たいじや -天の盃- 3−1
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 暗闇に浮かび上がる提灯や灯篭の薄明かりが厳かな雰囲気を醸し出している。
 しんと静まり返った境内には誰もいない。参拝時間も過ぎ、仕事を終えた職員たちもすでに退出している。
 月詠神社には門はないので、望めば夜の境内を参拝することは可能だ。しかし特別見るような物はなく、夜の参拝者は滅多にいない。来るのはせいぜい本殿の縁の下に間借りしている野良猫くらいだろう。
 神社と同じ敷地内にある建物の扉が静かに開かれた。
 顔を出したのは彩華だ。巫女装束はとうに脱いでいて、今は長袖のシャツにジーンズというラフな格好である。自宅から出ると、そっと扉を閉めてゆっくりとした足取りで歩いていった。
 両手にそれぞれ何か持っている。片手に小さな皿。反対には小型のランタンだ。これはキャンプなどで使用する携帯用のランプで、日が落ちた後に境内を歩きやすくするために購入した物だ。提灯の仄かな明かりでは裏まで照らすのは難しい。
 彩華は書庫と井戸の横を通って本殿へと歩いていった。
 虫の奏でる音色が夜の静寂と相まって心地よく感じる。ふと立ち止まった彩華は軽く目を閉じて視界を遮断した。こうすると自分がどこにいるのか一瞬わからなくなり、瞑想しているときのようなリラックスした感覚を味わえる。
 しばらくそうして昼間の喧騒を忘れると、ふたたび足を踏み出した。
 本殿へとやってきた彩華は中の様子をうかがう。気配は感じないが、呼べば現れてくれるだろう。そう思い、転ばぬよう欄干へ手をかけて上がろうとする。
 僅かだが空気の流れが変わった。
 辺りが真っ暗なことと、月詠尊の神気が満ちる領域だからと安心していたせいであろう。彩華は気配を殺して近づいてくる小さな影に気づかなかった。
「――ばぁ」
 ランタンの明かりに浮かびあがったのは黒猫。
 あげそうになった悲鳴を寸でのところで飲みこみ、ざっと後へ跳ぶ。反射的に戦闘態勢に入ろうとして――毒気を抜かれた。
 これは良く知った神気だ。
「つ……きかげ?」
「おう」
 不審物の正体は、ついこの間月詠神社の新しい居候となった神霊だった。月影と呼ばれた黒猫は、意地の悪い笑みを浮かべながら尻尾を揺らす。
「なにをそんなに慌てている。神域なんだから妖は入ってこないだろう?」
「いきなりだったからパニックになったの! それに絶対入ってこないって保障あるの?」
 声を抑えつつも強く言葉を放つ。
 彩華の心臓は早鐘を打ったままでしばらく治まる様子はない。深呼吸で落ち着けて、未だに楽しそうな面持ちの月影をじろりと睨む。
「保証はないな。どんなことも絶対≠ヘない」
 うんうんと頷く姿に怒りを削がれて、彩華は深いため息をついた。
「寿命が五年は縮まったかな」
 昼間のことと今の出来事。今日一日で一年分は驚いた気分だ。
「なぁに。最近の平均寿命はながーくなっているからな。大丈夫だ」
 反省の色は感じられない。
 何が大丈夫なのかと呆れ顔で睨みつけるがまったく効果はないようだ。
「ふぉっふぉっふぉっ。まだまだじゃのう」
 声音を変えて意地の悪い笑みを浮かべる黒猫を再三睨み、彩華は彼の左頬のあたりを軽く抓った。
「いてっ」
 わざとらしく痛がる月影に対してわざとらしくため息をついた彩華は、月影を無視して本殿へと入っていった。
 本殿の中は暗闇に包まれている。明り取り用の小窓が幾つかあるが、それだけでは満足に見渡せない。
「おっ。それなんだ?」
 背後から月影の声が聞こえたかと思うと室内が明るくなった。月影の仕業であろう。
 彩華はランタンを消すと自分の横に置いた。
「りんご。――詠はまだ戻ってないよね? 緋月は?」
「月詠の命でお使い中だ。ふたりともそろそろ戻ってくると思うが……全部食べていいのか?」
 ぱたりと尻尾を振る月影の視線は彩華の手に注がれている。
「食べられるならいいよ」
「この程度でオレが腹一杯になる訳なかろう」
「うん。それ自慢にならないからね」
 いつかどこかで聞いた台詞に苦笑して、行儀よく座っている月影の前に皿を置く。
「いっただっきまーす」
 底抜けに明るい声でそう言うと、月影は床に尻をつけて座り、両手でりんごを器用に持ってかぶりついた。
 月影は黒猫の姿のままだ。彼の正体を知らない者が目撃したら物の怪の類と思うだろう。だが本殿は立入禁止であり今は夜。この場に居合わせる者がいたとすればそれは不法侵入者だ。精神に異常をきたしてもこちらに責任はない。
 りんごをぺろりと平らげて、月影は機嫌よく彩華を見やり、
「今日は夕方から何も食べていなかったからな。腹が減って力が出ないところだった」
 と、食べなくても問題はないはずなのにおかしなことを言った。
 不思議に思った彩華が眉をひそめる。
「今日は……って? わたし、あんまり持ってこないよね?」
 彩華の自宅で当然のように食事をする月詠尊とは違い、月影も緋月も物を食べる習慣はない。と言うより必要がないのだ。普段は大気に溶けこんでいる生気を得ているのだという。
 それとも宮司である父だろうか。猫の姿で気配を誤魔化していれば、神社に住む野良猫と間違えるかもしれない。
 彩華の疑問は月影の言によって解決された。
「猫のフリしてぽってぽって歩いていると、結構もらえるぞ」
 何をもらえるとは言わないが、なんとなく思い至った彩華が目をむいた。
「保健所に通報されないでよ」
「そんなヘマはせん。月詠神社の美猫って有名なんだぞ? どうだ。綺麗な毛並みだろう」
 そう言って尻尾をくねらせる。程よい艶を帯びた毛はとても柔らかそうだ。確かに美猫と言ってもよい。
「……なんで、うちの猫って知られてるのよ?」
 まさか言い回っているはずはないだろう。化け猫の話は一切聞いていない。しかし、だから問題ない、とは言い切れなかった。
 彩華の懸念は、月影の回答で一応は拭い去られた。
 月影が首の辺りをちょいちょいと指で示す仕草をする。毛で覆われたそこには朱色の首輪が着けられていた。何か文字が見える。
 彩華が指で毛を掻きわけると、黒文字で月詠神社≠ニ記されていた。
「こうしておけば神社の猫に無体を働く者もいないだろう? ――悪戯小僧にはそれなりの報復はするがな」
 などと言いつつ月影は彩華の膝に乗る。体を丸め、喉を鳴らす猫さながらの様子に、彩華は優しくその背中を撫でた。柔らかい毛の感触に笑みをこぼす。
「子供相手に本気にならないでね」
「惨いことはしてない。石投げてきたから鬼の幻覚見せて泣かしただけだ」
 さらりとひどいことを言う。月影は笑いもせず、怒りもせず、ただ尻尾を左右に動かしている。
 彼が子供相手に本気になるとは考えられない。ないのだが……相手がどのくらいの年齢かはわからないが、彼らが体験したその恐怖は計り知れないだろう。
「ああいう小僧は少し怖い目にあったほうがいい。すぐ謝ったから後始末もしたぞ」
 撫でていた手を止めて月影を抓ろうとした彩華であったが、一応言っていることは正論だと思い、それはやめた。
 知らないとはいえ、神に属する者に喧嘩をしかけるのだからそれなりの覚悟が必要だ。とは言うものの、子供にそれは酷すぎではある。
 自身で責任がとれないほど悪いことをしでかす前に理解できるのなら、早いに越したことはない。
「まぁ……悪戯も限度があるからね。でもやり過ぎたら今度はわたしが怒るからね」
「へいへい」
 強めの口調で釘を刺すが月影はまったく動じていない。膝の上でごろごろと甘える様子にすっかり怒る気も削がれ、月影にはわからぬようにそっとため息をつく。
 全身全霊をかけて挑んでも、たかが人間では返り討ちにあうのだから仕方ない。
 首の辺りを撫でていると、くすぐったいのか、月影が身を捩らせた。
「触られるの嫌?」
「嫌じゃないが……こそばゆい」
 そう言いながらさらに身体を動かす。だが本気で嫌ではないらしく彩華の膝から逃げないでいる。
 彩華はというと、先ほど驚かせられた仕返しとばかりに首を撫でるのをやめない。
「やめんか」
 諌めるような強い口ぶりではあったが、目には楽しげな色を宿している。月影はにんまりと笑い、膝の上から彩華の胸元に飛びこんだ。
 勢いがついていたことと突然のことに驚いて、咄嗟に構えることができなかった。
 彩華は悪戯猫を落とさぬよう片手で抱き、もう片方の手で倒れないように自身の身体を支えたが、遅かった。そのまま後へ倒れこむ。
「いったぁ……」
 かろうじて頭を打つのだけは免れた。しかし床に打ちつけられた背中の痛みに彩華が呻き声をあげる。
「おー。悪い悪い。痛かったか?」
 その軽い物言いからは、反省している様子がまったくと言っていいほど感じられなかった。
 彩華はいささかムッとして、肩に乗りかかっている月影を引き剥がそうとする。重くはなかったのだが、押し倒されている格好は、相手が猫の姿とはいえ気恥ずかしかった。
 ――が、月影の行動が一歩早かった。彩華の手をすり抜けて彼女の前顎に前足を置いて首を伸ばした。自身の鼻を彼女の鼻へと擦りつける。
「ちょ……くすぐったいってば」
 声を出して彩華が笑う。
 僅かに顔を背けて月影の戯れから逃れようとするが、それは叶わなかった。彩華の顎にはぷにぷにとした肉球が添えられているだけだというのにだ。
 どうやら不可視の力で押さえこまれているようだ。自身にのしかかっているものは猫の姿であり、重さもさほど変わらない。それなのに体感重量は成人ひとり分――いやそれ以上だ。彼の神気がそう思わせるのかもしれない。
 ぼんやり思っていた彩華は、一向に止まないむず痒い接触に笑い声をあげた。
「月影。じゃれるなら相手するからちょっとどいて」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど重い」
「そうか」
 彩華の訴えを聞いた月影は、彼女の唇を一度舐めてからニヤリと笑った。
 温かい体温を間近に感じて彩華の頬がほんのりと赤く染まる。
 目を細めた月影は、それ以上はなにもせずに床へ降りた。
 彩華は体勢を整えて、せがむ月影を胸に抱く。今度は重さを感じなかった。
「さっきのどういうつもり?」
 猫同士が鼻を擦りあわせるのは挨拶だと聞いたことがあった。だが彼は生粋の猫ではないのだから、それは当てはまらないだろう。
「なに。アニマルセラピーというやつだ」
 思いもよらない単語に目を丸くする。
「そういう知識って、どこで仕入れるのよ?」
 彼自身で手に入れた事柄もあるのだろうが、大半は本体と言える月詠尊の知識、記憶だ。
 月影は現代の言葉で言えば、月詠を核にして、悪しき術者に生まれさせられたいわばクローン。彼の誕生≠ヘ気の遠くなるほど大昔らしいが、最近封じられた場所から表へ出てくることになり、そのときに本体の記憶やら何やらを得たのだという。
 今は猫の姿を好んで実体化しているようだが、本来の姿は月詠尊と瓜二つだ。ふたりの違いを挙げると、月影の方が纏う神気がほんの少し荒々しく、目つきが鋭い。ふたりを並べれば、それなりに違いを見つけることは可能だろうが、はっきり見分けるのは難しいだろう。
 月詠は柔らかい印象が強いとはいえ、荒々しい面も持ちあわせているのだ。逆に月影は一見怖そうな雰囲気を漂わせている割には、愛嬌があり親しみをも感じさせる。
 神が持ちあわせているふたつの面――荒御魂あらみたま和御魂にぎみたまが均等に分かれると彼らのようになるのかもしれない、と彩華は思う。
「どこって。誰かが話しているのを聞いたり……そうだなあ……最近は猫の集会に顔を出している」
「……」
 何と言っていいのか困り、彩華は口を噤んでしまう。
「奴らは変化に敏感だからな。異変があれば真っ先に感じ取る。異形の気配を見失ったら、まずそこいらにいる奴に聞いてみるといい」
「無理。動物の言葉なんてわからないもの」
 そんな芸当、人間にできるわけがない。
「そうか。人間には不可能か。だが、オレらも言葉が話せる訳じゃないぞ。そいつが表に出す雰囲気で感じ取るんだ。彩も、異形の醸し出す気配や心霊が何を訴えているのか、大体はわかるだろう? それの応用だ」
「じゃあ……動物に関しては、長く一緒に暮らしてて、飼い猫の気持ちがなんとなくわかる感じ?」
 そういったこともあると耳にした。
 彩華が自分なりに答えを導き出すと、月影はうんうんと頷いた。その姿はさながら弟子を指導する師匠のようであった。
「うむ。そう思っていい。……で、お前話があるんじゃないのか? ただ遊びに来た訳じゃないのだろう?」
 月影は彩華の腕から抜け出すと、先ほどとは打って変わって真面目な顔をした。彩華もそれに習い笑顔を消して身を正す。



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