翌朝、桔梗は新しい住居へと出向いていった。 邸の周囲はとても静かだ。近辺に人が住んでいない訳ではないが、角を曲がる前に歩いていた路と比べると人気がない。 やはりこの荒れ果てた邸が人々の心細さを募らせるのだろうか。 桔梗は寂しげに眉をひそめた。 表門の前で立ち止まり、うーんと唸る。それからきょろきょろと辺りを見回して、また唸った。 築地塀はところどころ壊れていて、草木が伸びっぱなしになっているのが外からでもわかる。 できるだけ自分たちの手で直そうと意気込んでいた桔梗だったが、少々難しそうだと唇を噛む。建築職人に頼むにしても、先立つものが今はない。玄翔から餞別として幾らかの銭を受け取ったのだが、今は外装に回す余裕はないだろう。 桔梗はしばし考えを巡らせていたが、良い案も浮かばず諦めた。 いざとなったら式神か何かで対応しよう。 そう思った桔梗は、壊れかけの門扉に手をかけた。 ぎい……と軋む音がする。扉は少ししか開かなかった。どうやら建て付けが悪くなっているらしい。眉間に皺をよせて、さらに力をこめる。 鈍い音をたてながら扉が開いた。 人ひとりが通り抜けできるくらいの幅を作り、桔梗は息をつく。それから門の中へと身を滑りこませると、ふたたび力を入れて門を閉めた。 はぁ……と長く息を吐き出す。毎回この調子では外出もままならない。 桔梗は額に汗が浮かんでいるのに気づくと、掌で無造作に拭い去った。 「門は、絶対に最初になんとかしよう」 己に言い聞かせるように力強く独りごちて歩き出す。 門から程近い渡廊までやってきた桔梗は「あっ」と声を洩らした。手を伸ばして床に触れてみる。 床板はところどころ抜けかけているが、滑らかな感触が伝わってきたので更に驚いた。首を左右に動かすと、つやつやとした光沢は渡廊の端から端まで続いているようだった。 履物を脱いだ桔梗は渡廊へと上がり、邸の奥へと進む。 荒れ放題だったはずの邸内は、御簾が切れていたり壁代が破れていたりするが、埃は綺麗に拭い去られていて、しばらく無人だった割には綺麗だ。 東対から寝殿へと移動して、桔梗は探していた人物を発見した。 「瑠璃」 床をせっせと磨いていた瑠璃は、手を止めてこちらに顔を向けた。 「まぁ桔梗様」 目を見開き驚いたような表情で床に正座をして、瑠璃は頭を軽く下げた。 「先にご連絡いただければ、もう少し準備を進めていましたのに」 「いや。急に思い立ったから。あちらはもう片付いたし、わたしも手伝おうと」 「駄目です」 申し出を即座に却下する瑠璃の顔は穏やかだが、目は真剣だ。 「なんで駄目なの?」 桔梗はいささかむくれた様子で瑠璃の前に座る。 「桔梗様のお邸だからです。主人自らが改装に取り組むなど、そんな馬鹿げたことはこの瑠璃が許しません」 「でも、玻璃とふたりだけじゃ大変だ」 「駄目ですってば」 にこやかに、されど反論は認めない瑠璃をどうやって言いくるめようか……と桔梗が考えていると、小さな床鳴りがした。音はこちらに近づいてきている。 「おー。やっぱここか」 続いて、少年の声が聞こえた。よく知った声だ。 紺の狩衣をゆったりと着崩した少年が、ひょいと顔を出す。 桔梗は身体をずらして振り返ると目元を和ませた。 「いらっしゃい。影明」 片手をあげた影明は、人懐こい笑みを浮かべて桔梗の隣に座った。 「影明様いらっしゃいませ。――白湯でもお持ちしましょうか。厨は先に片付けましたのでいつでも使用可能ですが、今はあいにくと食物はありませんので」 「うん、お願い」 主の命を受けて瑠璃が頷き、厨へと向かっていった。 「ずいぶん片付いてるんだな」 辺りを興味深く見回す影明に倣って桔梗も視線を巡らせた。 隅から隅まで目を通し、瑠璃と玻璃が邸中を掃除してくれていたのだと再確認する。 床は最初に驚いたとおり埃ひとつ落ちておらず、ついこの間まで使用していなかった邸とは思えないほど綺麗だ。 だから手が回らず天井の梁には蜘蛛の巣が張っているのではないか……と考えていたのだが、それは大きな間違いだった。巣はおろか、こちらも埃は見受けられない。 もちろん、まだ手をつけていない部屋もあるだろうが、この様子では邸内を隈なく点検しても、砂粒ひとつすら見つからないかもしれない。 たったふたりでよくやったものだ。 桔梗は改めて感嘆の声をあげる。 「もっと片付いてないと思っていたんだけれど、この様子だとわたしの出番はないかな」 「そうか。……しっかしまぁ、なんというか……」 室内を見回していた影明がぼそりと呟いた。 そのまま黙ってしまうので、不思議そうな顔をした桔梗は首を傾げる。 「なにが?」 訊ねるが、彼は口篭ったままだった。 「いいよ。はっきり言っても」 「うん。――こんなに古かったかなぁ、と。お前のばっちゃんが存命中に一回か二回しか遊びに来てないと思うけど、もっと、綺麗だった気がするんだよなー」 影明のぼやきに桔梗は苦笑する。 「そりゃあ、その頃よりも月日が経っているんだから、当然じゃない?」 と、当時の記憶をたどっていた桔梗の指がぴくりと動いた。 何となく記憶のひっかかりを感じたのだ。 邸の元の主は桔梗の祖母だ。影明の言うとおり、ほんの数回しか会ったことがないのだが、訪問する度に喜んで出迎えてくれた。 草木が好きなひとで、四季おりおりの風景を楽しめる庭を大事にしていた。 天に召されてからは住む者もおらず、荒れてしまうのは仕方がないのだが――確かに、朽ちるのが早い気がした。親類の欲目かもしれないが「もっと綺麗だった」と表現したくなる。 でも、こんなものかもしれない、と桔梗は考え直した。 あまりにも昔のこと過ぎて記憶が曖昧になっているようだ。こうして思い出は少しずつ色褪せてしまうのかもしれない。 祖母の優しい笑顔を心に思い描こうとしても、頭に薄い紗幕をかけられたようで、上手く思い出せない。 桔梗は寂しい気持ちを誤魔化すために瞬きを繰り返す。 「桔梗」 突然、呼びかける声と共に手が伸びてきて、桔梗は心臓が飛び跳ねる思いをした。 「――っ。なに?」 反射的に後ろへと下がるが、影明の指は桔梗を捕らえた。 頬に触れた指の温かさに、桔梗は強張っていた身体を更に固まらせる。 「なに……か、ついてる?」 どぎまぎしながら訊ねると、影明の顔が曇っていることに気づいた。 影明は黙ったまま、今度は額へと手を滑らせる。 「熱はなさそうだな。顔色、すこーし悪いぞ」 「そう? 移住する準備で色々と落ち着かなかったから、疲れたかな」 言いながら、桔梗はさり気なく影明の手から逃れた。触れられた箇所から体温が急激に上がっていくのを感じて、落ち着かないようだ。膝上の手をぎゅっと握っている。 「あまり無理するなよー。ある程度済んだら、あとはゆっくりすれば? どうせ一日、二日じゃ完璧には終わらないだろうし」 うろたえている桔梗の様子に気づくことなく、影明はのんびりとそう口にした。 「それはそうなんだけれど」 動揺を悟られないよう平静を装って答える。 「失礼いたします」 瑠璃の声が聞こえて、桔梗は胸を撫で下ろした。これ以上彼とふたりきりでいたら、青白いらしい顔が今度は赤く染まりそうだ。 受け取った白湯で喉を潤す頃には、上昇しかけた体温も治まっていた。 「門はあんなだし、格子も早くどうにかしないと、風通しが良すぎるしね」 桔梗の言葉に反応するかのように、外れかけている格子が風に吹かれて軋む。 今はまだいいが、雪が降る季節は厳しいはずだ。 「あー……それは大問題だな」 冗談めかした物言いに影明が笑みをこぼした。 「あと、植栽も早めに進めたいんだ。お師匠様の邸のように、植物の多い邸にしたくて」 「まぁ、それは良い考えですわ。玄翔様のお邸は空気がとても澄んでいましたもの」 瑠璃が賛同する。 桔梗は住み慣れた邸を脳裏に浮かべた。 玄翔の邸は強い結界に守られている家主の持つ力はもちろんだが、周囲に植えられた草木の放つ生命力との相乗効果で、強力な結界が築かれているのだろう。 桔梗は、玄翔の邸で感じた風を思い出して目元を和ませた。 「でもなー。んー……いや他人が口出してもなんだな」 「なにが?」 言いかけて止めた彼を疑問に思って促す。 影明はその位置から見える草木にちらりと目をやって、視線を戻した。 「綺麗に整えるのは賛成するけどさ、あんまり増やすなよ。植物。日陰には悪い気が溜まりやすいし。桔梗なら異形の十匹や二十匹でてきても、瞬く間に退治しちまうだろうけどさ」 「いや二十匹は無理が……でも、そっか」 納得して頷く。 緑豊かな場所は、樹木のもたらす浄化作用によって清らかに保たれるのだが、使い方を間違えると真逆の作用が生じる恐れがある。 隙間なく重なりあった枝葉の下は、陽光が届かず風も通り辛い。昼間でも薄暗くなるその辺りは気が澱み、異形たちの絶好の場所となるだろう。 「何事も適度に……うん。そうだね」 身体に良いとされる薬も酒も、取り過ぎれば毒になる。廃墟となりかけたこの邸を助けたつもりで、新たに異形が棲みついては本末転倒だ。 桔梗は再度頷いて彼の意見を受け入れた。 影明を門のところまで見送った桔梗は、ふと空を見上げた。ややあって、目を細める。 群青色に染まり始めた空に異変は感じられない。しかし桔梗は空を見据えたまま動かない。 直後。 北東の、鬼門方角から。不吉な星が流れた。 「……何も起きなければいいな」 夜空を見つめたまま、そう願って呟く。 願いが通じる前触れなのか。空では何事もなかったかのように星が瞬きはじめた。 だが桔梗は、こういったときの悪い勘は外れないと、よく理解していた。 |