たいじや -天の盃- 序章
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 今夜はやけに静かだ、と少女は思った。
 夜道を一人の少女が歩いている。足音だけがやけに夜道に響く。
 彼女は不安げに眉をひそめた。
 まだそれほど遅い時間ではないというのに、どうしてこんなに心細いのか……。
 ところどころ民家の明かりが点いていているのに人の気配は感じられない。
 少女は自身の不安を誤魔化すようにきつく手を握り締める。力をこめすぎたせいで手のひらに爪が食いこむ。しかし彼女はそれにも気づかないのか、さらに力を入れた。そうでもしなければ恐怖で足が竦みそうだったのだ。
 腕時計を見れば、午後八時を過ぎたばかりだ。マンションや一軒家がひしめきあっているこの道は、駅前ほどではないが普段はもう少し活気づいている。
 なのに、今は彼女以外はいない。今夜に限って彼女以外誰もいない。深夜ならまだしも、通常の帰宅時間に人気がまったくない。自動車も、一台も走っていない。
 少女の歩く道だけが異空間に取り込まれたかのようだ。
 月のない夜はこんなにも暗く感じただろうか……?
 空は黒く厚い雲で覆われていて、今にも泣き出しそうに見える。まるで今の自分の心のようだと彼女は思った。
 風に木々がざわめいてびくりと肩を揺らす。
 ただの風だ。ほっとして小さくため息をついた。これなら、誰か知らない人間につけられている方が、人影が見える分よっぽどマシだ。
 強がりを言いながらも足を止めることはない。
 風が止むと耳が痛くなるような静寂が辺りを包んだ。コツコツと彼女の靴音だけが響く。
 普段通る道なのに――ひっそりと静まりかえったこの場所は、昼間も夜間も何度も通っているというのに別の場所に感じる。
 自分自身を守るかのように身を縮こませて、彼女はひたすら歩く。
「……」
 背後から何かが這うような音が聞こえた気がして足を止める。
 気のせい……だよね……?
 少女は注意深く辺りを見回した。街灯に照らされた自分と、自分の影しか見あたらない。
 きっと、体調が悪いから心細く感じるんだ。朝から喉が痛かったから、風邪でもひいたんだろう。暖かい布団に包まれて朝までぐっすり眠れば、この不安な気持ちも解消されるはずだ。
 コートの前合わせをぎゅっと握り締めて帰路を急ぐ。
 急に呼び止められた気がして足を止めたけど……気のせいだったようだ。人の気配がないのに声がするはずがない。さっきのは空耳に違いない。やっぱりわたし疲れているんだ。
 少女は心の中で呟いた。
 大会が近いからしばらく部活は休めないのだ。困ったように眉をひそめ、少女は少しだけ歩みを遅くした。貧血でも起こして人気のないここで倒れてしまうのは嫌だと思ったのだ。
 誰も通りかからずここで凍死なんて洒落にならない。
 その姿を想像して少しだけ笑う。
 彼女の立てる靴の音だけが夜道に響いている。
 だが、それは間違いであった。もしも術者がこの場にいたならば、それ以外に聞こえた音は空耳でない、と助言があっただろう。しかし人々を闇から守る術者は今ここにはいない。
 最寄り駅から彼女がいつも使う通勤路は、自動車も走る大通りだ。歩道には街灯が一定間隔で設置されており、真夜中でも決して視界は悪くはない。なのに、今はほんの一メートル先でさえまともに見ることができない。
 彼女に霊感というものが備わっていたならば、あるいは、もう少し注意深い性格だったのなら、この道の異変に気づけたはずだった。
 時すでに遅し。
 少しずつ少しずつ――闇に棲むモノの術に嵌っているとは思いもせずに、少女は暗闇の奥へと進んでゆく。
 ふいに、しゅるりと風を切る音がして、少女は首をかしげた。
 今のはなんだろう? 風が吹いた様子はなかったのに……。
 生温い風に頬を撫でられ、背筋に悪寒が走るのを感じた。その瞬間、自分の意思とは関係なしに足が止まる。
「――?」
 くいくい、と足が引っ張られるのを感じて足元を見た。
 ――暗くてよく見えないが、これは縄だろうか。自身の腕と同じくらいの太い縄らしきものが足首に巻きついている。
「なに、これ……」
 少女は屈んでそれを取り去ろうとしたが、できなかった。両の手首にも巻きついた縄が、彼女の動きを阻んでいたのだ。
 僅かな身じろぎすらできない。
「や……」
 高くあげようとした悲鳴は阻まれた。唯一自由に動く眼球を必死に動かして横を見やった。
 背後から伸びてきた太い縄が、自身の口を塞ぐように絡まっている。鼻から下顎のあたりにかけて何かが巻きついている感覚がある。
「っ……ぐ……」
 ぞっとするほど冷たい霊気を放つモノが背後から近づいてくるような気がした。
 人ならざるモノが段々と近づいてくる――。
 逃げ出すこともその場に座ることも叶わずに、恐怖に身を硬くしてガタガタと身体を震わせるだけだ。
 首にも優しく巻きつかれて、知らず目尻から涙が零れ落ちた。すぐ傍にいると思われるモノからは人の気配が感じられない。
 嫌。
 誰か。
 誰か助けて――。
 みっともなく泣きながら、助けを呼ぼうと少女はありったけの声を張りあげる。だが。
 悲鳴はくぐもった呻き声に留まった。
 首筋に針が刺さったような刺激を感じた少女の身体がびくりと痙攣する。
 不思議と痛みはなかった。しかし、得体の知れない何かが血を吸っている感覚に恐怖を覚えて、彼女はがたがたと震えあがった。
 いっそのこと気を失ってしまえば楽になれるのに……。
 恐怖に染まりきった彼女の心は、意識を手放すことを許しはしなかった。
 どうして自分がこんな目にあうのかわからない。いつも通り、部活動に精を出していただけだ。
 どうしてどうしてどうして――。
 やがて考えることもできなくなった彼女の両腕がだらりと垂れ下がる。
 焦点のあわない虚ろな目には何も映ってはいない。
 少女に更にきつく巻きつこうとしたソレは、だができなかった。鎌に似た白刃が、縄とおぼしきモノを切り裂き赤い液体が噴出する。
 街灯に照らされて鋭く光る刃は、やがて虚空へと消え去った。
 直後、青白い炎がソレの一部を焼き払う。
 思いも寄らなかったのか、ソレはずるずると這いながら後退してゆく。暗闇の中で一度がたんと音がしたが、後には何も聞こえない。
 支えがなくなった少女は鈍い音をたてて地面に落ちた。すでに気を失っていて、身じろぎひとつしない。街灯に照らされた顔は青白く、まるで血の通っていない人形のようだ。
 実際近づいてよく見なければ、捨てられた粗大ゴミか何かだと思うだろう。現に自動車は気づかずに走り去っていった。
 街灯に照らされた小さな生物の影が少女に近づき鼻を鳴らす。
 黒猫だ。
 柔らかい肢体を少女に摺り寄せて、まだ息があることに気づくと安堵の息をつく。
 首をかしげるような仕草をした黒猫は、背後から聞こえてきた音に反応して振り返る。そうして舌打ちする。
 周辺に張り詰めていた暗闇と静寂を打ち消すかのような足音だ。規則的ではなく、よたよた、よろよろと表現できそうな心もとない歩き方だ。
 歩道の右端から左端を往復するように、千鳥足で男が歩いてくる。
 仕事帰りのサラリーマンだろうか。スーツ姿のその男の顔は赤く、上機嫌で鼻歌を歌っている。
 しばらく動かないでいた黒猫は、にゃあと一度大きな声で鳴くとその身を闇に紛れさせた。
 異変に気がつき、男は歌をやめた。飲酒でぼやけている目を必死に凝らして数メートル先をじっと見つめる。人が倒れているのを認識すると、男は恐る恐る近づいて倒れている少女に大丈夫かと声をかけた。
 反応はなかった。
 身を屈めて強く肩を揺すった拍子に、うつ伏せになっていた少女の身体が反転した。
 ひっ、と男の口から悲鳴が洩れる。
 少女の首筋にある小さな穴からは少しずつ血が流れていた。地面に広がっていた血だまりのせいで少女の半身が薄汚れている。
 恐怖に凍りついた表情を浮かべて尻餅をつきながら、男は後ずさりする。
 人気のなかった大通りに悲鳴が響いた。

   ◇ ◇ ◇

 ねえ、知ってる? 『天の盃』って。
 えーなに? それ?
 お皿状態で空に浮かんでる三日月にお願い事すると願い事が叶うってやつ。
 ああ。それって『受け皿の月』って名前じゃなかった? こう……細い三日月の膨らんでる部分が下になってるのでしょ? 月の形がお皿みたいに見えるから『受け皿の月』って。
 うんそうそう。でもそれはただのおまじない。私が言ってるのは都市伝説。
 えー。
 その、月のおまじない。普通に試すのは問題ないんだけど、都市伝説の『天の盃』は、実は妖怪が月に化けてて、お願い事をしたひとを狙って食べちゃうんだって。
 ふうん。
 でね。――その話を知っちゃっても駄目なんだって。
 ちょっとぉ……それじゃわたしが死んじゃうじゃん。やめてよぉ。
 ごめんごめん。でも妖怪を退けるおまじないもあって、それが『かけまくもかしこきつきゆみのみことは じょうげんのおおぞらをつかさどりたまふ』って。唱えると月の使者が助けてくれるって話。
 月の使者ぁ? それって神様の眷属ってやつ? 変なのー。
 どうせ噂でしょー。聞いたら死んじゃう都市伝説なんてよくあるじゃない。現に私は平気だしー。

   ◇ ◇ ◇



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