高彬に案内された部屋へたどり着く頃、外から小さな雨音が聞こえてきた。 やはり降りだした、と桔梗は心の中で呟いた。 これから案内されるのは内裏の東側、麗景殿だ。ここは弘徽殿の真向かいになる。麗景殿の女御と呼ばれた女性が亡くなったのは記憶に新しい。 道すがら高彬は己のことについて桔梗に話した。 普段の生活は主に二条にある邸で、彼の母君の実家なのだという。そして、母君というのが――弘徽殿の女御であらせられる。 話が進むにつれて桔梗の眉間には深い皺が刻まれていった。 何も聞いていません、見ていません、そして誰にも話しません、とすべてを放り出せたなら、どんなに楽だろうか。 そうも言っていられず、桔梗は前を歩く高彬には気づかれぬように、修行の一環で覚えた呼吸を行いつつ、平常心を取り戻していく。 「どうしたの? こちらへおいで」 声をかけられて我に返る。麗景殿の中から高彬が呼んでいる。 廂の間で入ってもいいのだろうか……と躊躇していると、ふたたび促された。桔梗はおそるおそる足を踏み入れた。 畳の上に座った高彬の真正面に腰をおろすと、なんともいえない緊張感が桔梗を襲う。 改めて彼の素性を認識してしまい、かかなくてもよい汗が全身から吹き出てきそうだった。せめて、御簾越しならばどうにかなったのだが。 桔梗の様子に気づいた高彬はくすくすと笑っている。一応親切心からか扇子で隠し声を忍ばせてはいるが、この距離では隠し切れない。 「そんなに硬くならないでよ。――いつまでもきみを独占していられないから、始めてもらってもいいかな?」 「はい。失礼しました」 居ずまいを正し、桔梗は軽く頭を下げる。 「苛めたりはしないから、もう少し気楽に……まぁいいか」 何か言いたげな顔の高彬はそう呟いてから、にこりと微笑みかけた。 「ここまで連れてきてしまったけれど、占いの道具はあるのかな」 言われて桔梗は今更ながらに気づく。調査に使う文字を書きこんだ符は、懐に入っている。そのうちの数枚は、ここへ向かう前に式神を作るために使用した。異変が起きたときにすぐにわかるよう、敷地内の至る所に配置したのだ。 しかし占いをするための道具は一切持っていない。 その旨を伝えて恐縮している桔梗をやんわりと宥め、高彬は傍に控えていた女房に命じる。 「玄翔様から桔梗殿への荷物の中に、六壬式盤があったと思うのだけれど」 「……はい。ありました」 しばし間をおいて桔梗は答えた。与えられた局に何が置かれてあったのかを思い出していたために少々時間がかかった。 六壬式盤とは陰陽師が占いをするときに使用する道具のひとつだ。大地を表す正方形の板の上に、天を表す円形の板が乗せられており、天地盤とも呼ばれている。天盤、地盤には星の名前や十二支などが記されている。 ほどなくして、規則正しい衣擦れの音が聞こえてきた。 両手で式盤を持った女房が恭しく入ってきた。桔梗の目の前に式盤をそっと置き、自身は退出する。 「今後の都について、でしたね」 依頼内容の確認と覚悟を決めるために質問をすると、 「うん」 短い返事がきた。彼の目線は式盤と桔梗の手元に据えられている。興味津々といった風情だ。 いくら気楽にと言われても、生半可な気持ちでは行えない。こうして誰かを前にして占いをするのは、修行以外では初めてだった。 桔梗は汗ばむ掌を軽く握り締めてから、そろそろと右手を動かした。 部屋の中は時が止まったかのように静かだ。天盤を動かしたときに生じる音のみが聞こえる。 やがて桔梗は式盤を見つめたまま口を開いた。 「……終わり、と始まり……?」 思いもよらなかった結果が出てしまい、瞬きすらも忘れる。 「なかなか興味深い結果だね。乱世にでもなるのかな?」 少々物騒な感想とは違い、高彬の声はどこか楽しげだった。しかし桔梗を見つめる眼差しは真剣そのものだ。 「あまり深く考えなくてもよろしいかと」 桔梗は式盤から目を離さずに考える仕草をした。 ここからは占者の力量が大きくかかわってくる。 占いをするだけなら誰にでもできる。出た結果が何を指しているのか、何を意味しているのか。占者の考え方ひとつで吉凶が変わってしまうこともあるのだ。 「昼間が終わって暗闇が支配する夜が訪れても、必ず日の照る朝が始まります。変わらない日常とも読めますが――わたしは何らかの禍が消えると思います。どちらにせよ、天と地がひっくり返るような相は出ていません」 言いながら桔梗は、額に汗が滲むのを感じていた。 嘘偽りは言っていない。直感で頭に浮かんだことをそのまま口にしている。けれども漠然とした占いになってしまい、気持ちは焦るばかりだった。 そっと高彬の様子をうかがうと、見慣れた穏やかな表情をしていた。拙い占いでも満足しているのか、それとも大人の対応で本心を隠しているのか、傍目からはわからないが。 「わたしは、月の満ち欠けが浮かんだよ」 高彬がにっこりと微笑んだ。 「月は隠れてもふたたび満月になる。新月のひとつ前を表す晦は終わりを意味するけれど、同時に新しい始まりも示唆している。……そういえば、今夜あたり晦だったかな」 よどみなく口をついて出てくる講釈に、桔梗は感嘆の声をあげた。 「よくご存知ですね」 頭の中で月齢を辿る。間違いなく今夜は晦だ。 貴族ともなればより良い風情を求めて月の形の移り変わりにも関心が高いのだろう。けれども、月を愛でる人間は数あれど、こうして即答できるひとは滅多にいない。 「夜空を眺めるのは嫌いではないからね」 高彬の顔は心なしか誇らしげだ。 「興味を持って、少しだけ書物を漁った。陰陽師のように星は読めないけれど、星の瞬きは綺麗だと思うし、月の満ち欠けは表情豊かな女性のようで趣がある」 「……そうですか」 返答に困った桔梗は少しだけ間をおいてそれだけ言った。 貴族とは皆、こういうものなのか? 相当の偏見だと桔梗自身も思うのだが、どうにもこうにも今まで出会った人々と気質が違いすぎて面食らってしまう。 「あぁ、長い時間引き止めてしまったね」 桔梗ははっと我に返った。 「よければまた相談に乗ってほしいのだけれど、構わないかな?」 迷ったものの、高彬の声に覇気が感じられない気がして、力強く頷く。 「わたしでお役に立てるのでしたら」 またの機会があるかは不明だ。役に立てるのかもわからない。この先どうなるのか見当もつかないのだが、彼の頼みを断ることはできなかった。 了承すると、みるみるうちに高彬の表情が崩れる。 「ありがとう。代わりにわたしが手伝えることがあるのなら、いつでも何なりと申しつけていいからね」 「では……さっそくですが、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」 高彬は何かというように首をかしげる仕草をした。 「飛香舎と弘徽殿の間……あの場所に咲いていた白い花はどうされたのかご存知ですか?」 「あぁ、あれか」 初め不思議そうな顔をしていた高彬は、納得がいったのか呟いた。軽く崩していた姿勢を正し、声をひそめる。 「……わたしの兄弟たちが流行病でお隠れになってしまっただろう? 心を痛めた今上帝が、せめて他の者が健やかに暮らせるように、と縁の寺から大切にしているという花を一株分けていただいたのだよ。紫陽花は魔除けになると聞いてね」 桔梗は眉をよせた。 世間に疎くても聞き及んでいる。内裏に広まった病で大勢の人間が床に臥せた。その中には高彬の兄弟だけでなく、今上帝の妻たちも含まれる。正妻の住まいの近くに魔除けの花を植えたのもわかる気がする。 「なるほどそうでしたか」 「いただいたのは、ずいぶん前のことだよ? ……まさかあれが今回の騒動の原因であると?」 「まだ断言はできません」 にこやかに否定するが確信はあった。ただそれを裏付ける物は今のところ見つけられていない。花の香りと形くらいだ。 「あの花は紫陽花でよかったんですね。わたしの知る紫陽花と違っていたので驚いてしまいました」 「葉の形が柏に似ていただろう。柏葉紫陽花という名前だそうだ。一般的な紫陽花は水を思わせる香りがして、柏葉紫陽花は甘い香りがする。そんな珍しさもあって植えたのだと思う」 桔梗は感嘆の息をもらした。 「世の中には様々なものがあるんですね。わたしの知らないものばかりだ」 「では、何か珍しい品が手に入ったら、きみの邸に届けようか」 突然の申し出に目を丸くする。 彼にそこまでしてもらう理由はない。 「えぇと、お気持ちだけで」 ぼそぼそと訴えるものの、あれこれと考えている高彬には聞こえなかったようだ。 |