月華抄-月隠- 12
 目次 (二章 一話)



 敷地内を覆っている結界が、何者かの訪問を知らせる音をたてた。
 桔梗は寝殿の簀子に畳を敷いて星空を眺めていたが、来訪者に気づいて視線を東門へと移した。
 誰が来たのかはすでに気配でわかっている。
 少しして、その者が姿を現した。
「よう。具合はどうだ?」
「暇すぎて倒れそうかな」
 そんなことを言う桔梗に影明は笑顔を見せた。
「じゃあ出かけないか?」
「今から?」
 桔梗が驚きの声をあげる。
「そ。牛車で来てるから、瑠璃の了承も得てるぞ。……とゆーか、瑠璃から頼まれたんだけど」
「……どうして」
「どうして、って」
 何と言えばいいか迷っているのか、影明は口を噤んだ。桔梗の横に座り、黙ったまま空を見上げている。
 桔梗もそれ以上は聞けず、同じように星空を眺めた。
 群青色の空に星々が輝いている。
 嫌な星の相も見当たらない。
 素直に美しい夜景を楽しめばいいのに、そちらの考えになってしまうのは、陰陽道に関わっている者の性なのだろう、と桔梗は思う。
「行くか」
「……えっ?」
 唐突に声をかけられた桔梗は不思議そうな顔をする。
 すると、影明の眉がほんの少しつり上がった。
「出かけないか? って言ったろ。……あー気が乗らないなら無理強いはしないけど、気分転換にさ」
 語尾に近づくにつれ声が小さくなっていく。同時に彼の眉尻が下がった。
「すまない。呆けていた」
 桔梗が詫びの言葉を述べると、影明は小さく笑う。
「邸にいるのも飽きていたところだから大歓迎だよ。……ところでどこへ行こうとしているんだ?」
「秘密」
 そう言って悪戯を思いついた子供のように笑う影明に再度訊ねても、彼は教えるつもりはないようだ。
 影明の乗ってきた牛車にふたりで乗りこみ、やがて着いたのは都の外れにある川辺だった。
 桔梗は御簾の隙間から外を覗き見た。
「ここは……」
 見覚えがあった。
 影明に促されて外へと出る。
 玄翔の邸で世話になっていた頃――弟子になって間もない頃だったろうか。夜が更けてから影明とふたりでこっそり邸を抜け出した。覚えたばかりの術で小さな明かりを灯し、暗い夜道を進んだ。
 そうしてここへ辿り着いた。あのときも今と同じくらいの季節だったはずだ。
「一度だけ来たの覚えてるか?」
「もちろん」
 修行中の身なれば娯楽に現を抜かす間などない。閉じこめられていたわけではないから、外出も可能だったが、それでも頻繁にはできなかった。するときには許可を得なければならなかった。
 妖が蔓延る夜の外出は当然許されない。危険であるし、そこまでの自由は与えられない。
 しかしある晩のことだ。影明が「外へ遊びに行こう!」と誘ってきた。
 桔梗は、最初は是とも否とも答えられなかった。結局は好奇心が勝り、ふたりで邸を抜け出すことになった。
「おもいっきし怒られたけどな」
 影明が乾いた笑い声をあげた。
 探しに来た忍に見つかり大目玉を食らった後、邸に戻ってから据えられたお灸は思い出したくはない。
「でも、楽しかったよ」
 目の前に広がる光景を見て、桔梗は懐かしさを覚えて目を細める。
 今も昔もここは変わらない。とても嬉しいことだった。
 穏やかに流れる小川には無数の光の粒が瞬いていた。夜空の星々が映りこんでいる。
 それとは別に、不規則な動きをする淡い光がある。ゆらゆら、ふわふわとした軌道を描きながら、辺りを漂っているのは、蛍だ。
 月はまだ細いため周囲は暗い。そのためか仄かな光でもはっきりと見える。
 蛍が一匹、目の前を横切った。
 誘われたかのようにふらりと歩き出す桔梗の足取りは少々おぼつかない。体調が完璧に回復していないためと、足場が悪いためだろう。それでも転ぶことはなく、桔梗は蛍が飛び交う間を進んでいく。
「足元気をつけろよ」
 背後から聞こえた声に生返事をして、桔梗は川の近くまで歩いて行った。片手を伸ばすと、蛍が指の先に止まる。驚かさないようにもう片方の手で覆うと、蛍は掌へと移動した。今度は両手で丸く包みこむようにすると、まるでぼんぼりだ。
 かさり、と草を踏む音がした。
 振り返ると影明がこちらへとやってきた。そのとき、蛍は桔梗の指の隙間から抜け出してしまった。
 飛んでいく蛍を名残惜しそうに見送り、桔梗は影明と向きあう。
「少しは気分転換になったか?」
「うん」
 もっと気の利いた礼を述べたい気持ちはあるものの、久しぶりの光景に桔梗の心は蛍に向いてしまう。
 暗闇の中を舞っている蛍を目で追っていると、影明が呼んでいるのに気づいた。けれども近くに姿はなかった。蛍に夢中になっている間に彼は別のところへ移動したらしい。
 辺りを見回すと、影明は意外と近くにいた。ちょいちょい、と手招きの仕草をしている。
 桔梗は時折足元を見ながら彼の元へと歩いて行った。もう暗闇にも目は慣れたが、整っていない道は少々歩きづらい。
 桔梗がそこへ辿り着く頃を見計らい、影明は草の上に座った。桔梗も彼に倣って横に座る。両膝を抱えるようにして縮こまると、幼い頃に戻ったようだ。
 都の外れにあるためか、この辺りには他に誰もいないようだ。いるとすれば、夜遊びの貴族を狙った盗賊くらいだろうか。草の影に隠れて息をひそめ、こちらの様子をうかがっているかもしれない。
 だが心配はないだろう。
 半人前とはいえ術者がふたりだ。どうにでもなる。
 聞こえてくる川のせせらぎが心地よくて桔梗は目を閉じた。こうすると小さな音が間近に感じる。耳を澄ませると虫の音もかすかだが聞こえた。
「なにかあったのか?」
 影明が呟いた。
 目を開けて、
「……あったといえば、あったんだけれど……」
 歯切れ悪く答えたものの、桔梗はそれ以上言えなかった。
 しんと静まり返った空間に光が舞う。
 蛍の淡い光は柔らかく、見る者の心を和ませる効果がある。しかし桔梗の心は晴れない。膝に顔を埋めるようにして黙りこむ。
「話したくないならいいけどさ。悩みがあるなら聞いてやる。瑠璃が連絡よこしたのだって、桔梗が沈んでるようだからってさ。……俺じゃ頼りにならないかもしれないけど」
「そんなことはない」
 勢いよく顔をあげて桔梗は主張する。
「今も昔も、影明に救われているんだから」
「……」
 言葉を詰まらせた影明の頬は、ほんのりと赤く染まっている。
「救われる、はちょっと大袈裟じゃないか?」
 しばしの間の後、呆れの色を滲ませた目で影明が言った。桔梗はそれを否定するかのように首を横に振った。
「本当だよ」
 今にも消えそうなほどの声で想いを吐露し、再度黙りこむ。
 蛍が舞っている。
 あのときも、塞ぎこんでいた自分を連れ出してくれたのは彼だ。
 横目で隣に座る少年の様子をうかがうと、影明は真っ直ぐ前を向いていた。桔梗は知らず硬くなっていた表情を緩めた。
 気になるからこそ、どうしたのかと訊ねてきたのだろう。なのに、無理に聞き出そうとはしない。話す気になるまで待っていてくれる。その気遣いがありがたかった。
 両膝を抱えていた手に力をこめて、桔梗は意を決した。
 話すことで彼は気分を害してしまうかもしれない。そんな不安が心をよぎる。
 けれども、内面で燻っている感情を隠したままにするのは、公正さに欠ける気がしてならないのだ。
「実は、内裏で……」
 言葉を途切れさせながら桔梗は話しはじめた。
 内裏での出来事は玄翔にすべて報告済みなのだが、影明には文でごくあらまししか知らせていなかった。臥せっていたせいもある。実際は彼と顔が合わせられなかったからだ。
 膝の上に顎を乗せるようにして、視線は下へ向ける。ところどころ草の禿げた地面が、乱れている己の心と重なってしまい、桔梗は沈痛な面持ちとなった。
 内裏と大路の幽霊のこと、結界に閉じこめられてひとりぼっちになり、不安に駆られたこと。影明に瓜ふたつな何かに襲われ、それを撃退したこと――。
 目を見て話す自信がなかった桔梗は俯いたままだ。だから影明が今どんな顔をしているのかわからない。
 居心地の悪い間に耐えられず、桔梗はきつく目を閉じる。
「まさかそんなことで悩んでたのか?」
 さらりとこともなげに告げられたせいもあって、桔梗の思考が一瞬止まった。ゆるゆると顔をあげて横に座る少年を見やる。
 ――すると。
「……なんだその、幽霊を見た子供のような目は失礼な」
「すまない」
 桔梗は反射的に謝罪した。水鏡を覗かなくても、自身の顔や目がおかしなことになっているのはわかったのだ。
 批判めいた視線を向けてくるものの、影明は怒っていないようだ。
「そんなこと、なんて簡単に言わないでほしい」
「当人は深く苦しんでいたとしても、ひとつひとつは大したことないだろ」
 真意が読み取れず桔梗の頭には疑問符が浮かぶばかりだ。
「幽霊の件は、離れ離れになってた親子が会えたんだから、これを悩むのは考えられない」
 影明は指折り数えながらその答えを述べていく。
「知らない場所でひとりぼっちになって、心細く思うのは、大抵の人間がそうなるし、別に恥じることじゃない。だからこれも違うと俺は思った」
 ふたつ目の指が折られた。
「だとしたら、俺の偽物ってのしか考えられない」
 桔梗の肩がぴくりと動く。
 それをちらりと見たものの、影明はあえて気づかないふりをする。
「妖を退治しただけなんだから、何をくよくよしてるのか俺にはわからないけど、そんなの気にすることないって言っても、桔梗は納得できないんだろ?」
「……」
 唇が切れてしまうのではないかと思うほど、きつく噛みしめる。
「はっきりと自覚して退治したなら……ここまで悩まなかったと思う」
 自身を分析してそう言った桔梗の声は冷静だ。
「あのとき何をしたのかよく覚えていないんだ」
 姿を声を。写しとったあの存在が許せなくて。
 感情が昂ったところまでは記憶にある。けれどもどうやって――符を使用したのか、それとも術を口ずさんだのか。行動が思い出せない。すっぽりと頭から抜け落ちている。
「そのうち、自分が人ではなくなるんじゃないかって」
 人の心すらなくして、いつかこの髪のように鬼に変化してしまうかもしれない。
 声を絞り出すようにして思いの丈を打ち明ける桔梗を見やり、影明はそっと彼女に手を伸ばした。背中に流れる色素の薄い髪を指に絡めた。さらりとした質感に目元を和ませる。
「お前だけじゃないって言ってるだろ」
 桔梗は目を見開いた。
「大半の人間が扱えない陰陽の力なんて持ってりゃさ、それが妖を視るだけの能力でも白い目で見られるんだ。表向きは人助けの素晴らしい力だなんて賛辞を送っても、本心は違う。……俺だってそうだ。今は大したことないけど、師匠に預けられたのだって、親が手に余って……疎まれたんだよ」
「そんなこと」
 ない、と続けようとして桔梗は口を噤む。それ以上の言葉が出ない。
「桔梗が知らないところで俺けっこー暴れてるぞ。むかっ腹が立ってどうしようもないときあるし」
「まさか」
 桔梗は驚いた表情をしたが、すぐに口を歪めた。というのは、影明から苦悩が感じられなかったためだ。暗い話のはずなのに、楽観的な空気を纏っているように思えたのだ。
「あっ本当だぞ。すべてが上手くいくわけないし、みんな何かしら抱えてるんだよ。……って、俺が言っても説得力がないけどさ」
 微かなせせらぎの音がふたりを包みこむ。
「悩んだら、また来ようぜ。……蛍の季節が終わったら、川の流れる音を聞くだけでもいいし。でなけりゃ、牛車で都中を走り回って、百鬼夜行の真似でもするか?」
 片目を瞑り、影明は悪戯っぽく微笑んだ。
「なにを」
 桔梗はしばしぽかんとする。
 仮にも陰陽師の端くれが、冗談とはいえとんでもないことを言い出した。
「約束な」
 当の影明は向けられた非難の目もなんのそのだ。
 目先に立てられた影明の小指と彼の顔を交互に見やり、桔梗はしばし困惑した表情を浮かべた。
 やがておずおずと己の小指を差し出して、影明のそれに絡める。
「うん……約束」
 桔梗はその日はじめての笑顔を見せた。

- 月隠 終 -


『月華抄』第一章 月隠 これにて完結です。
このシリーズは二部構成となります。

読んでいただきましてありがとうございました。
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2014.01.02 葉月 




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