後のご飯はいつも以上に美味しいよ、きっと」
「ひとを食べ物しかないように言うな」
 詠が拗ねたように半眼で見つめ返した。だがそんなことには気にも留めず、彩華はにっこりと微笑む。
「他意はないから安心して。ここ、温泉も有名だけど食事もいいって聞いたんだ。ゆっくり旅行に来れるのってもうないかもしれないし、楽しむためには障害は排除しとかないとね。それに、わたしたちに害がなくってもほっとけないでしょ?」
「まぁ……原因がはっきりしていないとはいえ、妖が関係しているのなら無視する訳にはいかないからな」
 彩華の言い分に得心がいったらしく、詠は真面目な顔で頷く。
 観光地らしく交通も便利ではあるが、旅館の周りは自然に囲まれている。行動するならば早いうちがいいだろう。真因を突き止めたはいいが、真っ暗な森で迷子になったら笑えない。もっとも、詠がいるから大丈夫であろうが。
 そうと決まればあとは早い。
 調伏に使用する道具はいついかなる時も持ち歩いている。
 彩華はそれらを旅行鞄から取り出すと、ポケットにしまいこんだ。



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