国際空港の喧騒が一瞬静まり返った。 颯爽と歩くふたり連れに、人々は好奇心の目を向ける。 特に皆の目を引いているのは女だ。 手入れの行き届いた髪は金色。彼女の背中に流れる巻き髪が、蜂蜜のごとく艶やかな光を放ちながら、歩くたび優雅に揺れている。肌は白くなめらかで、血色の良い唇は可憐な花のようだ。 その横を歩く男は彼女の従者らしく、ひとりで荷物を運んでいる。こちらは茶色い髪に青い瞳が印象的で、女に負けず劣らずの端正な顔立ちをしていた。 長期の旅行なのか荷物が多い。しかし男は苦にも感じないのか、その顔には疲労の色はない。 『エリーザ、あちらです』 ラインヴァルトは反対方向へ行きかけた連れの女を呼び止めた。振り向いた拍子に落ちたエリザベートの帽子を拾いあげ、軽く埃を払ってから彼女に被せる。 『ありがとう』 礼を言いながら男の目を見つめてにっこりと微笑んだ。 見目麗しい男女の組みあわせに、ふたりを見た者はため息を洩らした。海外のモデルかと囁きあう声が空港内に広がった。 『変装した方が良かったかしら?』 噂話に気分を害した風はなく、純粋に疑問を口にした。 『無意味でしょうね。あなたはたとえボロ布を頭から被っていても目立ちますから』 ラインヴァルトの言葉に不思議そうな顔をして、エリザベートは口元を緩ませた。布を被った自身の姿を想像したらしい。 『……その格好は逆効果じゃない?』 目立たないようにするのにそれでは意味がない、とエリザベートは薄茶の瞳を細めて笑う。 『そのような格好をあなたにさせるつもりは毛頭ありませんが……視線が気になるのでしたら、術でもかけますか?』 自分たちの姿を変えることはできないが、周囲の興味を逸らせることは可能なのだ。 ラインヴァルトが提案すると、エリザベートはしばし思案してから首を横に振った。 『いいわ。面倒だもの。それに目立ちたくはないし』 この土地の異能力者に自分たちの存在を知らせる気はない。 別に戦争を仕掛けるつもりで日本へ来たのではないのだから、こそこそ隠れる必要はないのだが、余所者の上陸が気に入らない者たちも少なからずいるだろう。 『せっかく気配を隠しているのだから、わざわざ存在を明かすこともないわ』 ほんの僅かでも術を使えば、力ある者ならば気づくはず。 『それもそうですね』 ラインヴァルトは彼女の答えに同意して歩みを進めた。 『……エリーザ? どうしました?』 エリザベートが立ち止まったのに気がついて振り返る。彼女は空港の案内図を見ていた。 おそらくレストランフロアを見ているのだろうと、ラインヴァルトは苦笑する。 『――時間はありますから、休憩しましょうか。長旅で疲れたでしょう?』 懐中時計で時刻を確認すると飲食店を向いたままのエリザベートに尋ねる。 『うん』 笑顔で頷く姿がまるで子供のようだ、とラインヴァルトは笑みをこぼした。 彼女を促してエスカレーターで上階へとあがると飲食店の自動ドアをくぐる。その後にエリザベートが続いた。 『紅茶でいいですか?』 青年の問いに頷くことで答えると、エリザベートは店内を見回した。 「ホットの紅茶とコーヒーをひとつずつ。……あと、ロールケーキをひとつください」 流暢な日本語で注文する青年に一瞬見惚れて固まった店員が、アルバイト仲間に急き立てられて慌てて動き出した。それを笑顔で受け流すと、ラインヴァルトは横に立っているエリザベートへと顔を向けた。 『先に座っていてください』 『ここで待ってるわ。あなたがいくら力持ちでも、スーツケースとトレーは持ちにくいでしょう?』 青年の足元にはスーツケースとボストンバッグが置いてある。対する女は何も持っていない。 「お待たせいたしました」 エリザベートが青年より先にトレーを受け取って店員に微笑した。 「ありがとう」 彼女も綺麗な発音の日本語だった。 『こっちでいい?』 囁きあう客たちには目もくれず、エリザベートはまっすぐ窓際の席へと歩いてゆく。 ガラス張りの店内からは人々の流れがよく見える。店の反対側に目を向けると、さまざまなショップが立ち並んでおり、出立前の旅客たちが買い物をしていた。 その様子を眺めながらエリザベートは紅茶のカップに口をつける。 『食べないの?』 プラスチックのフォークに手を伸ばしながら訊ねるでもなく言うと、真向かいに座る青年が頷いた。 『ええ』 ケーキを口に運ぶ彼女の顔はとても嬉しそうな表情だ。大半の女性と子供は甘い物が好き、というのはあながち間違いではないと、ラインヴァルトは改めて思う。 チェーンストアーのケーキだから味はそこそこだろうと彼は思っていたが、彼女はどうやら気に入ったようだ。 『食べる?』 言って、エリザベートがフォークに一口大のケーキを刺して青年の前に差し出す。何の躊躇もなくラインヴァルトはゆっくりと唇を寄せてそれを頬張った。数回租借して飲みこむ様子を見て、エリザベートが微笑む。 『おいしい?』 『はい』 青年は物柔らかな表情を変えることなく頷く。逆に店内にいた数名の目撃者たちの方が照れて顔を赤くしていた。それに気づいているのか、それともわざとなのか、エリザベートがふたたびケーキを差し出した。 『もう十分ですよ。あとはエリーザが食べてください』 微笑みながらラインヴァルトはカップに口をつける。元々彼はコーヒーだけのつもりだったのだ。 『足りなければもうひとつ買ってきましょうか?』 『……そんなに食いしん坊じゃないわ』 少し頬を膨らませて心外だとばかりに睨むエリザベートに、彼は素知らぬ顔をして『そうですか?』と一言呟いた。 男の一言に含まれる意味に気づいたエリザベートは、ムッとしながらも食欲が勝って、目前のロールケーキにフォークをつきたてる。 その手が突然ぴたりと止まった。 『エリーザ?』 様子がおかしいエリザベートに声をかけるが、彼女は黙ったままだ。まるで何かを探るような、確かめるような。そんな目をしている。 『気になることでも?』 重ねて尋ねると、彼女は小首をかしげて遠くを見るような仕草をして、 『……ヴァンピーア、の気配がね』 声をひそめて言った。だが自分たちの周りには今は誰もいなく、外国語を理解する者もいないだろうからとエリザベートは声を元の大きさに戻した。 『ここではないけれど。気配がするの』 ヴァンピーア。ドイツ語で吸血鬼を表す。 『日本にですか?』 まさか、とラインヴァルトが呟いた。 血を好む異形は日本にも存在するだろうが吸血鬼≠ニ言うからには己の良く知っているモノを指しているのだろう。ラインヴァルトは意識を張り巡らせたが、彼にはわからなかった。 しばし考えて彼女は首を横に振る。 『アレに近づけばあなたにも感知できるでしょうね。ここからでは少し遠すぎる』 ラインヴァルトはふたたび意識を集中してみるが、やはり彼には感知できなかった。 『どうしますか?』 『そうねぇ……放っておく訳にはいかないかな』 とはいうものの、観光目的でこの地へ来たのだ。それに余所者があえてでしゃばる必要も、ないと思う。 これも縁かもしれないけれど……とエリザベートが唸った。巻き髪を人差し指に絡めて弄りながら考える。 『少し様子を見ましょう。休暇のつもりで日本へ来たのだし、観光できないのは嫌だもの』 この地の異能力者たちの目をかいくぐって異形を始末するなど彼女には容易い。そうしたくないのは、今回ここへ来たのが単に観光目的だからだ。 『久しぶりの日本なんだからゆっくりしたいわ』 緩慢な動作で頬杖をついてぼやく。 『……エリーザは日本へ来たことがあったんですか』 『一度ね。あの頃は船を乗り継がなくてはならなかったから、かなり時間がかかったのよ。航海も悪くはないけれど、今は飛行機があるからあの頃よりも便利になったわね。景色は変わってしまったところもあるけれど、そのまま残っている風景もあるし、とても楽しみにしていたの』 過去を思い出して懐かしむようにエリザベートが笑む。 『そう、ですか……』 ラインヴァルトは困惑したように言葉を濁した。 『なぁに?』 彼の眉が寄せられたのに気づき、エリザベートが問い返す。 ラインヴァルトは表情を変えぬまま視線を彼女から外して、ぼそりと一言洩らした。 『……誰かと一緒だったのですか?』 青年の言葉にエリザベートは一瞬不思議そうな顔をして、それからぷっと吹きだした。 『もちろんひとりよ。誰かを傍に置こうなんて思わなかったもの。後にも先にもあなた以外と暮らす気はないわ』 だから安心しなさいと言外に言われたラインヴァルトは、ほんのりと赤くなっている頬を隠すために顔を背けた。無表情を装っているようだが、内心は嬉しいようだ。 見た目のわりに幼い行動をする青年に、エリザベートはころころと喉を鳴らすと何気なく窓の外に目を向けた。そうして、凍りついたように動きを止める。 『エリーザ?』 何を思っているのか、一点に視線を定めたまま微動だにしないエリザベートへ声をかける。穏やかな光を湛えていた瞳に、冷たい焔が宿っている。 同じ方向へ目を向けると、幼い子供が危なげに走っていた。親に叱られ足を止めるが、顔は笑ったままだ。 『……子供は嫌いよ。脆いから』 そう言って痛ましげに目を細める彼女を、ラインヴァルトは黙って見つめることしかできなかった。 『それは』 ラインヴァルトはそこで一旦躊躇して言葉を切る。それから幾分か言いづらそうに続けた。 『私の前に出会ったという人間の少女のことですか?』 エリザベートは答えない。身じろぎもせずに自身の手に目を落としている。 『そうね……』 それだけ言って痛ましげに表情を翳らせる。自身の魂に刻まれた赤い色が、彼女の脳裏に浮かびあがった。 人間は決して入らないはずの深い森に供えられた血まみれの幼い少女。 吸血鬼の贄≠ニなった者は死から逃れることはできない。 たとえ化け物の気まぐれで見逃して貰えたとしてもだ。 『心の闇は、新たな化け物を生み出す』 『エリーザ?』 ラインヴァルトが聞き返すが、独り言だったらしい。エリザベートはそれ以上言葉を発さず目を閉じて――すぐに開けた。 光の加減で金と見紛う色をその双眸に宿らせて、エリザベートは遠くを見据えるように目を細める。 彼女の様子に、ラインヴァルトは背筋にひやりとした緊張感を覚えた。気が遠くなるほどの月日を彼女と共に過ごしているというのに、いつまでも慣れないでいる。人を畏怖させる力に圧倒されて、ラインヴァルトは身を強張らせた。 『――そろそろ行きましょうか。アレのいるあたりを通りかかれば、どうするべきか判断もつくと思うしね』 つい先ほどまでの激情が嘘のように、エリザベートは穏やかに微笑んだ。 |