話は、少し遡る。 「なに? 邸を出る?」 皺の深い顔に更に皺を刻ませて、老人が驚きの声をあげる。 老人はしばし目の前に座る少女を凝視していたが、開いていた書物を閉じて立ち上がった。御簾を留めていた紐をほどいて戻ってくる。 風を通すために巻き上げられていた御簾が下りると、部屋の中が僅かに薄暗くなった。 「誰かに何か言われたか?」 元々座っていた文机ではなく、少女の真向かいに円座を持ってきて座ると、老人は再度訊ねた。 「いえ。そうではありません」 にこりと愛想笑いもせずに少女――桔梗が答える。 邸には、陰陽頭である玄翔を頼って来訪する貴族の使いや、彼の元で修行する者たちが多い。陰陽道を操る弟子のひとりとして桔梗もここで暮らしているのだが、それを良く思わない人間も少なくはない。 化生の子供が力を蓄え人間に仇名そうとしている、と陰口を叩かれるのは日常茶飯事だ。 だからそれにいちいち反応しては身が持たない。自然と流すことを覚えてからは、よほどの悪意でなければ気にならなくなった。 しかしそれは逆効果でもあった。 「愛想笑いすらもできない」「こちらを馬鹿にしている」……など。嫌われているならばと必要以上に近づかないようにするのだが、相手は気にならないことが気に入らないらしく、放っておいてくれない。 人と関わるのは正直苦手だ。だから玄翔がよく口にする経験・修行の一環≠ニ思い接しているのだが、その己の態度が更に癇に障るのだろう、と桔梗は他人事のように分析する。 しばし考えていた桔梗は、違うのです、と師匠の言葉を否定した。 「わたしの身内の邸が五条の外れにあると、玄翔様もご存知と思いますが」 玄翔が頷いた。 「うむ。知っている。たしか、母方の縁の邸だったかな。小さいながらも庭が見事な邸だと聞いた」 「その、邸なのですが」 一旦言葉を切った桔梗は、言いづらそうにして視線を泳がせた。 決意したはいいが、様々な思いが交差してうまく話せないでいるようだ。 玄翔は急かすことなく彼女の言葉を待っている。 やがて桔梗は、相手の目を真っ直ぐ見つめて話し出した。 「元の主が死去してから邸は荒れ放題。粗忽者が住みつくようになったと聞いています。わたしは数回しか訪れたことがありませんが、あまりに心苦しく――。身のほどを弁えぬ若輩者が勝手を申しますが、この邸を出ることをお許しください」 一気に訴えるように話すと、桔梗は頭を下げた。額が床につくほど低く。 身内は全員流行病でとうの昔に死んでしまっている。幼少の頃から、陰陽道の才を見抜いた師匠に引き取られて、この邸で過ごしてきた。世話になっておきながら、我侭を言っていると自覚している。身勝手だと非難されても仕方がない。 それでも、身内の思い出がすべて消えてしまうのは嫌なのだ。 桔梗は頭を下げたまま微動だにしない。 「――」 しばしの時間が過ぎた。 邸の周囲を囲む草木が風になびき、さわさわとたてる音のみが聞こえる。 静寂を破ったのは老人の笑い声だ。 「面をあげい」 そろそろと桔梗が顔をあげると、目に映ったのは玄翔の優しい笑みだった。 「お前は真面目なのが取り柄だが、真面目過ぎて少々つまらんのぅ」 かかか、と豪快に笑い、玄翔は桔梗の頭を撫でた。 「ふむ……たしかに、件の庭を放っておくのは勿体ないな」 玄翔の言葉を聞いて、桔梗はほんのりと笑みを浮かべる。 「では」 「よろしい、許可しよう。ただし修行を怠るでないぞ。まめにこちらへ顔を出すように」 「はい。ありがとうございます」 礼をとる桔梗の頭上から、ふたたび笑い声が降ってきた。老人のものとは思えないほど張りのある声だ。 今年で七十になると噂されるこの老人は、年齢を感じさせない鋭い洞察力と行動力で周りの人間を常に驚かせている。そのためなのか、彼は人ならざる存在と関係があるのではないか、と貴族の間で囁かれているという。 それはあながち間違いではないのだろう。 先ほどまで庭にいたはずの彼が、振り返ったら邸の中にいた、などという不可思議な出来事はしばしばあった。自分そっくりの式神だった可能性もあるが、そうと気取られないものを扱える。まさに神懸りな術を使うひとだ。 玄翔には、尊敬の念を抱いている。 そう思った桔梗は、いや、と自身の考えを否定した。 心の奥底で怖い≠ニいう感情が渦巻いている。 畏怖≠ニは違う。 なぜそう思うのか、桔梗自身にもよくわからないでいるのだが、他に言いようがない。 「ふむ」 玄翔が洩らした一言に、桔梗は肩を揺らした。 「お前が半人前ながらも類稀な力を持っていることは重々承知しているが、ひとりでは心配だな。誰か供につけるか」 仙人のような玄翔に心を読まれたのかと思ったが、そうではなかった。 「いえ、それは……」 内心ほっとしつつ桔梗は申し出を断る。 「半人前だからこそ、供を従える理由はありません」 「なに。これも経験よ。あまり硬く考えるでない」 即座に切り返されて口を噤む。 「弟子がひとり立ちをする良い機会だからな。修行の一環と思ってくれればよい。お前も、人との関わり方の練習と心得よ」 そう言われては拒否できない。 桔梗は唇を引き締めて師匠の課題を受け入れた。 「――桔梗」 威厳のある声音で呼ばれ、桔梗は背筋を伸ばして耳を傾けた。 「この邸を出るからといって、お前が一人前になった訳ではない。更なる精進に努めよ。今後も定期的にわしの指導を受けること。……時々でよいから、顔を見せておくれ。年を取ると少々人恋しくなってなぁ」 厳しい顔をしていた玄翔は、後半は茶目っ気たっぷりの様子を見せた。 桔梗は一瞬呆気に取られ――強く頷いた。 「これは……処分してしまおうかな」 古い衣を手にして考えこむ。 玄翔の部屋から退出した後、桔梗は己に与えられている一室で荷物の整理をしていた。 御簾を上げて開け放った出入り口から風が入る。 吹きこむ風の気持ちのよさに桔梗はしばし手を休めた。風に含まれる緑の香りに頬を緩ませる。それから、瞑想するかのようにそっと目を閉じた。 邸の周りを囲むように植えられた木々からは、とても良い気が放たれている。 周囲に緑を植えることは別段珍しくないのだが鬱蒼と≠ニいう表現が似合うのはここひとつしかないだろう。この邸の主人の好みらしく、木々がひしめきあっているのだ。 瞼を開けて、近くにある行李に手を添える。 荷物といってもたいした物は持っていなかった。玄翔から譲り受けた陰陽道の書物の他は、私物などほとんどない。 しばらく悩み、古い衣を行李の横に置いた。今持っている衣で充分だろう。 そっと覗くと、行李の中はがらんとしていた。 桔梗は我ながら執着心がないなと苦笑する。 もっと、普通の生活を送っていたのならば違ったのかもしれない。邸の奥で綺麗な袿を着て、貝合わせなどをして遊ぶ――。だがそういった貴族の娘が経験する生活は、桔梗にとってはあやふやな夢物語だ。経験がないから想像が追いつかない。 それに貴族の端くれに生まれても、物心ついた頃には玄翔に預けられたらしい。 らしい、というのは、玄翔や兄弟子たちから聞いただけで桔梗は覚えていないためだ。幼少から陰陽道の才に恵まれた彼女は、それからずっと玄翔の邸で暮らした。 年に数回は会っていたはずの両親の顔も思い出せないくらい、長い期間。 「だからか」 今更ながら理解した桔梗はぼそりと呟いた。 物にも人にも興味が湧きにくいのは、己が特殊な環境だからなのだろう。何の力もなく普通の子供として生まれていれば、もっと普通の性格になっていたかもしれない。 ならば仕方がない。 兄弟子たちや、この先出会う誰かを不快にさせないための努力はもちろんするが、苦境を嘆いても何も始まらない。 「……うん。まずはこれからの生活を考えなければ」 玄翔の弟子であることに変わりはないのだが、彼の元を離れるのだから、今後は自ら生計を立てねばならない。いくら化生と呼ばれても自分は人間だ。食事をしなければ身体は動かなくなる。 さてどうするか。 やはり特技を生かすべきだろう。市井には顔見知りもいるから、仕事がないか話を聞いてみようか。 桔梗があれこれと考えていると、遠くに人の気配を感じた。 荷物整理を進めながらも意識はそちらへ向ける。かすかに聞こえる足音が近づいてきた。 「桔梗」 澄んだ空気のごとく凛とした男の声に呼ばれて振り返る。 逆光で顔は見えなかった。だがよく見知った男の声だ。 「なにかあった? 忍」 訊ねると、忍と呼ばれた男は僅かに口角をあげた。そうして、常に腰に佩《は》いている刀を外し、足を軽く崩した格好で庇に座った。細身の刀は自身の右側に置いている。 「あったといえば、あった」 よくわからない物言いだ。 首を傾げつつも行李に蓋をして、桔梗は忍と向き合う形に座り直す。 「今しがた玄翔様から命を受けた」 「……もしかして」 桔梗が呟く。 少ない情報から、彼が何を言わんとしているのか思いついた。 その考えを肯定するかのように忍が頷いた。 「玄翔様より、邸を出た後は桔梗様に仕えるよう下命を拝しました」 しばしの沈黙がその場を支配した。 呆気にとられたまま、目の前の男を凝視する。驚きで思考が止まっていた桔梗だったが、やがてのろのろと口を開いた。 「忍……。なに、その口調は」 口にしたら思い出してしまい、背筋が寒くなるのを感じた。 桔梗はひくりと顔を引きつらせた。 「おかしなことでも?」 しれっとした顔で返されて、ふたたび言葉を失いかける。だが気を取り直した桔梗は静かに問い返した。 「だからその言葉使い。いつも通り、飾り気のない話し方をしてほしいんだけど……。それとも嫌がらせ?」 「失礼な」 忍が不服だと言わんばかりに目を細めた。 比較的年齢が近いこともあり、指導役と呼べるほど大層な役目ではなかったのだが、彼は何かと桔梗に目をかけていた。指導よりは相談が近い。 普段から丁寧な物腰ではあったが、後輩の自分に敬意を払う理由はない。正式な雇い主でもないのだから。 その旨を伝えると、忍は小さく笑った。 「これは私の流儀ですから、気にしないでください」 「気にするなと申されましても……」 釣られた桔梗に、心底おかしそうに笑うと、忍は彼女の頭をくしゃりと撫でた。 「仮にも貴族なのだから堂々としていなさい。必要以上に持ち上げるつもりもないし、今まで通りの接し方で差し支えありません」 「わかった」 了承を得た忍はますます目元を和ませて桔梗の頭を撫で回した。 途端に桔梗の目が三角になる。 「失礼」 詫びているものの、忍の言葉には気持ちが含まれていない。それを裏付けるかのように彼は撫でる手を止めなかった。 「なんだか、手負いの猫を手なずけている気分でして」 「……。忍……」 心外だという表情で見上げるが、そんなものどこ吹く風だ。忍は涼しい顔で受け流す。 「まだ裳着も済ませていないのに、何を言っているんですか」 桔梗の眉間に深い皺がよる。 もっともな意見だが、後見人代わりでもある玄翔が邸を出るときに、と言っているのだ。早く済ませたくてもこればかりはどうにもならない。 尚も反論しようとした桔梗は、結局口を閉ざした。口では敵わないと思った訳ではなく、急に様子が変わったことに気づいたのだった。 忍の表情はほとんど変わらず口元に笑みを湛えていたのだが、瞳に懐古の色が滲んでいる。 「しのぶ……?」 押し黙ったままの青年を訝しんで声をかける。 途端に忍ははっとしたような顔になり、非礼を詫びた。 「すみません。少々、懐旧の念に浸っていました」 「何か聞いてもいい?」 重ねて訊ねると、忍は小さく頷いた。 「故郷にいる妹を思い出していました。桔梗様と同じくらいの年頃で、桔梗様と違って勝気な性格でして……。あれもそろそろ奉公に出る頃だと記憶しているのですが、うまくやれるのか」 そう言って困ったように眉をよせるものの、彼の瞳に慈しみの色が浮かんでいるのを認めて、桔梗は表情を緩めた。 「でも、忍の妹なら心配ないんじゃないかな?」 「どうでしょう。今はまだ山里しか知りませんから。雅やかな邸での勤めとなったら、心が乱れて不始末をしでかさないか心配です」 桔梗が不思議そうな顔をする。 「そうか。忍の生まれって、都から離れた場所だってお師匠様が言ってたね」 しばし逡巡してから、納得がいった様子で呟いた。 玄翔は陰陽道に秀でた者だけでなく、武道や武術に長けた者や、自らに祓う力はないが妖の姿が視えてしまう者など、実に様々な人間を受け入れ助言している。その噂は都から遠く離れた集落まで聞き及び、ほぼ毎日と言ってもよいほど、玄翔の邸には人が訪れる。 しかし、多種多様な人間が邸へやってきては肩を落として去っていくのも何度も目にした。 玄翔が望む水準に達していない者や、単なる思いこみの者も多かったのだ。 これまで追い出されなかったのは運が良かったのだろう、と桔梗は思う。 「都と違って鄙びた場所ですが、自然も多く穏やかなところです。おそらく桔梗様はお好きだと思いますが……ただ、自然しかありませんから若衆には少々退屈でしょうね」 「晩年をのんびり過ごすにはいいかもしれないね」 静かに余生を送るならば、俗世とかけ離れているような、そんな場所が好ましい。 「忍の故郷は、都から遠い?」 忍が不思議そうな顔をする。状況が飲みこめなかったようだ。しばらく考えこむ仕草をしてから口を開いた。 「……そうですね……私がこちらへ来たのは、十三の時でしたか。当時は歩いて三日……いや、四日ほどかかりました。旅に慣れていればたいしたことのない距離だと思いますが」 一旦切った忍は幾分か真顔になり、 「転居先は洛外へ変更ですか?」 と、訊ね返した。 桔梗は思いもよらなかった返答に一瞬言葉を詰まらせる。 「……そういう訳じゃない。わたしはこの都しか知らないから、機会があれば見聞を広めに行くのもいいかなと思ったんだ」 「勉強熱心なのは良いですが、私の里には、薬草か毒草くらいしか珍しい物はありませんよ。どちらかが必要だというならばこの上ない場所だと思いますが」 さらりと物騒なことを口にする彼の顔は、実に平然としていた。 一見、穏やかな表情をしている忍を胡散臭そうに見やる。 桔梗の頬が僅かに引きつっていることに気づいていないのか、あえて知らないふりをしているのか。真相は定かではない。 気を取り直して、桔梗はふと思った疑問を口にする。 「もしも、薬草や毒草が欲しいって忍の故郷に行ったら、分けてくれるの?」 「さて。どうでしょうね。薬草はともかく、毒草など普通は必要ない物ですから。お引き取り願うことになるでしょう。金銭ずくで動くような長《おさ》ではありませんし、野辺に生えている草を黙って抜こうとしても……優秀な見張りもおりますからね。盗賊などひとたまりもないでしょう」 薬と毒。相反するふたつの草が生え、自然が多くのどかなのかと思えば、そうでもなさそうだ。 随分と激しいところらしい。 「お望みでしたら案内しますが、今はそれどころではないのでは?」 「そうだね。新しい生活に慣れて余裕ができたら考える」 桔梗は息をついた。 師匠の元を離れてからどうするのか――まだ何も決まっていない。 そんなことを考えていると、遠くで烏が鳴いた。 陽はまだ地上を照らしているが、西の方角がほんのりと赤みを帯び始めている。 それを肩越しに確認して、忍は桔梗に向き直った。 「……長居しましたね。これで御前を失礼いたします。何かあれば呼んでください」 「うん。ありがとう」 去る忍を見送って、桔梗は軽く伸びをする。 「もう少し片付けしようか」 誰に言うともなしに呟くと立ち上がった。 |