Mon petit mouton-モン プティ ムトン-
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Episode 5

 ガラス張りの温室は比較的手入れが行き届いていた。
 密閉の室内は熱がこもり暑く感じる。ミシェルは額に浮いた汗をそっと拭うと上を仰ぎ見た。
 透き通ったガラス越しに青空が広がっている。が、視界に壊れた屋根の部分が入り、軽く眉をひそめる。
 初めてここへ来たときから気になったのだが、高すぎて自分では無理だと思い諦めた。梯子はあるが慣れないことをするのはやめておいたほうがいいだろうと判断したのだ。
 とはいうもののそのままではまずい。そこから雨風が入りこんだら作物が駄目になるかもしれないのだ。
 通りかかったクリストフを捕まえて壊れていると説明すると、彼はああ、と思い出したかのように声をあげた。そうして、修理はとある男が来たときに頼むから、今は放っておいてくださいと笑った。
 それは誰なのか訊ねると、屋敷に出入している商人だという。
「あなたの食べている食料調達はどうしていたのか疑問に思いませんでしたか?」
 軽く片目を閉じると、クリストフはしゃがみこんでいる彼女に倣って膝を折った。
「クリスが私の知らない間に出かけているのかと思っていたんだけど、違ったのね」
 当然といえば当然である。
 自由自在に人型を取れるのならば問題はないが今の姿では難しい。クリストフは魔女の宣言どおり、満月を過ぎた後に金髪の男から羊に変わった。
 商人は月二、三回やってくるからそろそろだという。
「来たらご紹介しますね」
 と言いつつも乗り気ではないようだ。
 疑問に思って訊ねると、クリストフは心底嫌そうな顔をした。ミシェルが初めて見る表情だった。
「ご紹介しますが、奴と二人きりになっては駄目ですよ」
 クリストフは幼子に言い聞かせるようにゆっくりと口を動かした。
 そのただならぬ雰囲気に若干怯えたミシェルは一歩後ずさる。
「な、なにかあるの?」
「大有りです。奴は極度の女好きですから、毒牙にかからぬよう気をつけてくださいね。もしも襲われたら大声を上げて、そこいらの物で殴り殺してください」
 ずいぶんと物騒な発言である。
「人殺しは……嫌だな」
「大丈夫です。人ではありませんから殺しても死にません。安心してください」
 何をどう安心すればいいのかミシェルにはさっぱりわからない。彼の口調から冗談とも思えず困惑した表情を浮かべた。
「人じゃないってことはお仲間ってこと?」
「そうです。奴はわたしのように高貴な吸血鬼ではありませんが。わたしがここへ来る前から出入りしていたそうです」
 冗談めかして答えるクリストフの表情は硬いままだ。
「だったら信用できるんじゃないの? 前の当主が出入りを許したんでしょう?」
 疑問を口にすると、とんでもない、と彼は慌てた様子で首を振った。
「あれは狼の皮を被った狼です! 必要以上に近づいてはなりません!」
 クリストフは僅かに顔を紅潮させて言い切る。
「……それって羊の皮を被った狼≠ネんて言わない?」
 そのくらい危険人物なのだと言いたいのはわかる。しかし、真顔で力説する様子に、ミシェルは思わず吹きだした。
「笑い事ではないのですよ?」
「わかってる。心配してくれてるんでしょう? 気をつけるわ」
 クリストフは満足げに頷き返す。
 よろしい、とでも 言わんばかりの顔にミシェルは苦笑する。
 ――反論したらどうなるのか興味はあるけれど、後が怖そうだからやめておこう。
 ミシェルは心の中で呟くと立ち上がった。足の痺れをやり過ごすように前後左右に動かす。
「じゃあ私、図書室行ってるから」
 クリストフに声をかけると、彼は眉をひそめた。
「そんなに根を詰めると疲れますよ」
「大丈夫よ。少ししたらおいしいアフタヌーンティでしょ? 楽しみにしてるね」
 ひらひらと手を振るミシェルの後ろ姿を見送り、クリストフはやれやれと苦笑まじりに呟いた。

 広いエントランスホールの中央には、二階へと続く階段がある。
 その奥には地下へと降りる小さな階段がある。しかしミシェルは以前一度だけ近づいたものの、結局は降りずに引き返した。
 地下室は前当主の研究部屋だったそうだ。
 屋敷全体を見て回ったときにそこも気になったのだが、
『地下室には、女性には厳しい物がありますよ。それでよければ鍵はかかっていませんからご覧ください』
 などと言われては足が竦む。
 軽く内容を聞いてみると、干からびたヤモリや臭い薬草、と答えが返ってきた。生きたヤモリは家でよく遭遇したから平気だが、何に使うのかわからない状態の物を進んで見たいとは思わない。
 この先地下へ降りる必要がないといいなぁ……などと思いつつ、ミシェルは二階へと上がってゆく。
 ミシェルが二階の廊下へ足を踏み入れると、図書室の扉が静かに開いた。
 屋敷はミシェルの考えが読めるのか、彼女が目的の部屋に近づくと自然と開く。最初は薄気味悪く感じたのだが、今では慣れてしまった。
 そのうち地下へ降りることも平気になるかもしれない――いや、やっぱり見たくないと自問自答しつつ部屋へ入った。
 図書室は屋敷の二階西側に位置するため昼間でも薄暗く感じる。
 ミシェルは入口に備えられていたランプに火が灯ったのを確認すると、それを持って室内を歩き回った。

 目についた書物を片っ端から開いていたミシェルが唸り声をあげた。
 術を解く方法などそう簡単には見つからない。あればとうの昔に元の姿に戻っているだろう。
 持っていた本を閉じると本棚に戻す。そうして気分転換に図書室の窓を開けた。
 心地よい風に吹かれて目を細める。
 午前中は今まで通り薔薇園や温室の手入れに勤しみ、午後は戻る方法がないか図書室に篭った。
 すでに前当主が調べているとは聞いたが、もしかしたら別の人間ならば発見できることがあるかもしれない。
 クリストフは今が楽しいからもういいのだと言っていたが、これも主の役目と言いくるめた。彼は最初反論するも、結局はミシェルの自由にさせることにしたらしい。今までと変わらない生活を送っている。
 ミシェルは少し赤くなった目を瞬かせると本棚に向けた。
 前当主は一体何者だったのか、ここには様々な本が並んでいる。子供向けの絵本から彼女が読めない文字の本まで。種別ごとに多彩に取り揃えられていた。
「今度どんな人だったのか聞いてみよう」
 森の奥に居を構え、地下室には得体の知れない物がある。たいそう風変わりなひとだったのだろう。しかも羊姿の吸血鬼を住まわせるのだから。
 音がしそうなほど固まった首をぐるぐると動かして、ミシェルはふたたび本棚へと足を運んだ。
「なにかヒントだけでも見つかればなぁ……」
 綺麗に並んでいる背表紙に指で触れながら意味もなく歩く。一冊ずつ目で追い――ぴたりと立ち止まる。
「これ懐かしい」
 一冊の本を手に取り表紙をじっと見つめた。
 そこには『かえるの王さま』と書かれていた。目をやると昔話集の棚らしく、他にも昔読んだ童話が並んでいる。
「壁に叩きつけるなんて乱暴なお姫様よね」
 ページを捲り、内容を思い出してクスリと笑う。
「……」
 ふっとある考えが閃いて、ミシェルは笑うのをやめた。本棚に並ぶ背表紙をひとつずつ確認して考えこむ。
 そのとき扉を叩く音が聞こえて我に返る。
 図書室の入口にクリストフが立っていた。
「ミシェル。そろそろ休憩しませんか?」
 思っていた以上に時間が過ぎていたらしい。
 少し空腹を感じたミシェルはにっこりと笑い頷いた。

 薔薇園の見えるリビングに紅茶の良い香りが満ちた。
 長椅子に座り、どう切り出そうかと考えあぐねているミシェルは無言でカップを口に運んでいる。
 あまりにも難しい顔をしているためか、クリストフが心配げに声をかけた。
「どうしました? 紅茶苦かったですか?」
「――ごめんなさい」
 はっとして非礼を詫びる。
「ねぇ、クリス。ひとつ思いついたんだけど」
 思い切ってそう切り出すと、部屋を出ようとしていたクリストフが足を止めた。踵を返してミシェルの横に立つ。
 呼び止めたはいいものの、何と続けていいのかわからなくなって黙りこむ。ミシェルはしばし視線を彷徨わせていたが、やがてクリストフと視線をあわせた。
「なんですか?」
「童話で魔法をかけられた王子や姫の物語があるじゃない」
「ええ」
 悪い魔女が魔法をかけるのは物語の定番だ。そしてそれを解く方法も。
「それとわたしと、どのような関係があるのですか?」
 意味がわからないらしいクリストフは頭を捻る。
「クリスの魔法も、キスしたら解けたりするのかな、って……」
 我ながら恥ずかしいことを言っている。
 ミシェルは今更ながらに自覚して下を向いた。長い沈黙に耐えるように膝の上で拳を握り締める。
 大きな金属音が聞こえて、ミシェルは何事かと顔をあげた。
「な……なにを言っているんですか! 淑女ともあろうお方がっ! はしたないっ」
 珍しく大慌てのクリストフが僅かに顔を赤くして立っていた。彼の足元には先ほどまで持っていたはずの食器が散らばっている。
 あまりの狼狽えっぷりにミシェルまでもが真っ赤になった。
「き、キスなんて挨拶じゃない」
「あなたが言っているのは違うでしょう? 冗談でもやめておきなさい」
 小さい子供に諭すように言われて少しばかり面白くない。納得いかないと言わんばかりに頬を膨らませる。
「どうして?」
 これでうまくいったら、いささか簡単すぎる気もするが、本人は嬉しいに違いない。 
 訳がわからないといった表情でミシェルはクリストフを見つめる。
「とにかく、そんなとんでもないことは駄目です! ぜっっったいに駄目です!」
 いくらか声を抑えているものの、クリストフは興奮気味だ。
 もの凄い勢いで否定されたミシェルがムッと膨れる。
「そんなに私とじゃ嫌? そりゃあ私は色気もないし、クリスからすれば子供だけど……」
 語尾がだんだん小さくなってゆく。ミシェルは何かに耐えるように下唇を噛む。頬は赤く染まったままだ。
「わたしは人間ではなく、なおかつ今はこのような姿です。あなたとどうこうできる立場ではありません」
「大丈夫。近所のお手伝いして、牛に思いっきり顔舐められたことあるから」
 他意はなかった。
 だがミシェルの言葉を聞き、今度はクリストフが落ちこむ番であった。
「なにが大丈夫なのか問い詰めたい気分なのですが……」
「ごめんなさい。深い意味はないの」
 素直に謝ってから言葉を続ける。
「試してみる価値はあると思うわよ? それとも前当主とやってみた、とか?」
 ミシェルが何気なく訊ねると、途端に悲鳴があがった。
「冗談はよしてくださいっ。前当主は男だったんですからっ」
「そうなんだ。調度品が繊細な物ばかりだったから女性かと思ってた」
 繊細と表現したが、屋敷内を散策したところ、薔薇モチーフの食器や宝石のついた煌びやかな小物入れなど女が好みそうな物が多く目についたのだ。そして地下の干ヤモリ≠ゥら連想して、前当主は魔女の類だと決めつけていたミシェルであった。
 クリストフがおかしそうに笑う。
「ああ……。前当主は物腰が柔らかで穏やかな気性の持ち主でしたから、女性と間違われることが多かったのです。容姿もそう見えなくもなかったですしね。勘違いした男からよくプレゼントされたそうです」
 そう言って、はっと我に返ったのか急に真顔になった。
「話が逸れました。ここへ閉じこめたわたしを憎むことはあっても、あなたが気遣う必要はありません」
 諭すような響きをもった言葉に、ミシェルはぽつりと呟いた。
「なにかしてあげたいって思ったの」
 真っ直ぐにクリストフを見つめて続ける。
「最初は命で償え、なんて、嫌な化け物だって思っていたけど、今は違うのよ。私のために色々としてくれるから、お返しにできることがあるならしたいって思ったの。相手がクリスじゃなきゃ放っておいたかもしれない」
 それは彼女の本心だった。まだ短い期間ではあるが共に暮らして情愛に似た気持ちを抱き始めていた。
 ミシェルを見つめるクリストフからは何の表情も読み取れない。やがて覚悟を決めたのか口元を引き締める。
「わかりました。そこまで仰るのでしたらお願いします」
 僅かに顎を引いて、さあこいと言わんばかりな彼の態度に、ミシェルは口元を緩めた。ほんの少し緊張していたのを自覚して息を吐く。
 そうしておもむろに手を伸ばす。柔らかい毛に触れてミシェルの気が和らいだ。彼に倣って自身も目を閉じる。
 軽く触れるだけの短い口付け。
 触れ合った唇が離れるか離れないかの距離で、ミシェルはそっと目を開けた。
 急に気恥ずかしくなり、身体を少しでも離そうと背もたれに寄りかかる。
「……」
「……」
「……変わらないね……」
 いつまで待っても羊のままだ。
 多少は期待していただけに落胆は大きい。ふたりして乾いた笑いを発する。
「ごめんなさい。浅はかな考えだったわ」
「いえ、いいのです。これはわたしの定めなのですから。――少しは期待しましたけれどね」
 眉を下げてしょんぼりと肩を落とす。
 あまりにも情けないその表情に、ミシェルは今度こそ心の底から笑った。
「ひどい方ですね……。なんだか、ちょっぴり、ムカッときたので、血を吸ってもいいですか?」
「なんでそうなるのよ?」
 にじり寄るクリストフの目は据わっている。ミシェルは本能的な恐怖を感じて後ろに下がった。その後を追うようにクリストフが顔を近づける。
「言葉通りです」
「もう血は吸わないんでしょう?」
「二度と吸わないと決めたわけではありません。心優しいあなたの血を味わってみたいと思ったのですよ。それに――」
 クリストフが長椅子に片足を乗せる。体重がかかりスプリングが軋んだ。ほんの少しミシェルに覆いかぶさるような格好になる。それがミシェルの恐怖感を更に煽った。
「生気溢れるあなたの血を飲んだら、元に戻るかもしれませんしね。この哀れな羊にご慈悲をいただけませんか? ご主人様」
 クリストフは涼しい顔でミシェルを見下ろしている。
「あの……クリス? 冗談よね?」
 しどろもどろになりつつ訊ねると、クリストフはニヤリと笑った。
「なに言ってるんです。わたしはいつでも本気ですよ」
 しれっとクリストフが言う。
 ミシェルは座っている長椅子の端まで後ずさり逃げ場がなくなる。身を強張らせて彼の出方を待つしかない。
 緩やかな動作で背もたれに手を置くと、クリストフは少し顔を傾けて、硬直しているミシェルの首筋に口を近づけ――彼女の柔らかい首筋に軽く歯をたてる。
 ミシェルの身体がびくんと跳ねた。
 恐怖と羞恥に目を固く瞑ったミシェルであったが、クリストフが離れる気配を感じてそっと目を開けた。つぶらな瞳が自分を見下ろしている。
「な……な……」
 ミシェルは驚きで言葉が出ない。
「――あなたには刺激が強すぎましたか?」
 執事服に身を包んだ羊が目を細めて笑う。
 一瞬呆気に取られて、その後耳まで真っ赤にしたミシェルはわなわなと身体を震わせた。
「ばかばかばかっあなた獣じゃなくてケダモノだわ! でもって羊のくせに格好つけないでよっ」
「羊のくせにって……元より獣ではないのですが――っ調子に乗りすぎました、ミシェル。謝ります……ちょ……なにするんですか毛が抜けます! 痛い痛い痛い!」
 賑やかな部屋を覗きこむように小鳥が窓際に降り立った。小鳥に中の様子がわかる筈もなく――この場にそぐわない楽しげな声音で歌っている。
 森の奥の化け物屋敷。
 その噂話とは裏腹に、屋敷内は非常に平和であった。

- Fin -


ある日『ハートフルラヴコメディ、ヴァンパイアヒツジ』という言葉が空から降ってきまして、神様これどうしろってんですか……と思いつつ書いてみました。
ベースはフランス民話の『美女と野獣』 なのでタイトルはフランス語。
そのまま≠ナはあんまりだったので……。でも執筆中のファイル名はヴァンパイアヒツジ.txt。
フランス語で恋人同士のことを「Mon petit lapin(私の愛しいうさぎちゃん)」と言うそうです。




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