Episode 2 「ねぇっクリス!」 背中を押されるようにして屋敷へと入ったミシェルは、背後にいるクリストフに声をかけた。真後ろにいるために彼の表情は見えない。 ぴたりと止まったのを感じ取り振り返る。クリストフは無表情とはいえ、いつもの穏やかな様子だった。 「クリス。彼がどんな人か、あなたとどんな関係なのか私にはわからないから、あれが失礼な態度とは言えないけど……いつものあなたらしくないかなって」 「恐がらせてしまいましたか?」 「ううん。驚いただけよ」 「失礼しました」 と、クリストフはミシェルに見せた自分の無礼な言動を詫びた。いつも通りの穏やかな顔からは、先ほどの険を含んだものは感じられない。 「あれで普通なので……あまり深く考えないでください。アレの気に入らない部分は多々ありますが、殺したいほど憎く思っているわけではありませんから」 ミシェルには何が普通なのか問いたい気持ちはあったのだが、困った様子のクリストフにそれ以上追求できなかった。 ――少々物騒ではあったが、男同士ならば普通なのかもしれない。そういえば、実家の近所に住む兄弟も、やや乱暴なきらいがあった気がする。 ミシェルは納得して、気にしていないと伝えるために笑顔を見せた。 「では、わたしはお茶の準備をしてまいりますから、ミシェルは応接室でお待ちください。後ほどアドルフも来ると思いますので」 クリストフが何を言っているのか理解できず、ミシェルは一瞬首をかしげる。そうして慌てて頷いた。 「あ、うん。お客様をもてなすのは主人≠フ役目だもんね」 「お願いします。アドルフは前主人の古い友人なので、適当にあしらうわけにもいかないのです」 クリストフはミシェルを応接室へと促し、厨房へ向かっていった。 「……古い友人で大事にしなきゃならないけど、剣は向けるんだ……」 やっぱりわからない。 何がひどく癇に障るのだろうか。確かに、今まで会ったことがないほど陽気な男性ではあったけれど。 ミシェルがぶつぶつと独り言を言っていると、話題の主であったアドルファスが姿を見せた。どこで着替えたのか、彼は先ほどとは違うシャツを身に着けている。その上にジャケットを羽織り、ボタンはすべて留められている。 アドルファスはミシェルの顔を見てにこりと微笑んだ。 長身に落ち着いたダークグレーの色合いがよく似合っていて、このまま本物の貴族の前に出ても浮くことはないだろう。 商人であると言っていた言葉を忘れてしまいそうだ。貴族と言っても通せる。 興味深そうにアドルファスを凝視していたミシェルは、慌てて着席を勧める。接待を頼まれていたのにこれでは主人失格だ。 「あーいいよ。そんなにかしこまらないで。俺も堅苦しいの嫌いだから。仕事なら、マナーもかんっぺきにこなす自身はあるけれど、プライベートまではお断りだ」 アドルファスは茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。こんなこと言ってるとまたクリスの雷が落ちそうだけど、と付け加えるのを忘れない。 この屋敷でクリストフ以外に出会った人物に少しばかり緊張していたらしい。ミシェルは肩の力を抜いた。 「それじゃ改めまして。俺は商人やってるアドルファスです。どうぞお見知りおきを、ミシェル。ここへ来るのは二、三週間に一回くらいかな。君のことはクリスから聞いてる。……運が悪かったとしか言いようがないな」 「えぇまぁ……これが運命だと思ってますから」 困ったように笑うミシェルに、アドルファスは幾分か神妙な面持ちになった。 「まだ若いのに変に諦めが早いんだね。俺ならクリスぶん殴って屋敷から出るね」 「う……ん……わたしじゃ無理かな」 世の中には人智の及ばない事柄があるのだ。しかも、クリストフは人間ではない。屋敷から出るために本気で挑んだとしても、それに怒った彼が容赦なく行動を起こしたら、勝てるわけがない。 「あいつはミシェルを傷つけないと思うよ。誓ってもいい」 「それは私もわかってます。最初はどんなに怖ろしい化け物が住んでいるのかと思いましたけど……」 父親の話を聞いたときには、正直わざわざ殺されに行くのだと思っていたミシェルであった。しかし箱を開けてみれば、化け物と言えば化け物であるのだが、人の良さそうな柔らかい雰囲気の青年だった。 「窃盗を働いたのは父ですから」 「まったく……こーんないい娘さんを閉じこめるなんて。――俺について来てくれるならここから出るの手伝うよ?」 「え?」 ――出る? ここから? 「軟派なことはやめてくださいアドルフ。あなたの毒牙でミシェルを穢さないでください」 クリストフの声が聞こえてきて、ミシェルは考えるのを中断した。 ミシェルたちの目前のテーブルにティーセットを備え、 「わたしも同席します」 クリストフはミシェルの横に座った。彼女を真ん中に、アドルファスと向き合う形だ。 「お前は仕事があるだろう? ふたりで楽しんでいるんだから、執事は遠慮するものだ」 「わたしは有能ですから少し休んでも問題ありません。それに、悪い狼から女性を護るのは当然でしょう」 間髪入れずクリストフが答える。 「おい羊。俺は紳士だぞ」 ふん、と鼻で笑う気配がした。 ミシェルが驚いて声のした方を向くが、声の主であるクリストフは普段通りの様子だった。少なくとも表面的には、であったが。 「わたしのことより、温室の修理は終わったのですか」 「応急処置はな。材料がないから近いうちに持ってくる」 「そうですか」 言葉は丁寧だったが僅かに殺気が滲み出ている気がしたミシェルは、いたたまれなくなりただ黙って紅茶を啜った。 常にのほほんとしているアドルファスと、険を帯びた雰囲気のクリストフ。ふたりに挟まれてどうしたらいいのか思いつかない。 あれこれと考えて、努めて明るく訊ねた。 「ねぇ! アドルフってその……クリスと同族なの?」 同じ吸血鬼なのか。 ミシェルの言外に気づいたアドルファスは笑って首を横に振る。 「いや。魔物なのかと問われたら、答えはイエスなんだけれど」 少し前のやり取りから、ただの人間ではないのだろうと薄々は感じていた。ミシェルはしばし考える仕草をして口を開いた。 「えっと、じゃあ……狼男……?」 度々耳にした単語から導き出した答えを口にする。 「正解。よくわかったねー。俺妖気消してたのに」 アドルファスが感嘆の声を上げた。僅かに目を見開いて、驚きを示している。 「えぇまぁ……」 多分、大半の人は気づくと思います。クリスが以前から何度も狼≠チて言ってましたし。 喉まで出かかった言葉を飲みこんで、ミシェルは曖昧に笑って返す。余計なことを言って、ふたたび喧嘩が勃発となるのは避けた方が懸命だろうと判断したのだった。――正直これを喧嘩と表現してよいのか、彼女にもわからなかったのだが。 「喧嘩するほど仲が良い、とは言うけれど……」 ミシェルの呟きは聞こえなかったようだ。 このふたりの場合はいささか激しい気はするが、それ以上に強い絆があるように思える。 少し温くなった紅茶を口にしつつ、ミシェルはふたりを観察することにした。 クリストフの言葉に棘があるのは否めないものの、悪意はまったく感じない。殺気だと思っていたのはミシェルの勘違いで、それはよい意味での競争意識だろう。対するアドルファスは、年の離れた兄がやんちゃな弟を見守っているような優しい眼差しをしている。 付き合いの浅い者にはわからない密接な結びつきがあるのだろう。 なんとなく寂しい気持ちになり、ミシェルは目を伏せた。 両親は元気にしているだろうか。弟のルネは我が儘を言っていないだろうか……。手紙のやりとりで息災だと知らされているが、やはり顔を見ないと安心できない――。 「なんと!」 クリストフの悲鳴に似た声で我にかえる。 何事かと彼を見れば、立ち上がったところだった。 「ワインは温度管理が大事なのですよ!」 「それも執事の仕事だろー? 俺は客に売った後のことは知らないよ。はい、行った行った」 「ミシェル。わたしは一度失礼します」 きっ、とアドルファスを睨みつけ、クリストフは足早に出て行った。空になったふたりのティーカップに紅茶を注ぎ、自身が使用したカップを片づけてゆくのは忘れない。 突然のことに呆気にとられたミシェルの耳に、アドルファスの笑い声が届いた。 「あいつもまだまだだねー。大事なご主人様の変化に気がつかないで行っちまうなんて」 振り向くと、アドルファスの優しい眼差しとぶつかった。 「家が恋しい?」 「……はい」 隠しても無駄だろう。ミシェルは素直に頷く。 「そりゃそうだよね。いずれは働きに出たり結婚して家を出るだろうけれど」 だがそれと状況が違う。 アドルファスは頬杖をついて、微笑みかけながら告げた。 「クリスが何て言ったのか知らない。でも、屋敷から出られないわけじゃないよ」 「……え……」 思考がうまくついていかない。ミシェルは真顔でアドルファスを凝視する。 「今夜クリスの気を引きつけておくから、試しに門から出てみるといい。可能なら帰りたいだろう?」 返事はできなかった。 ミシェルは俯いたまま、膝の上に置いた両手を握りしめた。 |