Episode 2 森の奥は想像していたよりも緑が深かった。 不穏な空気は漂っておらず、むしろ神聖な空気に森全体が包まれていると感じる。 ミシェルは時折深呼吸をして森の散歩を楽しんでいた。大人の言いつけをきちんと守っていたため、初めての散策だった。 馬はポクポクと軽い音を立てながら森の奥へと進んでゆく。 最初は物珍しい光景に笑みを浮かべていたが、視界に映るのは木だけ。ミシェルはやがて真顔で道の先を見つめた。 道は一本道だから迷わないはず。けれどいつまで経っても屋敷へと続く曲がり道は現れない。 もしも異変があれば、まず愛馬が騒ぐだろう。動物は人間よりも敏感なのだ。だから馬の様子に安堵していたのだが、天を覆う木々が徐々に深くなり視界が悪くなってくると、ミシェルは怯えたように眉をひそめた。 ――大丈夫だよね……? うん。大丈夫、平気。 無理矢理自身に言い聞かせて、馬を止めることなく進む。 そうこうしているうちに、ミシェルは眠気に襲われて、うつらうつらとしていた。馬の歩く振動が心地よかったのだ。 はっと気がついたときには馬は歩みを止めていた。深い木々で辺りは真っ暗闇だ。 出発してからまだ半日も経っていないはずだ。なのにどうしてこんなに暗いのか……。何か見えないかとミシェルは辺りをうかがう。 必死に目を凝らしていると、ぼんやりと何かの形が見えてきた。門だとミシェルが呟く。 門の向こう側にも何かが見えた。よくはわからないがどうやら屋敷のようだ。周りが暗すぎてそれ以外は確認できなかった。 馬を降りたミシェルはそっと門に手をかけた。閂がかけられているらしく、びくともしない。 「ここで間違いないはずよね……」 父親も気がつくと門の前に立っていたと言っていたのだ。人ならざる魔力が働いていて、簡単には来られないようになっているのかもしれない。ひとり納得して、ミシェルは再度門を開けようとするが無駄だった。 「……約束どおり来ました」 しばし考えてからミシェルは小声で言ってみる。すると閉まっていた門が急に開いた。 人の気配は、ない。 恐る恐る中を覗いてみるが、やはり誰かいる様子はない。 この不思議な屋敷の主に呼ばれたのだから、堂々と入ってもいいのだろう。だがそこから一歩も踏み出せずにミシェルは立ち竦んだ。 得体の知れない恐怖心が沸いてくるのである。中へ入ったら二度と外へは出られない――そんな気がするのだ。 足が竦んで入ることはできず、かといって帰ることも不可能だ。どうしようかと思案していると、ゆらりと動くモノが視界に入り、伏せていた目をあげた。動くモノの正体は明かりのようだ。おそらくランプだろうとミシェルは思う。だがその明かりは突然消えてしまった。 首をかしげているミシェルの前に、突然黒い塊が現れた。 暗闇に浮かびあがる影に、ひっ、と悲鳴をあげそうになった。既の所で声を飲みこみ一歩後ずさる。 ――影に敵意は感じない。そう思った彼女は目を凝らして影を見つめた。最初はぼんやりとしか見えなかった影が、徐々にその姿を現した。 「ようこそいらっしゃいました。当屋敷、執事のクリストフと申します」 聞く者すべてをうっとりとさせるバリトンの声で、いわゆる執事服に身を包んだ羊がそう言った。 「…………」 「丁度ランプが切れてしまって。お待ちくださいね。まあ、わたしは明かりがなくとも問題ないのですが念のため」 夢か幻か、それとも自分は屋敷主にからかわれているのだろうか。 瞬きを繰り返し、ミシェルはもう一度執事だという男に目を向けた。手馴れた仕草でランプを灯すそのひとは、やはり羊だった。 ミシェルは拳を握って、手のひらに食いこむ爪が痛いことを確認すると、目の前の人の良さそうな羊に手を伸ばした。 ふかふかの毛を掴み、引っ張る。 「ちょ! なにするんですかやめてください! 痛い痛い痛い!」 本気で痛がっている様子の羊に、ミシェルは慌てて手を離した。 引っ張られた頭の毛をさすり、執事のヒツジ――もとい、執事のクリストフは上目遣いにミシェルを見やる。 「淑女ともあろうお方が乱暴な」 「ごめんなさい」 突然無体を働いたのは自分だから素直に謝る。が、ミシェルはひどくうろたえていた。 なんで羊? どうして羊? 羊が執事服に身を包んで二足歩行。しかも喋っているなんて! ありえない、と声には出さずに叫ぶ。 彼女の狼狽に気づいていないのか、それとも無視しているのか。クリストフは素早く周囲に視線を走らせてミシェル以外いないことを確認すると、笑顔を見せながら彼女を屋敷へと案内する。 先導するクリストフはミシェルよりも頭ひとつ分ほど背が低い。ふかふかの後頭部を見つめながら、ミシェルは顔をひきつらせていた。 「え……」 急に景色が変わったことに気づいた彼女は目を丸くした。外のおどろおどろしい雰囲気とは違い、屋敷の敷地内に入るとその印象が一転したのだ。 門の外にいたときは真っ暗で、もう夜になったのかと思ったが、良く晴れた青空が広がっていた。中央にある大きな噴水は、陽光を反射してきらきらと輝いているように見える。 「先に馬をお預かりしましょう」 クリストフに言われてミシェルは手綱を渡した。 「使用人はわたし以外にいないものですから、色々とご迷惑をおかけすると思いますがご了承くださいね。ここで少々お待ちください」 馬は大人しくクリストフにつられていった。その間ミシェルは敷地内を観察することにして、きょろきょろと首を巡らせた。 敷地内は思っていた以上に広い。屋敷を仰ぎ見ると首が痛くなりそうで、ミシェルはすぐに見上げるのをやめた。首を軽く動かすと今度は辺りを見回す。 屋敷の向かって右手に見えるのは薔薇園だ。色とりどりの薔薇が咲いている。あそこから一輪取ったのだろうとミシェルは考えた。遠くからでも生き生きとした生命力が感じられる。 左手は温室だろうか。透き通るガラスに囲まれた建物の中にも緑が見える。花が植えられているのか、それとも果物だろうか――ミシェルは楽しげに想像を膨らませた。 ふと聞こえた鳴き声のする方へ目を向けると、小鳥が噴水の縁で羽を休めていた。ぴぃぴぃと美しい声で歌い、今度は温室の屋根へと飛んでいった。よく観察すれば、そこかしこで小鳥が囀っている。 父親の手伝いで何度か富豪の屋敷へ行ったことがあるが、ここまで大きい屋敷は初めてだった。 絢爛豪華とはこういった場所を指すのかもしれない。 「綺麗……」 ミシェルが感嘆の声をもらす。 「ありがとうございます」 戻ってきたクリストフの顔は誇らしげだ。 始終笑顔を絶やさない彼につられてミシェルも顔を綻ばせる。 「お待たせしました。さあ、どうぞ。――お疲れでしょう。アフタヌーンティーをご用意しましょうね」 「……はぁ……」 アフタヌーンティーなどと言われても、馴染みのないことにどう反応したらいいのかわからない。ミシェルは間の抜けた声を出して、戸惑いつつも笑みを浮かべた。 ミシェルが通された部屋は薔薇園に面したリビングであった。大きな窓から柔らかい陽の光が指しこんでくる。窓を開けたら薔薇の良い香りが漂ってきそうだ。 慣れない屋敷に少々面食らったミシェルは入口で立ち止まるが、促されておずおずと席に着く。 「少々お待ちくださいね」 そう言って、クリストフは音も立てずに部屋を出て行った。 何度確認しても羊の姿だ。あの蹄でよく音を立てずに歩けるものだと感心する。 屋敷内は毛の長い絨毯が敷かれているから無音は当然なのだが、何も敷いていない玄関口でも音はなかった。どうやらクリストフは足音を立てずに歩けるようだ。 クリストフが戻ってくる間、ミシェルは色々と考えを巡らせていた。 まず気になったのは、エントランスホールのシャンデリアだ。吹き抜けの高い天井から吊るされたそれは、蝋燭の炎で全体を輝かせる。火は一体どうやって灯したのか。 それよりなにより、なぜ羊なのか。 そんなことよりも自分の身を心配しなさいと、頭の片隅でもう一人の自分が冷静に告げている。それは十分承知しているのだが、くだらないことを考えていないと、今以上に気が動転しそうだった。 ミシェルは気を落ち着けようと深呼吸を繰り返した。感じていた手の震えはそれで治まる。 ――ややあって、クリストフが戻ってきた。食器を乗せた銀色のワゴンを押している。ミシェルの横に止まると慣れた手つきでテーブルの上にティーセットを準備し始めた。 どのような仕掛けがされているのか、クリストフは蹄の手で器用に紅茶を淹れている。ポットを持つ≠ニいうよりもポットが手に貼りついている≠謔、に見えて、ミシェルは彼の手元を凝視した。 「お好みがわからなかったので茶葉はわたしが選びましたが……セイロンでよろしいですか?」 ミシェルの目の前に美味しそうな湯気のたつティーカップが置かれる。透き通るような白磁に真っ赤な薔薇が描かれた上品なカップだ。 「え……あ、はい……」 茶葉の種類なんて庶民の私にわかるはずないじゃない。 彼女は喉まで出かかった言葉をぐっと飲みこむ。庶民には勿体ないほどのもてなしをされているのはわかる。それに深い意味があるのか、はたまたただの好意なのか、判断がつかないうちは黙って相手の出方を窺うことにしたのだった。 三段になっているトレイにはサンドイッチ、スコーン、一口サイズのケーキがのっていた。 パンから少しだけ顔を覗かせているキュウリはとても瑞々しさを感じられ、このような高級品を食べたことがないミシェルは困って動きを止めた。この地域でキュウリを栽培するのは難しい。あの温室で育てているのだろうかとぼんやり考える。 「どうしました?」 不思議そうな声に答えようとするがうまく言葉が出ない。 一般市民も毎日紅茶を飲む。だがそれは優雅な時間を過ごすものではなく、生水を飲む習慣がほとんどないために仕方がなく、である。お茶を楽しむ≠フはせいぜい仕事が休みの日だ。 それに、とミシェルは考える。 薔薇を盗んだ仕返しに毒が仕込まれていたら……。 この羊が善人のふりをしてこちらを騙そうとしていないとは言い切れないのだ。 「……」 彼女の様子にクリストフは首をかしげ――何か閃いたのか、ぽん、と手を打った。 「もしかして、マナーを気になさっていますか? 特別なマナーなどありませんが……サンドイッチを先に食べるか、もしくはスコーンが温かければスコーンを先にすると美味しく召しあがれるかと。あとはそうですね……スコーンは大きいですから、一口にちぎってからクリームをのせた方が綺麗ですね。ですが、さほど気取らなくても大丈夫ですよ」 見当違いのことを言い出したクリストフの言葉に裏は感じない。それも演技なのかもしれないが。 もうなんとでもなれ! ミシェルは意を決してティーカップに手を伸ばす。 「……おいしい」 一口飲んで息をついた。 ほのかに甘い香りが鼻を抜けてゆく感じに知らず顔を綻ばせた。こんなにおいしい紅茶は初めてだった。 「お気に召されてなによりです」 笑みを絶やさないクリストフにつられて一緒に笑う。 ――って、なんで和んでいるのよ私! 暢気に茶を啜っている場合ではない。 はっと我に返って横に立つクリストフを仰ぎ見る。きょとんとしたつぶらな瞳とぶつかり、ミシェルは思わずたじろぐ。 「どうしました? 何か至らないことでもございましたか?」 優しく問われて首を横に振る。 「そうではなく……私は悪事を働いた父の代わりにここへ来ました。こうして接待していただけるような立場ではありません。まずは当主にお詫びしたいのですが」 慣れない敬語を使ってミシェルは自身の気持ちを述べる。 ところが、真剣な表情の彼女とは違い、クリストフは心底おかしそうに笑った。 「――主人はいるといえばいる、いないといえば、いないのですが……」 ずいぶんと歯切れの悪い返事だ。 「家というものは、住む者がいなくなると途端に廃れるものでして」 前後の繋がりがまったくわからなかったが黙って彼の言葉を待った。 「主人が亡くなってからもうどのくらいの月日が流れたのか、わたし自身も覚えていません」 急に温度が下がった気がして、ミシェルは思わず身震いした。この先は聞かないほうがいいと思っても言葉が出ない。 クリストフの雰囲気は先ほどと打って変わっておどろおどろしさを感じる。 「先代が亡くなられてから、この屋敷はずうっと主人になる方を待っていました。何人かがここへやってきましたが……怖がって逃げ出すか、眼鏡に適う者はいませんでしたので、全員記憶を操作してお帰りいただきました。おかげで森の化け物屋敷≠ニ噂されることになったのですがね」 一旦言葉を切って、クリストフは微笑んだ。 「ずうっと主人になられる方を待っていたのです」 金縛りにあったかのようにミシェルはただ黙っているしかなかった。 「あなたとは相性が良いようですね。屋敷が騒がない。むしろ喜んでいる。――わたしも、新しい主人が可愛らしい方で嬉しいですよ」 恐怖心を煽る内容とは裏腹に、ひどく優しい声音だった。朗らかに笑うその顔が、ミシェルには怖ろしく感じる。瞬きすることも忘れて、クリストフを凝視する。 「あなたはもうこの屋敷からは逃れられない。わたしがそう決めました」 小鳥が中を覗きこむかのように窓際に降り立ち囀った。場の雰囲気にそぐわない明るい鳴き声は、ミシェルの耳には届かない。 「父君が薔薇を盗まなければここへ来ることは一生なかったでしょうに。恨むなら、父君を恨むのですね」 |