「桔梗様、もうすぐ忍様が……どうなさいました?」 しかめっ面の桔梗を不審に思った瑠璃が、首をかしげて訊ねる。 「読んでもよろしいんですの?」 瑠璃は無言で渡された文に目を落とし、ほぅ、と吐息を洩らした。 「言に出でて 言へばゆゆしみ朝顔の ほには咲き出す 恋ひもするかも=c…朝顔は、桔梗の花を指したりもしますわね。どういう意味の歌なのですか?」 「意味? ええと……」 無邪気に問うてくる瑠璃に、 「言葉で言ってしまうと大事なので、朝顔の花のようにうわべには表さぬ恋をしています=v 桔梗は抑揚のない口調で答えた。 恋の歌など送られても、からかわれているとしか思えない。それに、送り先を間違えているとも考えられる。 なんせ歌しか書いていないのだから。瑠璃の言うように、朝顔が桔梗の花を指しているのならばそうかもしれないが、憶測でしかないのだ。 「まぁ」 そんな桔梗の心情など露とも知らず、瑠璃は楽しげな声をあげた。 「どこの殿方が桔梗様をお見初められたのでしょうか。まぁどうしましょう」 「瑠璃」 暴走しそうな瑠璃を桔梗が嗜める。 「放っておきなさいね。誰から送られたのかもわからないし……どうせ化生の子と噂される女に興味を持った、ただの暇人だよ。物好きはどこにでもいるのだから」 「まぁ、桔梗様!」 瑠璃は大袈裟なほどの身振りで反論する。 思わずぎょっとして後ずさると、黙ったままの玻璃の顔が目に入った。彼女は瑠璃と双子と言ってもよいくらいそっくりだ。異なるのは、玻璃は瞳が緑色であり、表情が少々乏しいことくらいだろうか。 表情豊かな瑠璃は、己の主が顔をひきつらせていることに気がつかないまま、頬を紅潮させて力説を続けた。 「桔梗様は玄翔様の後を継ぐ優秀な術者です! それを化生などと……。感心しませんわ」 「瑠璃。この話はもういいから」 ため息をつきながらも桔梗は静かに告げた。異論を述べるのは逆効果だと判断したのだった。 「失礼しました。朝から桔梗様をお疲れさせる訳にはいきませんね」 主の思いを察したのだろう。瑠璃はすぐさま謝罪して口を噤んだ。そうして、白湯を持ってきます、と断りを入れて静かに退出していった。 桔梗は知らず張っていた肩の力を抜いて、もう一度ため息をついた。 ――彼が「瑠璃はお前の崇拝者だ」と言っていたのが、わかる気がする。 自分と同じ年頃の少年の言葉を思い出してくすりと笑う。だが桔梗はすぐに真顔になった。 そういえば、最近顔を見ていない。いつも忙しい合間を縫って、こちらに顔を出しているのだが……。 あとで会いに行ってみようか、と考えていると、瑠璃が戻ってきた。彼女の後ろを背の高い男が歩いている。 「おはようございます」 その男は、見るからに年下の桔梗に対して仰々しいほどの臣下の礼を取った。 黒を基調とした羽織と袴は彼の身体になじんでいて、水干や狩衣と比べてとても動きやすそうだ、と桔梗は改めて思う。 「おはよう忍」 忍は挨拶を済ませると、臣下の形を崩して簀子縁に座った。それでも背筋をぴんと伸ばした正座は、傍から見ても身分を弁えていることが伝わってくる。 「薬を煎じてきました」 差し出された土器を見やり、顔をしかめた。 注がれている液体は濃い緑色をしている。 忍の顔が、どことなく楽しそうなのは気のせいだろうか。 「どうしました?」 促す声にも応じず、桔梗は受け取ろうとしない。 おそらく薬を飲まなければ解放してもらえないだろう。桔梗は意を決して土器を受け取り、薬を一気に煽る。 苦さに、思わず涙ぐむ。 咄嗟に吐き出したくなる思いを隅に追いやって飲みこんだ。 真横に待機していた瑠璃から渡された白湯で喉に粘りつく薬を流して、桔梗はようよう深い息をついた。 「頭痛だそうですが、休まれてはいかがですか?」 忍の申し出に首を横に振る。 「ちょっと、生々しい夢を見ただけだから」 「夢……ですか?」 忍は神妙な面持ちをした。 「うん……。周りが炎に包まれていて、夢なのに熱さも焦げた臭いも感じるような。夢だとわかっているのに、実際に体験しているようだった」 話しているだけで、ふたたび炎に包まれたような気になってしまう。 桔梗は身を震わせた。 「術者の見る夢には意味がある、と聞いたことがありますが……」 「あれではないですか?」 忍の言葉を引き取って瑠璃が続ける。 「先日、浄化を頼まれましたでしょう。掛け軸の」 思い至った桔梗は、あれか、と声をあげた。 瑠璃は、とある邸での火災に巻きこまれた曰く付きの掛け軸のことを言っているのだ。 「そうかもしれないね」 頷いて肯定の意を示す。 掛け軸は有名な作家が手がけた逸品らしく、貴族の手から手へと渡り、そのすべての邸で火災が発生した。呪われた掛け軸と呼ばれるようになったそれは、やがて貴族の手を離れて今度は市井へと流れた。 何も知らずに引き取った行商人は堪ったものではない。 民間人には必要のない掛け軸であったが、運悪く宿をとった先で発火となり、あわや大惨事になるところだったと聞いた。 やがて巡り巡って桔梗の元へと届けられた。桔梗が不思議な術を使い、魔を祓ってくれると噂になっているのだ。 「でも、もう悪い念は消えたんだけど……」 「妖の最後の足掻き、と言ったところでしょうか」 目元を和ませて、忍が合いの手を入れる。 「薬は効いているようですね」 桔梗の眉間の皺が消えたことに気づいたのだろう。 「体調が優れなければ、また後ほど。本日は玄翔様に呼ばれていますので。さほど遅くはならないと思いますが」 「わかった。薬ありがとう」 「いえ。礼には及びません」 忍は軽く頭を下げて立ち上がった。 「――ああ、そうだ。忍」 ふと思い出し、去りかけた忍を呼び止める。 「なんですか?」 「最近、影明に会った?」 訊ねると、忍はしばし考える仕草をして頷いた。 「えぇ、会いました。確かあれは……三日前でしたか。玄翔様のお邸で。酷く疲れた顔をしていたので薬を渡しましたが、飲んだのかどうか」 先ほど飲んだ薬の苦さを思い出して顔をしかめた。 かすかに笑い声がして、桔梗は声のした方を仰ぎ見た。思った通り忍の口元が緩んでいた。 「失礼」 涼しい顔をして謝罪しているが、内心は面白がっているのだろう。 そう感じた桔梗の目が少しばかり半目になった。 「もう少し飲みやすくはできないの?」 以前からの疑問を口にすると、 「良薬は口に苦し、と言いますでしょう」 答えになっていない言葉を言い残し、忍はもう一度頭を下げてから立ち去った。 残っている白湯を飲み干して、桔梗は身体をほぐすように動かした。 頭を包みこんでいた嫌なものは綺麗に消えた。 「わたしもそろそろ行こうかな」 「はい。いってらっしゃいませ」 いつものように声をかける瑠璃の表情が、ほんの少しだけ曇っているように見えた。 気づいた桔梗は瑠璃を真っ直ぐに見て訊ねた。 「瑠璃、何か困ったことでも?」 「いいえ……。いえ、どうしたものかと考えてはいますが……」 どうにも歯切れの悪い物言いだ。 「桔梗様は貴族の出身だというのに、毎日市井へ繰り出して仕事をなさるなど」 よよよよ、と袖を目元に押し当てて泣き真似をする瑠璃を見て、桔梗はまたかとため息をついた。 瑠璃の横で平然と座っている玻璃が、なんともちぐはぐな風景を描いている。 桔梗はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。 「生活していかなきゃならないからね」 何もしなくとも賃金が入ってくるならいいが、放っておいても懇々と水が湧き出る泉のような便利な物は持っていない。 「ですが」 「わたしが男だったら、今と違った生活だったのかもしれないけれどね」 自分の境遇を悔いても仕方がない。 桔梗は大きく頷いた。 「それに、今の生活が好きなんだ。瑠璃と玻璃、それと忍。四人で細々と暮らすのも悪くない」 友人も遊びに来る。楽しく暮らせているのに、それ以上は望めない。 桔梗はそっと後ろ髪に手を伸ばし、見えるように前に持ってくる。色素の薄い髪は、光の加減で銀色に見える。 異形と罵られて都から追い出されても文句は言えない。なのにこうして居場所があるのだ。 「桔梗様……」 少々力ない声で瑠璃が名を呼ぶ。潤ませた瞳で主人の顔を見つめていたが、やがて真剣な表情に変わった。 「わかりましたわ。もう泣き言は言いません」 「うん、それ何回か聞いた」 「わたくしもあとで市井へ行きますね。頑張っていらっしゃる桔梗様においしい食事をお出ししなければ」 調子の良い瑠璃に笑いかけ、桔梗は自身の邸を後にした。 |