月華抄-月隠- 10−2
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 格子は開け放たれているというのに、中はとても薄暗く感じる。
 誰もいない内裏の各部屋を回っていくだけしかできず、桔梗は小さく息をついた。
 消えてしまった子供の気配――妖気をすぐに追うことができないまま、内心途方に暮れる。時折、術を行使してみたのだが良い結果は得られなかった。
 けほっ、と桔梗は軽い咳をした。
 室内が乾燥しているのか喉がかさかさとする。そういえば、内裏に参内してから白湯を少し口にしただけだったと思い出す。
 空腹感はないが、喉の違和感が辛い。桔梗はそれを誤魔化すかのように、咳を繰り返したり呼吸法を試してみたりしている。
「……結界の中でもそういうものなのか」
 無意識のうちに疑問を口にする。現実とは異なる空間でも、時が過ぎれば腹が減ったり眠くなったりするものなのだろうか。こうして動いていれば、当然といえば当然なのだが、不思議に思ってしまう。
 誰かが側にいるのなら、答えもしくは相手の考えを返してもらえるだろう。しかし、残念ながら今はひとりだ。
 少し前に覗いた厨には、清らかに見える水がなみなみと湛えられた大きなかめが備えられていた。
 せめて、口の中をすすぎたい気持ちがあるのだが、黄泉竈食いよもつへぐいという言葉もある。黄泉の国のものを食べると黄泉の国の住人になってしまい二度と現世には帰れなくなる、という謂れだ。
 ここが黄泉の国ではないにしろ、不用意に口にするべきではない。
 疑問はこの仕事が終わったら玄翔に訊ねることにして、桔梗は行くあてもなく内裏を彷徨っていた。あれっきり、子供の霊は姿を消してしまい、今もどこにいるのかもわからない。もしかしたら気配すらも殺して近くに隠れているのかもしれないし、己だけ結界の外に出ている可能性もある。
 ――そろそろ攻撃なりなんなり、変化がほしいものだ。
 桔梗は顔をしかめた。
『遊びましょう』と言うのなら、こうして放っておかないでほしい。そうすれば、この結界を破ることもできそうなのに。
 そんな考えを読み取ったのか、視界に黒い影がちらついた。数歩離れたところにある、下ろされた御簾の影だ。風もないのにゆらゆらと揺れている。
 このあたりは、ちょうど内裏の中央にあたる。
 内裏の中をもう何周したかも記憶に残っていない。結界に取り残されてから、どのくらいの時が刻まれたかも定かではない。
 もしかしたら、自分はすでに死んでいて、そのことに気づいていないだけではないか――そんな気もしてくるのだ。
 悪い方へと解釈してしまう思考を吹き飛ばすように、一度頭を横に振る。一瞬、軽い眩暈が襲ってくるが今は倒れられない。少々体調が悪いほうが、気が張りつめる分集中できそうだ。おかしな気分で塞ぎこむよりもはるかに良い。
 桔梗は揺れている御簾に視線をやった。覚えのある妖の気が漂っているので、アレはまだこちらと遊ぶ気でいるようだと考えた。
 手も触れず、そっと御簾の向こう側を探ってみるが、何かがいる様子はなかった。
 慎重に右手を伸ばし、御簾に触れたのとほぼ同時に掴み上げる。――中はがらんとしていて誰もいなかった。
 風が吹き抜けるように、溜まっていた妖気が抜けていっただけらしい。
 少しだけ落胆して、桔梗は御簾から手を離した。ぱさりと音をたてて下がった御簾は、その反動で揺れた。まるで何事もなかったかのように。先ほどと同じように。
 しばらく御簾を見つめていた桔梗は、ふたたび内裏を調査すべく動き出した。
 何でもよい。妖自身でも結界の綻びでも。
 一見、繋ぎ目の見当たらない綺麗な結界であっても、必ずどこかに始点と終点が存在する。そこさえ見つけられることができれば、この状況を打破できるかもしれない。
 桔梗は焦る気持ちを抑えながら、見落としがないかを確認していく。
 そうして、何周目かもわからないまま内裏を歩き回り、
「! なに」
 背中にざわざわとしたものを感じて肩を揺らす。
 下から上へと背中全体を撫でられたような気持ちの悪い感触だった。腕や首に立った鳥肌が不快感をさらに煽る。
 思わず口をへの字に歪め、眉間に皺をよせていた桔梗は、突然身を強張らせた。
 妖気の塊を感じた。ここからさほど遠くない場所のようだ。
 今の嫌な感覚はこれの前触れだったのかもしれない。
 桔梗はそう考えて神経を集中する。こちらを誘いこもうとしているのか、妖気を隠す様子はなかった。
 わかりやすい罠なのか、アレの言う遊びなのか。
 どちらにせよこれを見逃す理由はない。外へ出る、もしくは妖をどうにかできるまたとない機会だ。
 妖気は現れたところから移動していないようだった。今いる場所から南へ行ったあたりか。
 すると紫宸殿ししんでんのあたりだろうか、と桔梗は推測した。
 紫宸殿は南部にあり、追儺の儀式など主にまつりごとを行う内裏の中心となる部屋だ。
 いくら現実とは違う空間でも、そのような尊い場所で怪異をおこすとは大胆な、と嘆息する。もっとも、妖に人間の常識を当てはめるのもおかしな話ではあるが。
 桔梗は懐を探った。指先に紙の感触が伝わってくる。
「あと数枚……か」
 一枚を少しだけ引き出して、ぼそりと呟き顔をしかめる。真っ白なその紙には、真っ黒な墨で文字が書かれていた。
 用意していた符はあと僅かになってしまった。参内するときには十分すぎるほど持ちこんだのだが、懐にはその一部しか忍ばせなかった。もう少し持ってくれば良かったと後悔しても、今となっては後の祭りだ。
 符を作成するときは、朝一番に清水を汲んできて、それで墨を摩るのが好ましい。手間がかかるだけ効果がある。凄腕の術者ともなれば、祝詞だけでも十分に効果を発揮するが、経験の乏しい術者は符や霊力あらたかな勾玉などといった道具を用いて己の術を補助する。
 部屋に残していった分は、次の機会の事前準備とでも思っておくしかない。
 僅かに歪めていた表情を綺麗に消して、桔梗はそろりそろりと歩みを進める。一歩進んでは様子をうかがっているため、移動にひどく時間がかかっている。
 無表情を心がけたのは、こちらの手札が少ないことを悟られないためだ。加えて、慣れない空間で弱っていると気づかれても具合が悪い。
 ここの角を曲がると紫宸殿だ。
 先ほどよりも表情を硬くして、桔梗は足を止めた。
 柱の向こうに誰か――否、何かがいる気配がある。御簾が下がっているため、ここからではその姿を確認するのは無理だ。桔梗の出方をうかがっているのか、気配が動く様子はない。
 角を曲がった途端に、ぱっと消える、というのもありえる。
 相手が近所に住む子供や仔猫であれば微笑ましい遊びなのだが、残念なことにこちらを憎く思っている妖だ。
 桔梗は懐に手を差しこんで長方形の紙を一枚取り出した。
 何が起きてもおかしくはない。油断するな。
 戒めの言葉を心に刻みこんで、桔梗は紙を指に挟んだ。
 陰陽師の使う呪いの言葉が書かれた紙は、目標を捕らえるなり力を削ぐなり、結界の中でも効力を発揮するはずだ。
 そう思いつつも、嫌な予感がちらりとよぎった。
 結界を破ることは叶わなかったのだ。妖の本体に術を行使しても意味がないかもしれない。
「……」
 桔梗の動きが一瞬止まる。やがて顎をぐっとひいて、紙を挟む指に力をこめた。足の指にも力を入れて、その勢いのまま角を曲がる。
 いるのは子供の妖か、それが生み出した何かだろうと思っていた。
 そこに立っていたのは桔梗と同じくらいの背丈で、人の形をしていた。
 想像と違っていたことと、薄暗さでよく見えなかったためだろう。目の前に現れた人影にひどく驚いて、桔梗は反射的に後ずさった。少し離れたところから顔を確認して、ぽかんと口を開ける。
「影明……?」
 桔梗の心臓がどくんと脈打った。
 それは、ここにはいるはずのない少年だった。彼は落ち着いた色合いの束帯に冠という出で立ちだ。
 桔梗は訝しげに少年を見つめる。
 彼がこのような格好をしたことはない。まだ参内できるような立場ではないのだ。普段は玄翔の元へ行くときには暗めの、そして遊びに行くときは少し明るめの狩衣を好んで身に着けており、烏帽子を被っている。
 影明は黙ったまま桔梗を見つめている。
「どうしてここに? ……まさか、巻きこまれたのか?」
 何か自分に伝えることがあって。もしくは別の用件で。内裏へ近づいたときに妖の結界の中へ一緒に取りこまれてしまったのか。
 桔梗の問いかけにも彼は反応しなかった。眉も口も、指一本すらも動かさず、ただそこに立っているだけだ。
「かげ……あき……?」
 うまく口が回らず言葉が途切れ途切れになる。先ほどから感じていた喉の渇きのせいなのかもしれない。
 ふいに影明が柔らかく微笑んだ。その瞬間、桔梗の表情が硬くなる。
 見慣れた彼の笑顔。なのに、ひどく違和感を覚えた。
 違う、と桔梗は声に出さずに呟いた。
 本当は、先ほど出会ったときに気づいていた。それでも「もしかして」という思いがあった。ひとり異空間に取りこまれた心細さもあって、顔見知りに出会えたことへの安心感が疑問を綺麗に隠してしまった。
 一瞬の油断が命取りになる。特に何かと対峙しているときは。
 そのことはよくわかっていたはずなのに。
 桔梗は視線を外さないまま、じりじりと彼から距離を取ろうとした。
「――――」
 しかし相手の方が少しだけ早かった。影明≠ヘ口を開き、何かを口ずさんだように見えた。その瞬間、床が大きく揺れる。ばきばきと、続けざまに木が折れるような音が耳に入ってくる。
 均衡を保っていられなくなった桔梗は、飛び退くように移動して、それでも衝撃に耐えられずその場に膝をついた。
 桔梗はひそかに息を飲んだ。
 今しがた立っていたところの床はひどいありさまだった。鍬か斧で力一杯叩いたかのように壊れ、大きな穴が開いている。数歩後ろへ下がっていたことが幸いしたようだ。あのままでいたら、怪我では済まなかっただろう。
 背筋が凍るような思いをかみしめて、桔梗は目の前の少年を見やる。
 少年は不思議そうな顔――としか表現できない顔をしていた。口を薄く開き、目はこちらを見ているはずなのに、どこに焦点があっているのかわからない。
 歓喜も怒気も、彼から感情というものが一切感じられなかった。
 そんなことを考えていた桔梗の喉がひゅっと鳴った。視線は前に向けたまま、じりじりと後退する。
 影明≠ヘ指一本すら動かす気配はなかった。
 しかし直感というものは侮れない。術者でもそうでなくても、己が感じたものはおおよそ当たる。特に嫌な予感は。
 桔梗は素早く立ち上がり、後ろに大きく飛び退いた。
 目の前に白い光が現れたと思った途端に、それまでいた部分の床がへこむ。
「いっ」
 着地と同時に桔梗は呻いた。
 足の置き方が悪かったのか、軽く捻ったらしい。じんじんと響く足首を庇いつつ体勢を整える。
 うっかり倒れこまなかったのは幸いだった。
 続けて繰り出される術をようよう避けて、桔梗は壁に背中をつけて止まった。
 影明≠フ攻撃がぴたりとやんだ。離れたところにいる少年は、首を傾げるような仕草をしている。「なぜ術が当たらないのか」とでも思っているのかもしれない。
 再度の攻撃をしかけてくる気配がないことに気づいた桔梗の心に少しの余裕ができた。顔は影明≠ゥら逸らさずに、目だけを動かして周囲の様子を探る。
 辺りは見るも無残なありさまだった。
 御簾は掛けられているとかろうじて表現できる程度にしか形を残していない。上部の片側だけが御簾を掛ける金具と繋がっていて、鋭い爪で何度も切り裂いたかのようにぼろぼろだ。床は、大きな穴がいたるところにあいている。すぐ近くの穴の中は漆黒の闇が広がっていて下が見えない。石を落としても何の反応もかえってこなさそうな、底なしの穴だ。
 元々の薄暗さと相まって、いかにも妖が出そうな雰囲気が一帯に漂っている。
 いつの日だったか、自邸が夜盗に襲われたことを思い出して、桔梗は薄く笑った。いくつかの調度具が壊れ、式神である瑠璃が傷つけられた。腹立たしい出来事であったが、あの程度で済んだのは良かったのかもしれない。
 ふいに、空気の流れを感じとった桔梗は、はっと顔を強張らせた。
 少年が右手をこちらに向けている。大きく指を広げたそのさまは、猛禽類が獲物に爪を立てようとする姿を思わせた。
 咄嗟に口ずさんだ呪文が攻撃を阻む。
 金属を叩きあわせたような音が響いた。想像以上の大きな音と反動に、桔梗は思わず目を瞑った。
「――っ」
 空気を通して振動してくる術の衝撃が、手にびりびりとくる。次の攻撃に備えようと慌てて目を開けると、先ほど放った防御の術の一部が、勢いを落とすことなく少年へと襲いかかっていた。
 ひゅう、と新たな風切り音が鳴った。
 視線を向けると、少年が腕を振り払うように大きく動かしていた。右上から左下にかけて、袈裟がけに刀で斬ったように見えた。桔梗の術を己の術で相殺したらしい。
 少年は満足したのか、わずかに口角を上げた。けれども瞳には何の色も浮かんでいない。その笑顔を桔梗に向ける。
 反射的に左側へと飛び退く。桔梗の勘は外れず、つい今しがた立っていた場所に穴があいた。
 舞い上がる砂埃に耐えられず、桔梗はごほごほと咳きこんだ。涙の浮かぶ目で前方を見やると、少年がゆっくりとした歩調でこちらに近づいてきていた。
 笑みを湛えている表情にぞっとする。彼が何を考えているのかまったく読み取れない。
 桔梗はあれこれと考え巡らすのをやめて一点に集中する。そして、踵を返して走り出す。アレから距離を取るべきと判断したのだった。
 背後から大きな音がした。それにあわせてがたがたと揺れる床に足をとられ、立ち止まらざるを得なくなる。振り返ると、それ以上の攻撃はなく、代わりにもうもうと立ちこめる砂埃が桔梗の目や鼻を襲う。
 咳きこんでいると、濁った空間に人影が見えた。
 距離はだいぶ取れたらしく、今はまだ遠くにいる少年は、やはりゆっくりと近づいてくる。作ったとわかる笑顔を保ったまま。
 顔を強張らせた桔梗は空気を求めて軽く喘いだ。見えない手で首を絞められたかのように息苦しく感じた。
 短い呼吸を繰り返していたが、やがてのろのろと足を動かした。
 影明≠煦レ動してくる気配がする。しかし攻撃してくる様子はなかった。ただ、同じ速度で近づいてくるのは、後ろを見なくてもわかった。
「……にげなきゃ」
 呟いて、桔梗は柱に手をついた。疲労のせいか、何かを支えにしなければ倒れそうだった。
 こちらが鬼の『鬼ごっこ』かと思っていたら、追われる側だったとは。
 考えながらも桔梗は歩みを止めない。
 幸いなことなのか妖の戦略なのか、アレとは一定の距離が保たれている。それは一時的なものなのかもしれないが、現状では見当もつかない。
 呼吸の感覚がさらに短くなっていくのを感じた桔梗は焦った。
 どうして自分は逃げ回ってるのか。
 アレをどうにかすれば解決の糸口が見つかるのではないか。
 ――アレは何なのか。
 早くどうにかしなければまずいと頭で理解しているのに心が拒否してしまう。別の存在とわかっているのに、なかなか行動に移せないのは、外見が彼と瓜ふたつなせいだ。
 桔梗は決断できないでいる己を責めるように拳を握った。手のひらに食いこんだ爪がちくりとする。
 そのとき。
 肌が粟立つのを感じて桔梗は足を止めた。弾かれるように振り向いて、懐から取り出した符を相手へと投げつける。その勢いのまま身体を傾けたが少し遅く、頬から血が流れた。
 ほぼ同時に、さくり、と。
 軽い音がしたかと思うと、床に何かが落ちた。それは瞬く間に土塊へと変化して、ほどなく風に攫われたかのように消え去った。
 不思議そうな顔でそれを見ていたのは影明≠セった。左肩から下が袖ごとなくなった状態で、その場に佇んでいる。痛みは存在しないらしく眉を歪ませることもない。
「ききょう」
 小さな声だった。ここが結界の中でなかったら、生活音にかき消されてしまうほどの、かすかな声。
 桔梗が息を飲む。少年を視界に入れたくなくて目を硬く瞑る。それでも脳裏に焼きついた彼の姿は消えることがなかった。
「……その名を呼ぶな……」
 呻くような低い声が桔梗から洩れた。
「彼と同じ顔で同じ声で……」
 ――彼のふりをするな。
 薄く開けられた桔梗の瞳はどこか虚ろだ。その色素の薄い瞳が赤みを帯びたことに本人も気づいていない。
 ふわり、と桔梗の衣が浮き上がった。
 彼女の周りを風が巡っている。床から天井へ向けて、渦巻いているそれは、桔梗を中心とした竜巻を思わせる。辺りの調度品が風に煽られてがたがたと音をたてた。
 桔梗の唇が言葉を紡ぐ。
 そっと吐き出された言葉はすぐさま形を成した。鎌のように湾曲した白刃は、桔梗の身体をゆるりと一周したのち、速度をあげながら影明≠ヨと襲いかかった。
 一撃目は右腕を落とした。勢いを落とさないままの二撃目は、回転をしながら両膝を後方から切りつけた。
 立っていられなくなった影明≠ヘ床に膝をついた。よく見れば、彼の膝から下はすでに土に変わっており、半分以上は跡形もなく消えている。
 三撃目は膝を貫通後に弧を描きながら影明≠フところへと戻っていった。彼の腹を切り裂き、役目を終えた白刃は霧散した。
「わたし、は……なにを……?」
 はっと我に返り、桔梗は前方を見やる。
 影明≠ェ何かを言おうと口を開いた気がした。
 しかし言葉を発することもなく、彼の肌は見る見るうちに乾燥しひび割れていき――やがて土塊と化した。
 もう、人の形すらもしていない。ただの土の山となった。



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