Episode 4 クリストフは音もなく椅子をひくとミシェルをそこに座らせた。 「わたしの沽券に関わる内容なので、あまり話したくはないのですが……。隠し通せることではありませんのですべてお話しましょう」 優雅な動作で淹れられた紅茶がミシェルの前にそっと置かれる。一口サイズのクッキーも添えられていた。 「少し長くなりますから、退屈でしたらいつでも言ってください」 普段はミシェルの傍に立っているクリストフは、ミシェルから少し離れた椅子に座った。彼は昨夜会ったままの青年の姿だ。 「さて。まず何からお話しましょうか……」 言って、考えるような仕草をする。ミシェルが見慣れた姿とは違い、すらりとした肢体を持つ彼は、貴族さながらの雰囲気を醸しだしていた。 「じゃあ、どうして羊の姿になったの?」 ミシェルが昨夜からの疑問を口にすると、クリストフの眉が僅かに歪んだ。 「やはり気になりますよね……」 気を悪くした様子はない。クリストフは笑いながら、しかし少しだけ不愉快そうな顔をした。 そんな彼に対してミシェルは慌てて首を横に振る。 「話したくないならいいよ」 「いえ。自分自身に憤りを感じているだけですのでお気になさらず」 クリストフは一瞬だけ視線を逸らし、ふたたびミシェルと視線をあわせる。どこか遠くを見るような目つきをしてから話し始めた。 「わたしの生まれはここから東南に位置した国でして。こちらの屋敷へ来たのは、もうずいぶん昔のことです」 昔、と言うからには十年程度ではないのだろう。 ではどのくらい前なのか、彼は一体何歳なのか。さまざまな疑問がミシェルの頭に浮かぶ。だが彼女は口を挟まず聞くことに専念する。 「生まれた姿はもちろん羊ではなく、今あなたが目にしているこの姿でした。吸血鬼なんてモノは束縛されることを嫌いますから、わたしも例に洩れず自由奔放に生きていました。あるときあてもなく旅を――」 「――待って、吸血鬼?」 さらりと言われた単語を聞き流しそうになり慌てて遮る。 クリストフはミシェルの呟きに頷いて答えた。 「えぇ。そうです」 あっけらかんとしている表情にぽかんと口を開けた。いきなり吸血鬼だと言われても実感が沸かない。 確かに、やや妖艶な色香を纏わせた金の瞳は人間には決して持ち得ないものだ。 「もしかして、私、食べられちゃうの?」 一言ずつ言葉を区切るミシェルの顔は幾分か青ざめている。 「食べませんよ。……おいしそうな血だなぁ、とは思いますが」 にこにこと答えるその笑顔が逆に怖ろしく感じて、ミシェルは顔をひきつらせた。 「味って違うの?」 「そうですね。血を飲む習慣がない人間には理解できないでしょうけれど。それに、わたしも男ですから。首筋に牙をたてるなら、やはり女性のほうがいいです」 目前の男が綺麗な女の首に顔を埋めている場面を想像してしまいひどく狼狽する。ミシェルの顔は赤くなったり青くなったり忙しい。 対するクリストフは表情こそは涼しげだが、その瞳にはどこか楽しげな色が浮かんでいる。 「……やっぱり血が好きなんだ」 どうにかして冷静さを取り戻したミシェルが呟いた。 「吸血鬼ですし。こちらへ来てからは機会がなかったので口にしていませんが。襲って面倒が起こっても困りますしね」 「え……じゃあ、どうしてるの?」 人間と同じように食物で大丈夫なのか。主食が血と思われるのに、最近は口にしていないとなれば疑問が生じる。 「わたしもすべての種族の生態を知っているわけではありませんが――」 と、前置きしてクリストフは続ける。 「妖魔など自然界に近い存在には人間の血肉を好むモノもいます。だからといって、むやみやたらに襲いません。理性のないモノはどうかわかりませんが。時折、花が良い香りを漂わせて自己主張するように、人間から良い香りがしたときは困りますね。たいていは生気の強い植物や月の光で代用できますけれど。わたしの場合は、真っ赤な薔薇を好んでいます。血の代わりにと前当主がくださいました」 その言葉にミシェルは納得したように吐息を洩らした。本来ならば父は血を吸われたのかもしれない。それもなくもてなしたというのに、代わりの薔薇を盗まれそうになれば、どんなに穏やかな性格の持ち主でも怒りを覚えるだろう。 「ですから安心してください――とわたしが言うのはおかしいですが、あなたの血を無理矢理いただこうとはしません。約束します」 突然、飢えた吸血鬼に自分が襲われる心配はなさそうだ。ミシェルは僅かにほっとして質問を重ねた。 「……おいしそうなの? 私の血って」 危険はないと思うと気になることが出てきた。自身を指差してそう訊ねると、クリストフは笑って頷いた。 ミシェルは言えば言うほど自分が墓穴を掘っていることに気づいていない。相変わらず彼女の顔色は赤くなったり青くなったりと忙しい。そんな彼女を見るクリストフの目が、明らかに面白がっていることにも気づいていないようだ。 「えぇ。……甘い良い香りがします」 囁きに似た低い声が耳元で聞こえた気がしてミシェルは赤面する。 「とまぁ冗談はこのくらいで……いえ、甘くて良い香りがするのは本当のことですが……どうしました?」 椅子の背もたれに寄りかかるように脱力しているミシェルに不思議そうな顔を向けてクリストフが首をかしげた。 ミシェルはなんでもない、と力なく首を振る。 自覚のない女たらしとは彼のことを指すのかもしれない。 まだ十数年しか生きていない私には刺激が強すぎる、とミシェルは心の中で呟く。背筋を伸ばすように座り直すと、気を落ち着けるために温くなった紅茶を口に運ぶ。 「ごめんなさい、話遮っちゃって。えっと、旅をしていたの?」 ぎこちないながらも笑みを作り、先を促す。 クリストフは彼女の微妙な顔に苦笑しつつ話を続けた。 「そうです。一箇所に留まることを良しとしなかった私は世界中を飛び回っていました。ご存知かわかりませんが、蝙蝠や霧に変化してしまえば人間世界のルールなど関係ありませんしね。通貨がなくてもどこでも自由自在、です」 少し茶目っ気を含んだ口調で言いながら、クリストフが片目を瞑った。 彼は自分の緊張を解こうとしているのだ。そう考えたミシェルは意識して顔を綻ばせた。 「紅茶が冷めてしまいましたね。淹れ直しましょう」 「これでいいわ。もったいないし」 ミシェルの主張を笑顔で退けたクリストフが席を立つ。 「主人に冷めた紅茶など飲ませられません。今日は少し肌寒いですし、ジンジャーティーにしましょうか。ジンジャーはお嫌いですか?」 彼の問いかけに首を横に振る。 お待ちくださいねと言い置いて、クリストフは部屋を出て行った。 ほう、と息を吐いてミシェルは肩の力を抜く。ほんの少しだけ緊張していたらしい。 人の血を吸う吸血鬼と聞いて、恐怖を感じていないわけではない。平然としていられる人間など滅多にいないだろう。だが、彼に恐怖を感じる必要はない。自分をどうこうする気があるのなら、初日にしているはず。 そう結論づけてクリストフの言葉を復唱する。 人間のルールは彼らには関係ないのだろう。 以前読んだ吸血鬼の物語をぼんやりと思い出す。その内容が事実なのかは不明だが、人間の記憶を操作と書いてあった覚えがある。それが可能ならば国境は関係ない。 物語の中でしか知らない魔族が目の前にいることに困惑して、それから湧きあがった怒りに唸り声をあげる。 ――本当に面倒な事態にしてくれた。 離れている父親に悪態をつく。父のことは大好きだが、それとこれとは別だ。 どうして薔薇を盗もうとしたのか。街で買ってきてくれればよかったのに。 ミシェルは深い深いため息をついた。 とはいうものの、薔薇が欲しいと言ったのは自分なのだ。街で気軽に買える品物を望んでいれば、今頃は家族団欒だったはずだ。 自分自身にも叱咤して深いため息をついた。 これでは「家に帰りたい」などとは言い出せない。 羊の妖精ならばなんとかなったかもしれないが、相手は妖魔。人間よりも駆け引きに長けているだろう。それでは逆に言いくるめられそうだ。言葉で負けるのは仕方ないが、更に怒りを買って殺されたくはない。 背もたれに半身を預けてミシェルは途方に暮れる。 クリストフのことも、ここでの生活も決して嫌いではない。むしろ今まで経験していなかったことだからとても楽しい。 だが絶対に帰ることができないと思うとますます自分の家が恋しくなる。月一回――いや、半年に一度でもいい。どうにかならないか――。 深く考え込んでいるミシェルはクリストフが戻ってきたことに気づかない。 彼は新しい紅茶を持って部屋へ入ると怪訝そうな顔をした。 「……ミシェル?」 「ひゃあ!」 突然声をかけられて悲鳴をあげた。その声の大きさにクリストフは目を丸くする。 「あ……ごめんなさい。考え事してたから」 「こちらこそ驚かせてしまい申し訳ありません。……家に帰りたくなりましたか?」 クリストフが明るく訊ねると、ミシェルの肩がびくりと揺れる。 しばしどちらも口を開かなかった。 雰囲気に耐えられなかったのか彼女に気を使ったのか、先に沈黙を破ったのはクリストフだった。 「わたしが人畜無害なただの羊ならば問題はなかったでしょうが。旅をしていた頃は、こちらの正体を知られた途端に襲われることもしばしばありましたから、まあ仕方がないですね。怖がられるのは慣れていますから気になさらないでください」 そう言って少し寂しそうに笑う。ミシェルは違うと首を振ってそれを否定した。 「違うわ。たしかに家へ帰りたいけど、みんなに会いたいからよ。吸血鬼って聞いて、ちょっとは怖いけど……クリスは平気」 自分を怖がらせないように細心の注意を払って接してくれている。それは初日からずっと感じていた。 妖魔だからといって皆が皆悪とは限らない。出会ってからまだ日は浅いが、彼は下手な人間よりも信用できると思える。 心の底から優しければ薔薇一輪の対価を命で償えとは言わないはずなのだが、ミシェルはひとまず忘れることにした。眉を下げた表情が妙に人間くさくてどうしても嫌えなかったのだ。 「……ありがとうございます。ミシェル」 表情を和ませるクリストフにほっとして、新しく淹れてもらった紅茶を口に含む。 「おいしい」 「それは良かった。次はどのように喜んでいただこうかと考える励みになります。あなたはいつも感想を言ってくださいますね」 「うん。ちゃんと感謝とか不満とか、自分の気持ちを伝えなさいって母さんに教わったから……って、私の話はいいの。まずはクリスの話よ」 話が脱線してはいつまでも終わらない。 クリストフも気がついたのか苦笑すると元の椅子に座る。目を軽く伏せて話し始めた。 「えーと……どこまで話しましたか……。そう、わたしは世界中をあてもなく旅をしていました。人里離れてひっそりと暮らしたり、人間のふりをしたり……自由気ままな生活はなかなか楽しかった」 そう言って昔を思い出したのか、懐かしむように目元を和ませる。 「同じ種族の男と世界の果てを探しにいくか≠ニふざけたこともありました。魔物は人間よりも寿命が長いですから、時間はたっぷりあった。……それでも無限という訳ではありませんがね。ニンニクも十字架も大嫌いですし」 冗談めいて笑うクリストフにつられてミシェルも口元を緩めた。 吸血鬼の苦手な物は伝承通りらしい。その割には太陽の出ている今の時間、彼は平然と活動しているのだが。 ミシェルはその理由が何となく気になるものの、とりあえずは黙って聞くことにした。 「思う存分旅を満喫したわたしは、ある日この土地へとたどり着きました。その頃には今まで通り旅を続けることは難しくなっていましたので、先の当主の勧めでこの屋敷に留まることになったのです」 そこまで一気に話して疲れたのかクリストフが目を閉じる。 黙って聞いていたミシェルは、彼の話した内容を心の中で大まかに反芻すると、少し視線を彷徨わせながら考えを纏める。やがて思い切ったように口を開いた。 「クリス。質問してもいい?」 「ええ。なんですか?」 「どうして羊の姿になったの?」 あまりにも直球な質問にクリストフは少々面食らう。 「うまく避けられたと思ったのですが……気づかれましたか」 クリストフはそう言うと、どこかいたずらっぽい表情を見せて黙りこむ。軽く目を伏せて考える仕草を見せた。 本気で話したくないようだ。 「言いたくないなら無理には聞かないけど……」 今見ているクリストフの本当の姿ならば、どういった経緯で羊になってしまったのか気になる。が、無理強いは良くないと、ミシェルの語尾は自然と小さくなった。 「どの辺りを旅していたときか忘れてしまいましたが……ミシェルは魔女の存在を信じますか?」 「――魔女?」 唐突にそう言われたミシェルは思わず聞き返す。 信じるのかと聞かれたら、答えは否だ。出会ったことがないから信じられない。 「会って、魔法を見せられたら信じる。でも存在を頭から否定はできないかな。クリスもいるしね」 この不思議な屋敷に住んでいるのに人間以外のすべてを認めないなどと思ったら自分自身まで消えそうだ。 「それで、魔女とクリスはどういう関係があるの?」 クリストフは興味津々といった風の視線をさりげなくかわして窓の外を見やる。 「怒りをね、買ったんですよ」 たっぷり時間を取ってから返された言葉に、ミシェルは首をかしげた。 「魔女の? どうして?」 吸血鬼といえば、向かうところ敵なしといったイメージがある。もちろん個人差はあるのだろうが。 「怒りを買ったってことは、クリスが何かしたってことよね?」 「ええまあ……。あの頃はわたしもまだ若くやんちゃ者でした。魔女たちの夜会に遭遇して、面白半分に悪戯を仕掛けたのですが――結果返り討ちに遭いました」 そのときの代償が、満月の前後三日間以外を羊の姿で過ごすこと、なのだとクリストフはあっけらかんと言った。 ミシェルは何と言っていいのかわからず複雑な表情を浮かべる。 「殺されなかっただけ良かったのかもしれませんが、当時は屈辱的でした。先の当主が戻る方法はないか調べてくれましたが、見つからなかったようですね」 クリストフは妙にさっぱりとした顔で話を締めくくった。 「なんで羊なんだろう。クリスは理由わかる?」 悪魔の象徴とされるのは山羊だ。 「さあ? 羊は飼い主に従順ですから、支配の意味があったのだと思います。本当の理由は魔女に聞かなければわかりませんが」 「戻る方法って本当にないのかな」 ミシェルが呟くと、クリストフはしばし考え込んでから口を開いた。 「ないわけではありません。その魔女を探して術を解かせるか、相手を殺すか……術をかけたのがどこの誰なのか、未だに不明なので難しいですけれどね」 ミシェルはまるで他人ごとのように答える彼に対して眉をひそめた。元には戻れないというのに悲観さがまったくない。 「どうして平然としているの?」 「最初は躍起になっていましたが、長い年月が過ぎると現状を受け入れる気持ちが強くなりましたし……自業自得ですしね。そんな顔をしないでください」 微笑むクリストフは和やかな雰囲気を纏っている。 後ろ向きな考えはしていないのだろうが、自分と同じように止むを得ないと考える性質なのかもしれない。ミシェルは相手に自分と似通ったものを感じて嬉しく思うが、同時に本当に方法がないのかと考える。 「元に戻れるといいね」 明日からの仕事配分≠頭に思い描いてクリストフに微笑み返した。 |