たいじや -天の盃- 3−2
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 昼に朔也から聞いた話を語り出すと、月影は表情を硬くしながら彩華の声に耳を傾けた。
「でね、神様の見解を聞きたいんだけど……?」
 聞き終えた月影は複雑な表情を浮かべている。
「どうしたの?」
「……オレが仕留め損ねたヤツの話だなあ、と思ってな」
 眉間に皺をよせて口を曲げた。
「逃がしちゃったんだ」
 何気なく呟いたその言葉に反応したのか、月影はいかにも不機嫌だと言わんばかりに尻尾で床をぺしぺしと叩いている。
「あってるけどっ。はっきり言うなっ」
 忌々しげに月影がぼやく。彩華に八つ当たりすることはないが、彼の纏う空気が傷ついたから慰めろ≠ニ主張している。
 その様子に苦笑いをすると、月影を膝に乗せてその背中を思い切り撫で回した。首を触られるのは嫌だがこちらは平気らしい。
 自慢するだけあって、黒猫の毛は柔らかく、肌に触れる感触が気持ち良い。艶やかな毛並みは新月の闇夜を思わせる。
「で、それと遭遇してどうだったの?」
 ひとしきり撫で回してから彩華が再度問いかけると、顔を膝に突っ伏したまま、渋々といった風に話し始めた。
「異変を感じて出かけてた訳じゃないから、直前まで気づかなかった。それまで妖気なんて一切感じなかったってのに、いきなりヤツの結界の中に放りこまれて……正直驚いたな」
 猫の姿に擬態して神気を抑えていたことが原因だったのか、その妖も彼には気づかなかったのだ。妖の悪事に遭遇できたのは不幸中の幸いだ。
「それで、追っ払いはしたんだが、気配までぱったり消えちまって」
 一見無表情に取れる顔には困惑の色が浮かんでいる。先ほどから左右に大きく振れている尻尾は、戸惑っている彼の感情を表しているようだ。
 神に属する者が見失うなんて、相手はそれほど強い妖なのだろうか。
 その彩華の疑問を月影はきっぱりと否定した。
「いや、力はたいしたことない。ずる賢いってか、頭は良さそうだがな」
「頭がいい? ……そうか。逃げ道を残してたんだもんね」
 納得してから彩華はうーんと唸った。
「……まぁ、どこに隠れているか予測はしていたがな」
 考え事をしている彩華には彼の呟きは聞こえなかった。ひとしきり考えてから口を開いた。
「そうだ。姿は見てないの?」
 彼らには暗闇は関係ない。瘴気や妖気が強いなど、よほどのことがない限りは昼間と同じくらいよく見えるだろう。そして、そのよほどのこと≠燒ナ多にない。
「見たには見たが」
 すっきりしない物言いである。
 月影は一度尻尾を強めに動かすと言葉を続けた。
「あれ、一部分しか表に出してなかったな。にょろにょろくねくね、よく軽快に動き回るなぁなんて感心した」
「暢気に感想言わないで」
 彩華は呆れ顔で言い放った。敵ながらあっぱれ、という感情もわからなくもないけれど、と続けて呟く。
「おおすまん。オレが見たのは足先……いや、手先? 全体を見た訳じゃないんだが」
 月影はそこで言葉を区切り、丸い目を眇めた。先ほどまで面白がっていた彼の視線が少し真面目なものとなる。
 全体を見ていないとはどういうことかと彩華が首をかしげる。
「どういう状態? 結界で隠されてたから見えなかった、ってこと?」
「いや違う。妖の体は地下にあって、血を摂取する部分だけを地上に出すんだ。そうすれば自分を排除しようとする敵≠ノ襲われても体だけは無事でいられるからな」
 月影の説明は意味不明なものだった。
 眉間に皺をよせて考えこむ姿を笑われて、彩華がムッとする。
「正体がわかってるなら教えてよ」
「なんだと思う?」
 問答を楽しんでいる様子の月影は意地の悪い笑みを浮かべたままだ。尻尾が軽快に揺れている。
 彩華は考えてみるものの、思いつかず白旗を揚げた。
「お前たちが考えた通りあれは血を吸う樹木だよ。日本古来の妖怪じゃないみたいだが。どうして地上で妖気が感じられないのかと思ってたんだが……下水道使って移動してるんだろうな」
 下水の気≠フ澱みに遮られて妖気が視えづらくなったのだろう。
 彩華は月影の説明にふむふむと頷き、
「海外の化け物なのかな? じゃあ……詠が出かけたのと関係してる?」
「いーや。まったく関係していない」
「別件なんだ」
 異変のタイミングが良すぎて、もしかしたらと思った彩華であったが考えすぎだったようだ。
「無縁ってこともない気はするけど、本当に偶然ってこともありえるな」
「どっちにしろ退魔の準備しなきゃ」
 今はまだ仕事の依頼はきていないのだが、近いうちに話が来る可能性は大だ。明日突然要請されるかもしれない。それまでにできる準備はしたほうがいいだろう。
 彩華の考えを読んだのか、月影は彼女が拍子抜けすることを言い出した。
「――あれ、しばらくは動かないと思う」
「どうして?」
「ただの勘だ。次に動くのは満月の夜だな」
 勘と言うが、やけにきっぱりと言い切られて彩華は言葉を返せない。
「オレの考えが間違ってなければ、満月までは問題ないよ。ま、オレがちょくちょく見回りしてやっから心配するな」
 そうして、月影は彩華の膝の上から床へと身軽に降り立つ。目を丸くする彼女に、にやりと笑った。
「それより。お前、他にも気にしなきゃならないことがあるだろう?」
 問われて怪訝な顔をする。
 月影は少々呆れ顔で息を吐くと彩華を見上げた。
「祭があるだろうが。巫女舞は大丈夫なのか?」
 彩華がうっと息を詰めた。
 月詠神社では毎年、旧暦の九月十五日に秋季大祭が行われる。農作物の収穫を感謝して、翌年の豊作を祈念する祭だ。
 月詠尊は名前が表す通り月の神であるが、穀物とも深く関わりがあると言われている。彼が殺めた保食神うけもちのかみの身体より様々な種が生成され、これが五穀の元となった。古人は満ち欠けを繰り返す月と、実りと枯死を繰り返す植物を結びつけたのだろう。
 祭には巫女の舞が欠かせない。重要な務めのひとつだ。神社で働く巫女は全員が舞えるように講習を受ける。
 特に決まりがある訳ではないのだが、月詠神社では縁者の巫女がいる場合は、その者が一人舞を必ず舞うことになっている。
 祭まであと僅かだ。
「大丈夫……と思う」
 ひどく狼狽した様子で彩華が呟いた。段々と語尾が消えそうになってゆく。
 舞の覚えは早いが、精細さが欠けていると常日頃言われている彩華であった。
「おいおいしっかりしてくれよ。当日熱出して舞えません、なんて恥ずかしいからな。ちゃんと調子整えとけよー?」
「そんなことしません」
 彩華が面白くなさそうに抗議する。
 祭の当日に倒れたら、巫女の数がギリギリだというのに迷惑がかかるではないか。
 肩を揺らしている黒猫に文句を言いかけて、彩華は不意に眉根をよせた。
 いざというときは気合で乗り切ると思っていても、身体がそれについていかなければ意味がない。万一の場合は代役を頼むツテもあるにはあるが、頼らずに済むのならばそれに越したことはない。体調管理を行うことも仕事のひとつだ。
「……そうね」
 素直に頷くと、黒い尻尾がよろしいとばかりに揺れた。
「でも、祭の日だけでも誰か手伝ってくれると助かるんだけど」
 月影が渋い顔をする。
「頼めないのか?」
「急だからね。募集すれば応募はそこそこあると思うけど。簡単な仕事のみ頼むとしても、それなりに面接はしなきゃならないし」
 祭が近くなればなるほど宮司である父も忙しくなる。そうなると時間は取れないだろう。
「一応、何人か知り合いに声かけてみるけどね」
「そうか。オレが手伝えることならやるぞ」
「ありがとう。そのときは頼むね」
 頭を優しく撫でると、月影は猫を真似て「にゃあ」と鳴いた。



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