Mon petit mouton Duex-モン プティ ムトン2-
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Episode 3

 しんと静まり返った屋敷に、扉の開く音が響いた。
 予想以上の大きな音に驚いたミシェルは、びくんと肩を揺らした。息をひそめて辺りの様子をうかがう――誰も近づいてくる気配はない。
 ミシェルはほっと一息ついてから、自身に与えられた部屋から抜け出した。
 あれからアドルファスとふたりきりで話はしていなかったのだが、約束どおりクリストフの意識を引きつけてくれているらしい。
 ランプを片手に一階へと降りた。一度階段の影に隠れるようにして、人気がないことを確認する。
 ――誰もいない。
 足音に気をつけながら、ミシェルはエントランスを抜けた。
 玄関の扉に近づくと、ひとりでに開いた。この屋敷ではごく当たり前のことなので今更驚かない。
 外はすでに日が暮れている。真っ暗で歩けないかと心配したミシェルだったが、まったく無用だった。三日月にもかかわらず、噴水が月明かりを受けてきらきらと輝いている。
 しばしその光景に目を奪われてその場に佇む。これならばランプがなくても大丈夫そうだ。
 ミシェルは念のためとランプの灯りで足元を照らしながら門へと向かった。
 高くそびえ立つ鉄製の門はぴったりと閉じている。中へ入ろうとしても、屋敷に認められなければ門は開かない。そういう魔法がかけられているのだという。
 では、外へ出ようとしたらどうなるのか?
 ミシェルは喉を鳴らして息を飲みこんだ。一歩、二歩、と少しずつ近づく。
 恐らく大男数人で一斉に力を込めてもびくともしないであろう門が、音もなく開いた。
「……」
 試しに来たものの、開くわけがないと高をくくっていたミシェルは目を見開いた。
「これ……出ようとしたら、いきなり閉まったりしてね」
 誰に言うともなしに呟く。
 そうしたら、自分の身体はぺしゃんこだ。
 思わず想像して身震いする。ないとは言い切れない。自動の開閉以外の仕掛けがないとも限らないのだ。
「確かめなきゃ」
 いつまでもこうしていられない。クリストフが気づく前に済ませなければ。
 心臓が早鐘を打っている。胸元を左手で握りしめながら、ミシェルは歩みを進めた。
「――っ」
 数歩行ったところで勢いよく振り返る。
 何の変化も起きず、ミシェルは門外へ出ていた。
 そのまま三歩後ろへ下がる。きょろきょろと見回して変化を待つが、やはり何も起きなかった。
 暗闇の中、フクロウの鳴き声がかすかに聞こえる。
 周囲を深い木々で覆われて視界が非常に悪いが、不思議と怖いという感情はない。一度通ってきた道だからなのか、噂に聞いた化け物屋敷が、実際はさほど警戒する必要はないと悟ったからなのか、彼女にはわからなかったが。
 ミシェルは遠くに見える屋敷の明かりを見つめた。
 最初はおどろおどろしい雰囲気を感じていた屋敷。今は、そんなこと微塵とも思わない。ひと月にも満たない短い期間とはいえ、自分はここに慣れてしまったらしい。
 ミシェルは微動だにせず立ったままだ。馬に乗ってここへやってきた道を、意識だけ戻ってゆくように視線を滑らせた。闇で道を目視できなくなったところで目を動かすことも止める。
 ふたたび視線を屋敷に移し、しばし眺めると目を伏せた。深呼吸を繰り返して肩の力を抜く。
 やがて目を開けたミシェルは、まっすぐ前を向いたまま歩き出す。
 彼女の背後で門が静かに閉まった。
 脇目もふらずに屋敷へと入る。音だけで玄関が閉まったのを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。同じように人気に注意しながら自室へと向かった。
 あと数歩でたどり着く、そのとき。
「ミシェル。外へ出ていたのですか?」
 声をかけられて息を飲んだ。
「驚かさないでよ」
 心臓が止まるかと思った。
 少し強めにミシェルが言う。
「申し訳ありません」
「ちょっと、散歩したくなったの」
「そうですか。敷地内ならば危険はありませんが、夜に出るときには声をかけてください」
「うん。ごめんなさい」
「――何か飲み物を用意しましょうか?」
 クリストフの提案に微笑みで返す。
「大丈夫よ。おやすみなさい」
 まだ何か言いたげなクリストフを廊下に残して、ミシェルは後ろ手に扉を閉めた。

 雲ひとつない青空を見上げてミシェルはため息をついた。
 ずっと屈んでいたためか足も腰も痺れている。ゆっくりと立ち上がり、身体をほぐすように動かす。
 薔薇園はかなり綺麗に整備されたと思う。ミシェルは我ながらよくやったと得意げに笑みをこぼした。
 少し壊れていた木製のゲートや飾り棚は、しばらくの間屋敷に滞在するアドルファスが直している。ひと月のうち三日ほどしか元の姿に戻れないクリストフや、大工仕事はやったことがないミシェルでは難しいので、彼がいて本当に良かったと思った。そうでなければ時間がかかっただろう。
「ミシェル」
 声のした方を見やると、クリストフがそこにいた。
「なあに?」
「そろそろ休憩しませんか?」
「ん……そうね」
 喉が渇いているのか、ひりつく感じがする。不快感を露わにしてミシェルは頷いた。
「その後はどうしますか?」
 休憩後の予定を聞かれてしばし考える。
「うーん……少し疲れたから、部屋でのんびり過ごそうかな」
 昨日はベッドに横になってもなかなか寝付けず、色々と考え事をしてしまった。そのためもの凄く眠い。
 欠伸を噛みしめると、彼女を咎めるようにクリストフの眉間に皺がよった。
「眠れなかったのですか?」
「うん……」
 道具を片付けようと手を伸ばした彼女より早く、クリストフがそれらを持ち上げ、倉庫へと歩き出した。
 ミシェルは彼の姿をしばし見つめると、黙って後をついてゆく。
「では、紅茶ではなくハーブティーをご用意しましょう」
 その気遣いが嬉しくもあり申し訳なくも感じる。
 済まなそうに礼を述べると、気にしないでくださいと優しい声が返ってきた。
「……お茶の前に、ひとつお聞きしてよろしいですか?」
 倉庫を閉めたときの状態のまま、振り返らずにクリストフが問う。
「なに?」
「どうして、あのまま屋敷を去らなかったのですか?」
 思いもよらない言葉に肩を揺らす。ミシェルが何も言えないでいると、ふっと笑う気配がした。
「気がつかないと思いましたか?」
 振り向いたクリストフの顔は普段通りであった。
 気づかないはずはないのだ。ここは不可思議な屋敷で、彼は人間ではない。
 明らかに動揺しているミシェルにクリストフは優しく笑む。
「そんなにうろたえないでください」
 彼は怒った様子もなく話を続けた。
「いくら夜でも馬さえあれば何とかなるでしょう。どうして戻ったのですか?」
 乗ってきた愛馬は馬小屋に繋がれている。変わった仕掛けもしていないし、何なく連れ出すことは可能だ。
「黙って行くのは反則だと思ったの」
 それに、別れの挨拶もできない女とは思われたくなかったのだ。
 いつか屋敷を去る日が訪れたとき、良い思い出だけを残していきたい。
「薔薇の代償は充分過ぎるほど受け取りました。元々はわたしの嫌がらせですから、これ以上は引き止めません。あなたが帰りたいと願うのなら……」
 彼の言葉を遮るかのように「いいの」と発する。
「クリスを元に戻すっていう課題もあるしね。私が中途半端にしたくないの」
「……ありがとうございます」
 クリストフが丸い黒目を細めて嬉しそうに笑う。
 ミシェルを屋敷へ促そうとしたところで、
「おーいたいた。クリス喉渇いた」
 明るい声が響いた。ふたりが目を向けると、右手を軽くあげてアドルファスがこちらにやって来るところだった。
 その声とは対照的に、クリストフは肩を落とし、わざとらしくため息をついてアドルファスに向き直る。
「アドルフの分も準備してあります。ところで。あなたはいつまで滞在する気ですか」
「お前から仕事もらってー、ミシェルに色々話したら」
「仕事は済んでいますから渡します。――色々とは?」
 クリストフの眉間に皺がよる。
「先の主人のこととか、クリスがここへ来たばっかりの頃の話とか。可愛かったよー。棘出しまくりのハリネズミみたいで」
「な!」
 言葉を失った様子のクリストフには目もくれず、アドルファスはミシェルに微笑みかける。
「ねえ? ミシェルも気になるだろう? 兄貴代わりとしては俺が知っていることすべて教えたいんだけれど、嫌かな?」
「聞きたいです」
 前主人のこと、この屋敷のこと。なにより、クリストフの過去は聞いてみたかった。
 素直な気持ちを口にすると、クリストフが小さく悲鳴をあげた。
 あまり話題にしてほしくはないようだ。余計なことをと言わんばかりにアドルファスを睨みつける。
 当のアドルファスは素知らぬ顔で口笛を吹いていた。
「でも気になるわ。特に、食材の代金とか、どうしているのかなって思うし」
 ミシェルの疑問にアドルファスが答える。
「あーそれはね。こいつ、世界中回ってたって話は聞いた? ――うん、だから語学に長けてるんだよね。それで翻訳の仕事で重宝してるってわけよ」
 なるほど。それならば姿を見せなくても可能な仕事だ。
 誰にも言えないような方法で賃金を稼いでいるのではないか……と、こっそり思っていたミシェルは安堵した。
 だが、それでは手伝えない。母国語の読み書きはできるが、他国の言葉はさっぱりだ。
 薔薇園の手入れと調べ物だけでは自己満足の範囲を越えない。屋敷にいる限り、いつまでも彼に経済的負担を強いることになるのではないか。
 それでいいのか。
 彼女の考えを読んだらしいクリストフが、慌てて両手を胸の前で振った。
「わたしのために薔薇園の手入れをしてくださっているのですから充分です」
「でも……」
 なおも食い下がるミシェルにクリストフは満面の笑みを浮かべる。その眼差しは真剣そのもので、彼女は開きかけた口を噤んだ。
 しかしそれも一瞬のこと。意を決してふたたび唇を開いた。
「でも、クリスに頼りっぱなしなのは……私も自分が食べる分くらいは稼げればいいんだけど」
 思っても、何の特技も持っていない。せいぜい植物の世話をするくらいだ。
 いらただしげに顔を歪ませて愚痴をこぼすと、クリストフが彼女に近づき、その手をそっと包んだ。
「ミシェル一人を養うなんて容易いですから、気になさらないでください」
 とくん、とミシェルの胸が鳴った。
「……なんだか、プロポーズみたいだな、それ」
 横槍を入れたアドルファスの姿が一瞬にしてミシェルの視界から消えた。
 ――その少し前に、黒と白のコントラストがはっきりとした物体が横切っていった。
 クリストフが右頬狙いの飛び蹴りを放ったらしい。アドルファスは急な動きに対処できず、蹴られた弾みで地面に転がった。
 蹴った反動で向きを変え、空中で一回転してから着地するクリストフの姿は、とても華麗だとミシェルは思った。これが見世物小屋での出来事ならば拍手喝采だろう。
 続いて、どすどすどす……と、何かが地面に突き刺さる音が聞こえた。クリストフが投げたらしい短剣が、風切り音を立てながら突き刺さる。
 地面にアドルファスの人型を取るように、複数の短剣が彼の周りを囲っている。少しでも動いたら皮膚が切れそうだ。
「……こいつをなんとかしてくれ……」
 銀製の短剣に阻められて、満足に身動きできないらしいアドルファスが助けを求めた――が、気が動転しているミシェルは行動を起こせなかった。
 彼らの言葉が頭から離れず、気恥ずかしさを覚えて俯く。
 真っ赤に染まっているであろう顔を隠すことしかできなかった。

- Fin -


ちょっと急ぎ足な感じになってしまいましたが第二弾です。
格好つけているが、クリスはヒツジ姿。




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