月華抄-月巫女- 1
(一章 最終話) 目次 



 ごとごとと、牛車の揺れる心地よさに、桔梗は眠りに落ちそうになっていた。
 小さく笑う声が聞こえてきたので重い瞼を必死になってあけると、こちらを眺めてにやりと笑う少年と目があった。
「眠いなら寝とけ。着いたら起こすからさ」
「う……ん」
 何度か瞬きを繰り返して目をあけようとするものの睡魔に負けてしまう。桔梗は諦めて座りなおすと目を閉じた。
 影明の笑いを含んだ吐息を遠くに感じたが嫌な気分はなかった。それに、眠気が勝って言い返す気も起きなかった。
 牛車のほどよい振動は、こうも緊張がほぐれるものなのか。
 まどろみの空間に身を任せながらそんなことを考える。
 普段は歩きがほとんどで、あまり牛車に乗らないせいもあるのかもしれない。他には……一緒にいる相手にもよるのだろう。これが陰陽道の師である玄翔や兄弟子であったら、こんな風に気を抜いて居眠りをするなど以てのほかだ。
「……」
 やがて牛車の音が遠くで聞こえるようになってきた。桔梗は己の限界を感じて眠ることに専念する。
 気分転換になった蛍のお礼と、彼を放っておくことになる今の非礼は、あとでまとめて感謝しよう。
 今度こそ意識を手放そうと思った矢先、眠りを妨げられた。桔梗はばっと目をあけて少年を見やる。
 先に気づいたのは影明だったようだ。彼は牛車の前方を――前簾で閉ざされた先を睨み据えている。外の様子は当然見えないのだが、何かを探ろうとしている。
 ことん、と小さな音をたてて牛車が止まった。足音がこちらに近づいてきて「影明様」と少年の囁く声がした。
「何があった?」
 影明は物見をあけて訊ねた。
 声の主は、ふたりよりもずっと年若い牛飼童だった。くりくりとした丸い瞳が不安げに揺れている。
「この先で揉めているようです。回り道をしますか?」
 目的地へ早く辿り着くにはこのまま真っ直ぐ行った方がいい。
 前簾を少しだけずらして、影明は外の様子をうかがった。
 先の十字路で男ふたりと女ひとりが言い争いをしているようだ。さほど大きな声ではないが、他に通行人もいない深夜だということもあり、ここまで声が聞こえてきた。どうやら、一方的に男たちが難癖つけているらしい。
「お前はここにいろ」
 牛飼童に言い捨てて、影明は外へと出た。
「しかし影明様、危険です」
 伝わってくる男たちの怒気に身を縮こまらせながらも、牛飼童は必死に己の主を止める。
「平気だ」
 影明は牛車を振り返り、
「桔梗、動けるか?」
「もちろん」
 相棒のはっきりした返事を得て、にやりと笑った。


 先導する影明の背を追いかけて桔梗は走る。
 あれほど眠たかったのに今は頭が冴え冴えとしている。ある種の職業病なのかもしれない。
 近づくにつれ、宙に浮かぶ光が大きくなっていく。男たちの持っている松明の炎だ。煌々と辺りを照らすそれは、彼らの姿を暗闇にはっきりと映し出している。がっしりとした体躯と手に握る大ぶりの刀。身に着けている衣類は闇夜に紛れる黒。見るからに夜盗だ。
「はいはい。ちょーっとごめんなさいよー」
 張りつめた空気をも物ともせず、影明は間の抜けたような声をあげた。
「な、なんだお前らは」
 突然の乱入者にぎょっとしたのだろう。幾分かうろたえた男は、それが妖ではなく人間で、自分よりも若造だとわかると声を荒げた。
「餓鬼ども。怪我をしたくなければさっさと去ね」
「それはちょーっとできない相談かなっ」
 わざとらしく、影明が楽観的な口調で言った。
 男たちは一瞬怯むような表情を見せたあと、馬鹿にされていると感じたのだろうか。たちまち太い眉毛を逆立てて、全身に怒気を漲らせた。
「餓鬼に手をあげる気は……なかったんだがなぁ」
 ゆっくりと告げる言葉に、おっさん嘘だろう、と。影明は誰にも聞こえないくらい小さく毒づいた。呟きは聞こえなかったが、呆れたような雰囲気が横から伝わってくるので、桔梗も内心同意する。
 男の下卑た笑みがそれを物語っていた。
 たしかに彼なりに守っている信条があるのかもしれない。が、はいそうですかと素直に立ち去るわけにはいかない。
「こっちは黙って去ってくれれば、それで良かったんだけどなー」
 辺りに漂う不穏な空気などなんのそので、影明の軽い態度は相変わらず。
 桔梗は口を噤んだまま成り行きを見守っていた。先に騒動に気づいたのは彼で、どうするか決めたのも彼だ。すべて任せて、下手に水を差すのはやめようと判断したのだった。
「あんたは手助けが必要か?」
 気色ばんでいる男たちを無視し、影明は側にいる女に視線を向ける。
 女は騒動に乗じて逃げることも可能だったはずなのに、そこに立ち尽くしたままだった。よくよく見れば、細腕を男に掴まれていた。これでは逃げるのは難しい。
 市女笠を被った女の顔は見えない。怯えた様子も見せないので、この女が桔梗たちの干渉を望んでいない可能性もある。
「……えぇ。どうしようかと迷っていたところです」
 返ってきた声音はひどく静かだった。とても困っているようには思えないほどに。
「んじゃ、介入しまーす」
 やはり軽々しい口調にため息を抑えつつ、桔梗は神経を集中させた。少し前から、伝わってくる波動を感じていた。やる気満々の影明に主だった行動のすべてを任せて、自分は援護に回る。
「――縛り縄 不動の心 あらん限りは」
 がらりと空気が変わった。冷やかさを纏った影明の声が、さほど大きくもないというのに辺りに響く。
「ぐぅ?!」
 次いで、唸る声。夜盗は恰幅のよい肉体を縮こませるように身を捩った。その拍子に持っていた松明が地面に落ち、足元を照らす。
「なんだこれは?!」
 二の腕周辺にきつい締めつけを感じとった男たちが、己と餓鬼ども≠交互に見やる。眼は大きく見開かれ、何が起きているのかまったく理解できないようだ。
「何をした!」
「さて。何だと思う?」
 質問に質問で返した影明は笑みを浮かべた。さながら悪戯が成功した子供のような目をしている。
 彼が紡いだのは、対象者の動きを封じる術だ。実際の縄が現れるわけではないので、常人には見えない。
 男たちは不可視の縄を解こうとして身体をやたらに動かしているがびくともしない。
「えぇい! この、訳のわからぬもんを解け!」
 ずい、と男が影明に近づく。捕縛しているのは両腕ごととはいえ上半身のみなので動くことは可能だ。顔を寄せて食って掛かる。感情を一切抑えていない男の声は大きくなる一方だ。
 桔梗は顔をしかめた。
 この辺りは賊や妖の目撃も多いのだが、いくらよくある光景≠ナも迷惑極まりない。
 賊たちの視線は影明ただ一人に注がれている。
 どうやら標的から自分は外れたようだ。
 彼らにはわからぬよう印を結び、桔梗はそっと口ずさむ。
「――!」
 大袈裟ではと思うほど、男たちの身体が跳ね上がり、次の瞬間には硬直する。ぱくぱくと口を動かしてはいるが音は聞こえない。――声を発することができない、と表現したほうが正しいのかもしれない。懸命に言葉を発せようとしているが、一向に声は出ずじまいだ。
 しかし「おい」や「小僧」などといった罵倒をひたすら繰り返しているのだろうという雰囲気は伝わってくる。それを綺麗に無視して、影明は桔梗に視線を向けた。
「念のため妖除けの術もかけとくか?」
「……まさか朝まで放置するのか?」
 呆気にとられた桔梗は影明を凝視する。
 検非違使を連れてくるなり、しょっ引いて行くなりの選択肢は彼にはないようだ。
「明るくなれば誰かが検非違使呼んでくれるだろ」
 それに――と続けた影明の瞳には意地の悪い光が浮かんでいる。
「他の賊への見せしめにもなるかなー? なんてね」
「良い性格してるね」
「お師匠に似たんじゃないか?」
「……」
 悪びれる様子もない影明に、桔梗は何か言おうとするが思いつかなかった。気持ちはわかるが、それで終わらせてもいいのか。
「あの……」
 躊躇いがちな女の声が耳に届いた。
 はっと我に返った桔梗は、慌てて女に声をかける。
「お怪我は?」
「平気です。助けていただきありがとうございます」
 女が頭を下げた。
「暗いな」
 影明は足元に落ちている松明を手に取り掲げた。少しだけ女に近づけると、市女笠の薄布ごしに女の顔がぼんやりと浮かんだ。
「どちらまで? よろしければお送りしますが」
「いえ――旅をしているもので、行くあてはありません」
 女は小さく首を横に振った。
「つい先ほど、ここへ辿り着いたところです」
「先ほど、ですか? こんな夜中に」
 訝しげに影明が問う。
 女が身に着けている市女笠は、主に上流の女が外出時に使用する。もちろん身分の低い女が使うこともある。貴族の女が従者もつけずにひとりで出歩くとは考えられない。ましてや草木も眠るなんとやら、の頃だ。
 しかし彼女からそういった雰囲気が、どちらも感じられなかった。「実は私、人ならざるモノの化身なんです」と言われたら無条件に信じてしまいそうな――そんな不思議な気配を纏っているのだ。
 どう質問したらよいかと桔梗が悩んでいると、
「失礼ですが……あなたは人ですか?」
 言葉も選ばず直接的な物言いで影明が訊ねた。
「影明……」
 咎めるように呟いて、桔梗は顔をしかめる。
 内裏で気を失う前にかけられた言葉が思い起こされた。あれに対して不満はまったくない。身に着けていた衣はどれもぼろぼろで、当然の問いかけだったと今でも思う。
 しかし、ここで投げかける質問としては、非常に失礼であろう。
「不躾だろうそれは」
「いえ」
 女の笑い声がした。楽を奏でたような、耳あたりの良い声だ。
「こんなに夜が更けての女のひとり歩きは、気が触れているか妖かのどちらかでしょうから」
 綺麗な声で、あっけらかんとした女の態度に、ふたりとも何も言えなくなる。陰陽道の師匠が、時折冗談なのか本気なのか判断がつかないことを言うときがあるが、そのときの気持ちと似ていた。
「行くあてがないので、どこか雨風がしのげる場所はないかと探していたときに彼らに捕まってしまって」
 そう言って女は身動きの取れない賊をちらりと見た。ぱくぱくと陸にあがった魚のように口を動かしている。しっかりと術がかかっているので、影明の希望通り朝までこのままだろう。
「立ち話もなんですから、よろしければわたしの邸へ来ませんか? 部屋は空いていますし」
 本殿を使用しているのは自分と式神二体のみだ。整っていない部屋もあるが、客人のひとりふたりは迎えられる。
「おい桔梗」
 今度は影明が顔をしかめる番だった。
 ちょいちょいと指で桔梗を呼びつけて、影明は小声で彼女を咎める。
「こう言っちゃなんだが、素性の怪しい奴を邸に呼ぶなんて、どういう考えだ?」
「ただの人助けだよ」
 桔梗の答えは気に入らなかったようだ。影明は眉間に深い皺をよせた。
「人助け、は俺も賛成だがな」
 なおも渋る影明に笑みを投げかけて、桔梗も小さく訊ねた。
「影明の目にはどう視えて≠「るんだ?」
「あん?」
 なかば自棄に返事をした影明は、質問の意味に気づきわずかに怒りを治めた。ちらりと問題の女を見やり、ため息まじりに口を開く。
「妖には視えない。不思議な気配はあるけど、善人の女にしか思えない」
「わたしもそう思う」
 桔梗は頷いた。
 妖を視る目は師匠である玄翔のお墨付きだ。その彼が判断を間違えるとは到底考えられない。
「けどなぁ」
 納得がいかないのだろう。少しだけ声を荒げて影明は反論する。しかし、件の女が近くにいることを思い出して慌てて口を噤む。
 それでも意見を変える気はないらしく、影明の目は桔梗を責めたてている。
 桔梗は笑って、
「あれから、さらに邸の結界を強化したから。ちょっとやそっとのことでは脅かされる心配はないよ」
 と告げた。途端に影明はなんとも言い難い表情になる。
 あれ≠ェいつのことか、思い至ったのだろう。
 悪気はなかったものの邸に黙って入りこみ、彼女の式神にこてんぱんにやられたことを。
「あれから、な」
 思わせぶりな物言いをして影明は口を閉ざした。
「迎え入れたら豹変ってこともあるんだからな」
 それから道をあけるように一歩横へとずれた。一応は納得したらしい。
「……心配してくれてありがとう」
 桔梗が微笑んでそう言うと、影明の頬がわずかに赤く染まる。
「あの……。ご迷惑をかけるつもりはありませんので、どこか長く使用していない空き家か橋を教えていただければ充分ですので」
「いえそれは」
 女の遠慮がちな声に、慌てて言葉を遮る。
 物腰から、どこかの姫君がお忍びで出かけているのかもしれない――と、ちらりと思っていたのだが、やはりそれは考え過ぎのようだ。身分の高い女が徒歩で、しかも供のひとりもいないのは、どう考えてもありえない。世間を知らないだけということもありそうではあるが。
 どちらにせよ、空き家か橋の下などの危険な場所を望むなど、ずいぶんと大胆な発言をするものだと、桔梗は内心呆れかえる。
 そのような人気のない場所は犯罪の格好の餌食だ。警戒しなければならないのは人間だけではない。妖も好むところだ。
 何が起きても危険を退ける自身があるのかもしれないが、事情を知ってしまっては、ここで別れるのは気が引ける。
「迷惑ではありませんので、わたしの邸へおいでください。わたしはこの都から出たことがありませんので、よろしければ旅の話など聞かせてください」
 重ねて勧めると、女はようやく桔梗の申し出を受けることにしたようだった。
「ではお言葉に甘えて」
 あ……と、女が声を洩らした。
「顔を隠したままでは恩人に失礼ですね」
 そう言って、被っている市女笠に手をかけた。
 驚いたのは桔梗と影明だ。
 身分は関係ないにせよ、笠を被っていたということは、顔を見られたくない理由があったのだろう。なのに、こうも簡単に顔をさらしてもいいのだろうか。
 ふたりが止める間もなく、笠は女の頭部から外された。
 影明の掲げる松明に照らされて、まず目についたのは艶やかな黒髪だった。歪みのない真っ直ぐな長い髪は、女の背中でひとつに括られている。
「な……に……?」
 呟いたのは影明だ。瞬きをするのも忘れるほど、女に見入っている。
 桔梗もひどく驚いた様子で目を見開いた。
 大きな姿見が、そこにあるのかと思った。しかし身に着けている衣は、すべてが違う。髪の色も違う。
 それなのに――同じだった。
 桔梗は思わず自身の顔に手をやった。当然ながら目前の女は桔梗の行動を真似るような動きはない。静けさを湛える瞳を向けるだけだった。
 夢でも見ているのか、それとも妖に化かされているのか。
 内裏での出来事を思い出して、桔梗は眉をひそめた。
 自分を襲ってきた影明に瓜ふたつな何かの存在を。
 外出して気分は楽になっていたというのに、ふたたび心に棘が刺さる。すでに数日経て完結したはずの出来事は、まだ後を引きそうだ。
 アレと関係があるとは言い難いが、もしかしてということもある。
「……」
 笠はどこにでもある普通の物のようだが、これが遮断していたのだろうか。今ははっきりとわかる。感じていた不思議な気配は、女に染みついた妖の匂いだと。何かしらの影響をその身に受けているのかもしれない。しかしそれを明確に示すものは、今のところ見つからない。
 桔梗の複雑な心境を知ってか知らずか、女は黙ったままだった。
 重くなりつつあった空気を散らそうとしたのだろうか。女がふいに微笑んだ。
 桔梗と瓜ふたつの、その顔で。


「まぁ……」
 感嘆の声をあげ、瑠璃は頬に手を添えた。興味津々といった様子の視線を女に向けて、観察しているようだ。
 そのとき、小さく咳払いが聞こえ、瑠璃ははっと我に返る。
「失礼いたしました。お客様を前に呆けてしまいまして」
 瑠璃の狼藉をたしなめる咳払いは、たった今戻ってきた桔梗が発したものだった。
「瑠璃、何か用意できるかな。お疲れのようだから……」
「いいえお構いなく。こうして身体を休める部屋を貸していただけて充分です」
 桔梗の指示を遮り女は微笑んだ。
 次の言葉を待つ瑠璃を下がらせて、桔梗は邸へと招き入れた女の向かいに座る。
「ご友人はお帰りになられたのですか?」
「ええ」
 友人とはもちろん影明のことである。
 牛車はひとつしかないため、桔梗と女を送り届けたあと自分の邸へと帰っていった。
 主に桔梗邸の警備についている忍と、何やら話があった様子だったが、今夜は急な来客となったために大人しく帰路へつくことにしたようだ。
 ただ、最後まで彼は「用心しろ」と言っていた。
 話をした上で客として迎えることにしたのだから、それは少々手厳しい。
 しかし桔梗は心中をおくびにも出さず、素直に頷いた。
 影明の心配もわからなくもなかった。ついこの間、賊が入りこんだ。式神の瑠璃が腕を壊したものの、被害は最小限で済んだ。とはいえ、警戒するに越したことはない。次がどうなるかは誰にもわからないのだから。
 影明を見送るついでに敷地内の結界を強化した。どのみち定期的に張り直さなければならないのだから、それが今でも数日後でもたいして変わらない。
 桔梗は小さく息をついた。
 常人は持たない力――いわゆる陰陽道に長けた力や妖を視るような不思議な能力を持っていると、それがたいしたことのない程度でも同業者に目をつけられやすくなる。
 力試しに巻きこまれるのは名の知れた術者だけではない。桔梗や影明のような未熟な者もそうだ。聞けば、忍も何かしらの目にあっているということなので、有名人の元で修業をする者のさだめなのかもしれない。
「――桔梗様は」
 ふいに呼ばれてはっとする。客人を目の前にしてぼんやりとするなど失礼極まりないではないか。これでは瑠璃のことを言えない。
「すみません。少し考え事をしてしまいました」
 桔梗が慌てて詫びると、女は袂で口を隠すようにして笑った。
「お気になさらず。お疲れのようですし、そのようなときに押しかける形になってしまいまして」
「いえ、部屋は空いていますから」
 常に使用しているのはせいぜい三つか四つだ。荒れていた室内を少しずつ直していっているのだが、まだ使用不可な部屋も多くある。
 もしものときのために、と思い至った瑠璃が先日急遽整えたばかりの一室を女に貸すことができた。
 桔梗は「いずれゆっくりと」とのんびり構えていたのだったが、偶然とはいえ良い結果となった。
 女は神威かむいと名乗った。
 遠い集落に住んでいた巫女だそうで、修行の一環で旅に出て、この地へと立ち寄ったのだと話した。
 巫女と言ってもひと括りにはできない。占いをする者、祈祷をする者、神託を得て伝える者。様々な行為がある。そのあたりは陰陽師と変わらない。
 話しぶりから、どうやら神威は魔を退ける力に長けているようだった。
 興味を持った桔梗は詳しく聞きたかったのだが、彼女は事情があるらしくあまり話したがらなかった。
 言いたくないのなら仕方がない。
「申し訳ありません。――集落の決まりで、言い広めることは禁じられておりまして。桔梗様は陰陽道に精通していらっしゃるようですし、私も情報交換をしたいのは山々ですが……」
 神威は困ったように笑う。
「今はご了承を。……いずれは桔梗様にもお話しできるかと」
「いえそれは」
 済まなそうに眉尻を下げる神威に、桔梗は慌てて否定する。
「ご事情はあるでしょうから。それよりも」
 一旦切って、今度は桔梗が表情を変えた。わずかに眉間に皺をよせ、目には戸惑いの色が浮かんでいる。
「桔梗様?」
「あの……呼び捨てで構いません。なんだかこそばゆいので」
 そう告げると、神威は一瞬気が抜けたような顔になり、次いでふっと声を洩らした。
 まるで鈴を転がしたかのようだ、と桔梗は思う。
 彼女の澄んだ声は、それだけで妖を退けてしまいそうだ。
「では、私のことも神威とお呼びください」
「はい。邸にはわたしの他は数名しかいませんから、ゆっくりしてください」
 頷き桔梗は退出の旨を伝えた。


 桔梗が立ち去ったあと、ひとり部屋に残された神威は、浮かべていた笑みを消した。
 室内を見回し、ついと外へ目を向ける。
 暗くて庭の様子はわからない。しかし何かを探るように外を見続けている。
「……」
 ふっ、と神威の口元が緩む。
「……良いところだこと」
 吐息とともに感嘆の声をあげた。
 丁寧に結界を張り巡らせているのだろう。悪質な妖が入りこむ隙間はないが、陰の気を完全に遮断しているわけではない。陰陽の調和が取れていて気持ちが良い。それでいて結界を張った術者に好都合な場所になっている。
 生まれ持った素質なのか努力の結果なのか。並大抵の者がここで対抗するのは難しいと思われた。
 しかし術者を招き入れてしまった場合はどうだろう。
 そっと、家主が去っていった方向を見つめて、神威は目を細めた。



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