Mon petit mouton-モン プティ ムトン-
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Episode 0

 目の前に現れたその姿にミシェルは目を丸くする。
「ようこそいらっしゃいました。当屋敷、執事のクリストフと申します」
 良く通るバリトンの声で、執事だというその男がそう言った。
「…………」
 困ったように首をかしげると、彼女のやや濃い栗色の髪がさらりと揺れる。
 クリストフは人の良さそうな笑顔を浮かべているが、ミシェルは困惑するばかりであった。


Episode 1

 ミシェルはその日何度目かのため息をついた。
 今日は雲ひとつない良い天気だ。外に出てしまえば多少気分が沈んでいても、すぐに晴れそうなくらい綺麗な青空だ。なのに、彼女の心はどんよりとした鉛色に染まっていた。
 泣きたい気分とはこのことか。
 ミシェルは再度ため息をつく。目の前に座る男にちらりと視線を向けると、男にわからぬように薄茶の瞳を伏せた。癖のない長い髪が乱れるのも構わずにがしがしと頭を掻く。
 ――まぁ、仕方ないわね。
 幸か不幸か。彼女は十代半ばにして諦める≠ニいう言葉を、重要な単語として己の辞書に記している。
 だが常に後ろ向きに考えているわけではない。できる限りのことはやってみる。どんな状況に陥っても逃げずに向かいあう。けれど、どれだけ自身が頑張っても、不可能なことを可能にする魔法は持ちあわせていないのだ。
 精一杯やってみて、変化がなければそれ以上は時間の無駄。ただそう思っているだけなのだ。
 ミシェルと向かい合わせに座る男――彼女の父親は、大きな身体を小さく丸めるように項垂れている。
「とにかく屋敷に行ってくる。もともと、薔薇が一輪ほしいと言ったのは私だもの。後のことは屋敷の主に会ってから考えるしかないわ」
 声は穏やかであったが、その眼差しには強い光が宿っていた。
「ミシェル……」
「いくら馬鹿親父でも見捨てるわけにはいかないものね。――で? なんで森へ行ったのよ?」
 刺々しい物言いに、ミシェルの父はさらに身を縮こませた。

『森の奥には行くな。特に屋敷に近づいてはいけない』

 幼い子供でも知っていることを、どうして父がやってしまったのか。素朴な疑問だった。
 屋敷へ迷い込んだ者が気が狂れてしまっただとか、行方不明になってしまっただとか――ただの噂ではなく、実際に記憶をなくした者が見つかっている。今では盗賊ですら怖がって近づかないと聞いた。そのお陰でこの一帯は盗賊の被害が少なくなっているので、村人たちはある意味感謝しているのだが、それとこれとは別だ。
「……森を通れば近道だからな……」
 男は小さく呟いた。
 それを聞いて、ミシェルは得心がいったように声をもらす。
 街道を通ると馬で三日はかかる。だが森を抜ければ二日……早ければ一日半でこの村へ着く。できる限り早く家へ戻ってきたかったのだろう。
 普段は心もとないけれど、家族思いの優しい父親なのだ。それはよく理解している。
「近道を通ってきたのはわかったわ。それで、どうして屋敷主の怒りを買ったの?」
 極力穏やかに先を促す。
 やがてミシェルの父親がぽつりぽつりと話しだした内容はこうだった。

 街へ出稼ぎに出たミシェルの父親は、運のいいことに割のいい仕事にありつけた。そうしてある程度稼いで、早く家へ帰るために森を通ることにしたのだった。
 森の道はほぼ一本道だ。例の屋敷へ行くには途中で曲がらなければならない。横道へ反れずにただひたすら馬車を走らせていれば、問題ないと思っていたのだ。
 だが……どういった術がかけられていたのか。まっすぐ村への道を進んでいたはずなのに、なぜか屋敷の前に止まっていた。
 慌てて引き返し軌道修正してみるものの、ふと気がつくと屋敷の前で馬車が止まる。何度やっても同じだった。
 では、いっそのこと屋敷に入ってみようと開き直ったミシェル父は、開いていた門を通って中に入った。馬車はゆっくりと敷地内を進んでゆく。そうして中央の玄関前に止まり、馬が小さく啼いた。
 おそらく馬はこのままで大丈夫だろう。ミシェル父には得体の知れない安心感を覚えた。一度馬の首を撫でると玄関へと歩みを進めた。
 屋敷の扉を叩くと音もなく扉が開いた。恐る恐るといった風に中を覗くと、そこは門外の雰囲気とは真逆な別世界であった。
 すべてが煌びやかな調度品で彩られていた。エントランスホールは見たことがないくらい広く、上へ続く階段も幅が広い。見上げれば、複雑な形をしたシャンデリアが輝いていた。
 意気込んで屋敷の中へ入ったはいいが誰もいない。さてどうしたものかと考えあぐねていると、今度は左側の扉が開いた。
 そっと中を覗くと、真っ白いクロスがかかったテーブルの上に料理が一人分並べられている。ほかほかと美味しそうな湯気の立つ料理一式を前に、ミシェルの父は喉を鳴らした。
「……これは……食べてもいいのだろうか……?」
 誰に言うともなしに呟く。
 するとその疑問に答えるかのように、椅子がひとりでに後ろに引かれた。
 薄気味悪いと思いつつも腹は空いている。意を決したミシェル父は椅子に座ると料理を口に運んだ。
 腹が膨れる頃には最初の恐怖心はどこかへ去っていた。部屋を出ると今度は二階の扉が開いた気配がした。上がっていくと、そこは客間なのか綺麗にメイキングされた大きなベッドが置かれていた。
 夜はもう更けている。今から帰っても家族に迷惑がかかるだろう。今夜はここに泊まらせてもらおうとミシェル父は思った。
 ――そうして、屋敷に着いてから一日半ほど経過した。
 人の気配がなく気味の悪い屋敷であるが居心地はなかなか良い。だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。大切な家族が待っているのだ。
 ミシェルの父は独り言のように屋敷へ礼を言うと、門へと向かった。馬車はいつの間にか門外に止まっている。
 途中、見事な庭が目に入り、誘われるようにそちらへ歩いていった。娘が土産に薔薇がほしいと言っていたのを思い出したのだ。これだけ良くしてもらったのだから、ついでに薔薇を一輪もらっても大丈夫だろうと考えてしまった。
 それがまずかった。
 朝露に濡れた薔薇を手に取り枝を折る。その途端、強い風が吹いた。同時に晴れ渡っていた空が厚い雲に覆われる。
 真っ暗で何も見えない。
 地の底から響くような唸り声が屋敷から聞こえた。
 激しい風のせいで目が開けられないのも相まって、聞こえる低い声音にミシェル父はびくりと震えた。
『ひとの好意を無碍(むげ)にするとは。ひどい方ですね』
 ミシェル父は身動きひとつできずにその声を聞いていた。
『わたしの大切な薔薇を黙って盗もうとしたのですから……その代価はあなたの命で払ってくださいね』
 言葉は丁寧であったが、殺気をはらむ視線が突き刺さる。ミシェル父は土下座する勢いで謝罪するが、声の主はまったく聞き入れない。やがて、啼いていた風が止まったことに気づいてそっと目を開けた。
 屋敷の玄関から伸びる影は、毛むくじゃらの獣の形をしていた。
『なぜ薔薇を盗ったのですか?』
 その穏やかな声は逆に恐怖心を抱かせる。
 しばらくの間無言のまま立ちつくしていた。しかしいつまでも黙ったままでは更に相手を怒らせてしまうだろう。ミシェル父は事態が解決することを願って口を開いた。娘が薔薇を土産にほしがっていたのだ、と。
 不意に殺気が掻き消えた。
『娘……?』
 獣は逡巡するように呟いたあと、どこか嬉々として言葉を続けた。
『……ならばその娘をよこしなさい。準備が必要でしょうから、そうですね……四日ほど猶予を差しあげます。娘を差し出したくないというならば、あなたがここへ戻ってきなさい。……念のため言っておきますが、あなたの気配は覚えましたからね』
 言外にどこへ逃げても無駄だと告げ、屋敷の主は一輪の薔薇とともにミシェル父を家へ帰らせたのだった。

 花瓶に挿した薔薇に触れると、花びらはとても柔らかかった。丁寧に育てられたのだろうとミシェルは思う。
「私が行くしかないわね」
「お前を化け物の贄にする気はない」
 きっぱりと言い切る父親に笑みを見せて、ミシェルは首を横に振った。
「駄目。母さんとルネはどうするのよ」
 母は身体が弱い。稼ぎ頭の父がいなくなったら、まだ幼い弟もいるというのにどうすればいいのか。自分が朝から晩まで働いても、ふたりを養っていくのは難しいと、ミシェルはよく理解しているのだ。
「大丈夫よ。私これでも年上受けがいいんだから。折をみて屋敷主に家に帰してもらえるよう頼んでみるわ」
 とは言え屋敷へ行ったら最後。自分にどんな結末が待っているのか想像がつかないのだ。無給でこき使われる程度ならまだいい。
 最悪の事態はあえて考えないようにして、ミシェルは目を閉じた。
「明日は色々準備して……出発は明後日の早朝ね」
「そんなに早くか?」
「四日しか時間もらえてないんだから早い方がいいでしょ?」
 相手を怒らせて母と弟に危害を加えられたら。父が二度と帰ってこられなくなったら。……そんな恐怖に駆られ、ミシェルは今すぐにでも屋敷へ向かいたいと思ったのだ。
「――部屋戻るね」
 何か言いたげな父親を残し、ミシェルは自室へと歩き出した。

 翌朝。
 太陽が姿を現す前に目覚めると、ミシェルは手早く着替えた。
 身なりを整えて麻の袋を持つ。準備する≠ニ父親に言ったが、たいした持ち物はない。数日分の着替えと食料くらいだ。
 まだ夜は明けていない。近隣の人々を起こさぬように、ミシェルはそっと愛馬の準備をした。鼻を鳴らして甘えてくるのを優しく諌めると、手綱を引っ張る。
「ルネ。私が出かけているあいだ父さんと母さんをお願いね」
「まっかせてよ!」
 年の離れたミシェルの弟は、腰に両手を当ててふんぞり返るような仕草をした。
 その様子に笑みをもらし、ミシェルは両親に向き直る。
「……ミシェル……」
 ミシェルは馬に跨ると家族に笑顔を見せた。
「気をつけて」
 母親と弟には森の化け物屋敷≠ヨ行くとは話していない。知人のツテで街での仕事を紹介されたのだと信じている。嘘をついたことをミシェルが心の中で侘びているとは思いもよらないだろう。
「それじゃあ、行ってきまーす」
 できるだけ明るく振る舞いミシェルは出立した。



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