月華抄-月隠- 10−1
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 さて……どうしようか。
 桔梗は目の前で咲く紫陽花を見つめ、考えた。
 しばし様子をうかがう。花自体にはおかしなところはない。けれども普通の花とは明らかに違う雰囲気を醸し出している。
 少し前ははっきりとした変化はなかった。しかし今はこの花の周りだけ白く光っている。妖が持ち合わせる空気と似ていた。おそらく只人は気がつかない。人間の目に触れぬよう気配を殺しつつ、されど気づいてほしい気持ちもあるのか、ほんの少し存在を主張しているようだ。そうでなければ術者に悟られるような行動は、極力しないはずだ。
 触れてみようか……?
 これが妖の類ではなく、少々不思議な性質の、ただの花なのかどうかもわからぬうちに、不用意に触れるのはいささか危険ではある。しかし、いつまでも見ているだけでは何も変わらない。
 桔梗は少し迷いながらも紫陽花に手を伸ばした。
 柔らかい感触が伝わってきた。先ほど降った雨露が桔梗の指を濡らした。
 ふいに、笑い声が聞こえてくる。子供の声だ。
 振り返ると、少し離れたところに女の子が立っていた。真っ白な衣を身に纏った子供だ。
 笑い声はもう聞こえない。子供は真顔でこちらを見つめている。人間ではない、のは、こうして対峙しているだけで理解した。
 ソレは瞬きもせず、
「おねえちゃんは変な術を使うひと?」
 抑揚のない声でそう言った。
「そう、だね。おそらく」
 我ながら曖昧な返答だと思う。
 しかし、排除しなければならないなら、自分は彼女にとって悪≠セ。
 妖は人間にとって害になるモノだが、不必要なものではない。
 この世は陰に分類されるもの、陽に分類されるものがある。ただそれだけのことなのだが、陽に分類されると思いこんでいる人間は、自分たちを脅かす陰を排除しようとする。
 実際には、人間ほど陰と陽の両方を持ち合わせ、複雑なものはいないと桔梗は思っている。
 そのように考察ながらも、己は何を思い上がっているのかと、桔梗は表情をわずかに歪めた。
 他人を偉そうに評価できるほど、経験も知識も足りないというのに。
「……あたしはここに閉じこめられたから反抗しただけよ。そんな風に見下される覚えはないわ」
 ふいに子供の声音が低くなった。目を吊り上げて、桔梗を睨みつけている。目の前にいる術者が自分を蔑んでいると思ったのかもしれない。
 そうではない、と桔梗が口を開こうとしたとき。辺りの空気がひんやりとした気がした。次いで、頬を見えない指が触れられたような感覚を覚える。風が吹いただけだとわかっていたにもかかわらず、桔梗は少々たじろいた。
「……ちょうどいいわ」
 にぃ、と子供が口端を上げる。
「ここの人たちは怖がるばかりでつまらない。だから、ね」
 幼子には似合わぬ顔と口調で、彼女は呟いた。
「遊びましょうよ」
 それは合図だったのか。途端に視界が歪んだ。
 何が起きたのか理解できないまま、桔梗はがくりと膝を落とした。目が回りまともに立っていられなくなった。胃を圧迫されたかのような不快感に、重々しい息を吐き出す。
「……遊ぶ……?」
 かろうじて聞き返した。桔梗の声は掠れていて、思うように出せない様子だ。
「そうよ」
 子供は桔梗の周りを飛び跳ねる。
 その姿を目で追おうにも吐き気をもよおしていて、満足に見ることもできない。後ろ、左、今度は右。真横に来たかと思うと、次の瞬間は遠くに気配を感じる。ぼやける目でも子供の姿はとらえられているのに、相手との距離を測ることができない。
「鬼ごっこしましょ。おねえちゃんがあたしを捕まえたら、おねえちゃんの勝ち」
「……捕まえられなかったら?」
 笑い声が正面から聞こえた。桔梗はゆるゆると顔を上げる。
 にっこりと笑う子供の顔は、満開の花のようだった。
「死ぬまでここから出られない」
 突然の強風に煽られて桔梗の装束がバタバタと音をたてた。飛んでくる木の葉や塵埃が顔にあたる。桔梗はたまらず両腕で自身の顔を庇った。
 耳元で轟々とうねる風の音は、誰かの呻き声のようだった。
 やがて風が止まった。
 そっと腕を外し、桔梗は息を飲んだ。
 膝を落としていたのは件の紫陽花の前――建物の外だった。なのに、地面に広がっていたはずの土はなく、代わりに視界に入ったのは木の板だ。
 勢いよく顔を上げて辺りを見回した。
 見覚えのある天井、御簾、几帳――自分はどうやって建物の中へと移動したのか。桔梗は瞬きすらも忘れるほど唖然とする。
 子供の姿はすでになかった。しかし笑い声がかすかに聞こえる。
 もう一度注意深く辺りを見回してから、桔梗は近くの柱に手を伸ばした。
 なめらかな木の感触は本物だ。けれども何かが違う。
 人の気配が一切感じられない。
 近くの御簾をかかげてみると、思った通り誰もいなかった。用心深く辺りをうかがってから部屋へと入る。
 そこに設置されている調度品には覚えがあった。
 桔梗はしばし部屋を観察し、重く息を吐き出した。
 ここは飛香舎だ。怪異が多く目撃され、なおかつ桔梗が与えられた局のすぐ隣。人の気配がない以外に変わった様子はない。
「……」
 考えるような仕草をして、桔梗は廂を覗いた。
 思った通り何もない。しばらくここに住むようになるからと、古い調度品を借りて自身の局にしていたのだが――玄翔の邸から運んだ物すらもなかった。
「どういうことだ……?」
 静かな空間に桔梗の呟きのみが響く。考えこんでいるのか、しばらく微動だにしなかった彼女は、そっと簀子へと出た。
 外は良い天気とは言い難い灰色の空が広がっている。雨は止んでいるが、先ほど子供と対峙する前と変わらぬ空模様だ。やはり外にも人の気配は感じられない。
 簀子の端へと進み、桔梗は注意深く右手を伸ばした。
「……」
 硬い感触が手のひらに伝わってくる。簀子より先に手を伸ばしたいのだが、見えない壁がそれを阻む。
 力を込めてみるが変化はない。
 次に桔梗は囁くような小さな声で何かを口ずさんだ。魔を祓う祝詞だ。そのまま右手を前に押し出すようにする。
「……駄目か」
 落胆した声をともに重く息を吐き出す。
 せめて外≠ニ連絡が取れればいいのだが、それも叶わないだろう。
 一度ぐるりと辺りを見回して、桔梗は歩き出した。
 飛香舎から北方面へと向かい、すぐに引き返すこととなった。この先はふたつの部屋があるが行き止まりだ。
 今度は南方面へと歩いていき、同じように祓いを試みる。そうやって、桔梗は渡殿を通って建物全体を回っていく。
 念のためと二、三回繰り返していたが、ゆるゆると手を下ろした。
「駄目か」
 同じ言葉を呟いて、桔梗は眉をよせる。少し迷った後、床に正座した。
 両手を広げて床に手のひら全体をぴったりとあて、じっとしている。よく見れば、彼女の口だけが小さく動いていた。時折、祝詞や真言の種類を変えて唱えている。
 こうして、地脈におかしなところがないのか確認をしているのだ。
「――っ」
 思ったほどの成果が得られなかったのだろう。何度目かの重々しい息を吐き出すと、桔梗は顔をあげた。
 顔をあげたら景色が変わっていればいいのに。
 桔梗の願いも虚しく、時が過ぎるばかりであった。
 どの部屋も、置かれている調度品の類に見覚えがあった。内裏へ参内し、挨拶がてらおかしな物がないか確認をさせてもらったため、よく覚えている。ただ、中身までは確認していないので、まったく同じとは言い切れない。
 立ち上がり、近くの部屋へと入る。そして、桔梗はためらいがちに厨子棚に手を伸ばした。両開きの扉をそっと開けてみると、中には何も入ってなかった。
 桔梗は不思議そうな顔をする。
 棚に置かれた香炉にも見覚えがあったのだ。
 頭の中で建物の構造を思い描き、通った順序をそれにあわせて、自分が今どこにいるのか把握する。
 宣耀殿せんようでんで間違いないはずだ。七殿五舎しちでんごしゃのひとつでここも女御の住まいだ。内裏の北側に位置する。
 すると、こちらは淑景舎しげいしゃで、こちらは麗景殿れいけいでんか。
 桔梗は西側、南側のそれぞれの部屋へと続く渡殿を見つめる。
 ふと、青年の顔が浮かんだ。麗景殿と二条に住まいを持っている、後宮の重要人物だ。彼とは先ほど話をして別れたばかりだ。
 この場に異変が生じているのはすでにわかりきっていた。しかし、もしかしたらということもある。まだ調べていない部屋を見て回った桔梗は、ほっと安堵の息をついた。自分以外の誰もいない。
 しかし――。
 誰ひとりもいない建物は、こんなにも寂しいものか。
『死ぬまでここから出られない』
 唐突に子供の言葉を思い出す。
 桔梗は背筋を震わせた。あれは、こういうことだったのかと実感する。
 術者は己に有利なように、しばしば結界を張る。元々いる場所に他からの干渉がないようにする、もしくは、対象を逃がさないようにするため。今回の場合は後者と考えるべきだろう。
 しかも、ここはどうやら知らない空間だ。自分以外が消えたと考えるよりも、自分だけがどこかへ飛ばされたと判断したほうが適切だ。
 厳しい目つきでその先を見据える。
 とにかく、この結界の術者である子供を見つけ出さなければならない。できるだけ早々に。そうでなければ――言葉通り死んでもここから抜け出せないだろう。
 この空間と元の空間が同じ時間を刻んでいるのかすらもわからない。あちらと繋がっているとすれば、まだ夕方にはなっていないはずなのだが。
 桔梗はそう思って外を見つめた。
 ここから確認できる木々も塀も、あちら側とそっくりだ。ただ、頭上に広がる青空が作り物のように感じられた。いたるところにある雲に動いている様子が見受けられないためなのかもしれない。風がなければ動きがないように思われる雲も、よく観察すれば少しずつ形を変えているものだ。
 再度、桔梗は右手を目に見えない壁に押しつけた。
 もしかしたら、という思いは捨てられなかった。しかし願いも虚しく。力をこめればあっという間に外へ出られそうなのに、びくともしない。
 だが、子供を見つけるか、結界の綻びを見つけることができれば、どうにかなりそうではある。
 幸いなことに妖の気配はうっすらとだが感じとれた。
 桔梗は神経を集中してその後を追おうとしていた足を止めた。それから見間違いと思い、瞬きを数回繰り返した。
 柱の影に、ちらりと白い衣が見えたのだ。
 離れたところからしばし様子をうかがうと、衣の端が見えては隠れ見えては隠れ――まるでこちらを誘っているかのようだ。
 誘いに乗るべきか無視するべきか。
 悩んだ末、桔梗は極力音を立てぬようにしながら近づいた。おそらく向こうは気づいているだろう。意味のない行動かもしれないが、いきなり突進するよりも良いだろうと判断したのだった。
 ぎぃ、と床が軋む音が鳴った。
 思いがけない大きな音に驚いて、桔梗は息をのむ。
 それを合図にしたのか、今まで見え隠れしていた白い衣が、ひゅっと柱の影に隠れた。
「――待てっ」
 反射的に走り出した桔梗の足元に何かが突き刺さる。慌てて後方へと退き、その勢いのまま床に膝をついた。
「こういうのは、かっとなったほうが負けなのよ」
 大人びた子供の声がした。けれども姿はない。
 立ち上がろうとした桔梗の行動を阻むように、緑色の物体が飛んでくる。さほど大きくはなく、厚みもない。遠目には緑色の紙切れに見えた。
 桔梗は頭部を守るように両腕を顔の前で合わせた。妖を視る目と、術を唱える口さえ無事ならば切り抜けられると判断したのだった。
 風切り音が耳を掠めていく。同時に軽い衝撃が桔梗の全身を覆った。
 皮膚が傷つけられる痛みに呻き声をあげる。ひとつひとつはたいした痛みではないが、全身を同時に襲われては堪らない。
 やがて音が止んだ。
 飛行物体と格闘している間に、妖の気配はまたどこかへ消えてしまった。遠くへ去ったのか、それともまだ近くに身を潜めているのか、現状ではわからない。飛行物体の持つ妖気が辺りに漂っていて、桔梗の判断が鈍る。
「……」
 桔梗は下を見つめて嘆いた。
「結構気に入ってたのに」
 視線の先には己が身に着けている袿がある。裾から袖の下あたりまで破けていて、見るのも無残な状態だ。
 左手の甲から血が滲み出ているのにも気づいて、じくじくとした痛みに顔をしかめた。さほど深くはないようだが、傷口が空気に触れてしみる。続いて、頬にも強い痛みを感じた。
「残念。避けちゃったのね」
 唐突に空から声が降ってきた。
 勢いよく天井を見上げる。
 子供の姿はなく、代わりに緑色のものが目に映る。
 天井の一角に、染みのような緑色の塊があった。よく見ると、ひとつひとつは子供の手を広げたような形と大きさだとわかる。それが重なり合ってひとつの固体のようになっている。
 緑色の塊が、わずかに浮き上がって見えた。
 天井に張り付いていたそれらは方向を変え、尖った先が桔梗を狙う。
 向きを変えたことで、平たい緑色のそれらが何なのか見当がつく。柏に似た紫陽花の葉だ。尖った葉の先端が光った気がして、桔梗はわずかに身を引いた。
 しかし、遅かった。
「――っ」
 全身を突く痛みに耐えながら祝詞を口ずさむ。掌に鋭い痛みを感じたが、桔梗は振り払わず逆に握りしめた。
 かろうじて一枚だけが手元に残る。桔梗の衣や身を傷つけて、他はたちまち消えてしまった。
 残った一枚を懐にしまい、再度の攻撃を警戒して神経を集中する。
 わずかな空気の流れも見逃さないようにじっとしていた桔梗は、妖の気配が完全に消えたことを確認して、ふぅと息をついた。膝をついてその場に座りこむ。
 いつまた妖が現れるかもしれないのだが、今は少しでも休みたかった。
 全身につけられた傷跡のせいなのか倦怠感が桔梗を襲う。それに、眠いような気もして、桔梗は瞬きを繰り返した。
 しばらくしてから自身の足元を見るように下を向く。鋭い刃物で何度も切りつけられたかのようなぼろぼろの衣が桔梗の目に映る。鏡で確認してみないとわからないが、頭の天辺から足の爪先まで傷だらけかもしれない。
 頬にかかる髪の毛に気づいた桔梗は、そっと頭部に手をやった。髪の一部を目の前に持ってくると渋い顔をする。
 髪が数本、ぱらりと床へ落ちた。見回すと、辺りには切れてしまった髪が散らばっていた。
 正確には地毛ではなく玄翔から借りた髢だ。背中へと手を伸ばすと、髢は邪魔にならないようにと括った状態でそこにあった。切れたのは顔周りの一部分のみのようだ。
「これはまずい……かな」
 思わず漏れた一言に、彼女の心情すべてが表れていた。
 首筋を流れ落ちた汗が不快で、桔梗は乱暴に拭った。
 見た目からたいした妖力はないと思いこんでいたのは読み誤りだった。『遊びましょう』なんて生易しいものではない。アレはこちらを弄り殺すつもりでいる。子供の獣は己よりも小さい生き物で遊びながら狩りを学ぶというが、それに似ている。獣は遊んでいるつもりでも、鋭い爪や牙で徐々に弱っていった獲物は、やがて死んでしまう。
 小さな獣だと侮っていたらこちらがやられてしまう。外見が子供でも、アレはまぎれもない妖のひとつだ。
 両頬を音がするほど強く叩く。
 全身にひりひりとした痛みがあるが構っていられない。
 己を鼓舞して桔梗は立ち上がった。



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