大路で出会った不思議な女を迎え入れてから数日が経過した。 件の女――神威は長期滞在のすすめを受けることにしたらしく、桔梗はあれから何度か彼女に貸している部屋を訪問した。時々邸にいないなと思っていたところ、市井やその近くを散策しているのだと言った。 今日も朝からどこかへと出かけたようだった。 もしかしたら市井だろうか、と桔梗は考えた。 まだ勉強中だと謙遜していたが、神威は占いの方にも明るいらしく、場所を借りて市井に来ている者を安価で占っているらしい。知人からの噂によれば、なかなか当たると評判のようだ。 店を構えるのは占い師である神威の気が向いたときのみで、いつやっているのか不明だというのに、どこから聞きつけるのか占いを求める者が列をなすらしい。 どうにもこうにも不確かな表現しかできないのは、桔梗がその場面を一度も目にしたことがないためである。 手にしていた筆を置き、桔梗は外に目をやった。不思議な雰囲気を持つ客人に貸した部屋の方角だ。ここからでは中は見えない。気配も感じられないので、まだ戻っていないのだろう。 さっさと課題を終わらせてしまおうと持ちかけた筆をふたたび戻して、桔梗は組んだ両手に顎をのせた。 悪い人間ではない、と思う。己の勘を信じているし、それを覆すだけのものはない。 ただ、影明や自分と同じ何かしらの力を持った術者≠ニ言い切ることができないのだ、あの女は。 まるで姉妹かのようにそっくりな顔のせいもある。どうしても、誰かが仕掛けた謀のように感じてしまう。 「……」 桔梗は眉間に皺をよせた。 さんざん彼に用心しろ、と言われ、それに対して大丈夫だと返したのは、他でもない桔梗自身だ。 呆れたようにため息をつく。 心が乱されるのは仕方がないにしても、今更何を言っているのか。 目を瞑り、呼吸法を繰り返していると、もやもやとしていたものが少しだけ晴れた気がした。 姿勢を正して、桔梗は筆を手に取った。玄翔から出された課題は、まだ半分しか終わっていない。今日はこれをまとめあげて、師匠へと持っていく予定だ。 提出用の紙に筆を走らせていると、よく知った気配がこちらへ近づいてくる。桔梗は少しだけ目をあげ、また手元へと視線を戻す。 たまたま通りかかったか、もしくは自分に用事があるのか。どちらにせよ、目の前の課題に集中することにした。不用意に呼び止めて彼女の邪魔をするのはよろしくない。 す、とその気配が動きを止めた。 「失礼します、桔梗様」 声をかけてきたのは瑠璃だった。廂に膝をつき、心もちきょとんとした顔で言った。 「出かけられたのではなかったのですね」 桔梗はくすりと笑う。 ついこの間まで、体調が思わしくないのだから、おとなしく休んでいろと口を酸っぱくしていたというのに。 けれども今は完治してすこぶる健康体だ。ならば市井にでも足を運んで、困っている人のために陰陽の術を行使してくればよいということなのかもしれないが。 しかし陰陽師の仕事は妖を祓うことだけではない。もっとも、桔梗が宮仕えをすることは、この先もない。先日の内裏での件は、事情があっての臨時出仕だったのだから。 陰陽師ではない、ただ術を扱える者でも同じだ。すべてのことが怪異とは限らないのだ。 「お師匠様の課題がもう少しで終わるから……そうしたら届けに行こうと思っていたけれど」 実戦で経験を積めば成長はできるが、なんせ妖たちは一筋縄ではいかない。柔軟な思考力を養うためには、それがたとえ机上の空論だとしても、自由な発想は必要だ。今取り組んでいる課題もそういったものだ。 「いえ、そうではなく」 瑠璃が困ったように首を傾げた。 「今日はお祭りですから、遊びに出かけられたのかと思いまして」 「祭り……?」 呟いて、桔梗ははたと気づく。 最初、何のことかわからなかったが、たしかに祭りがある。 「ああそうか。今日だった」 時折外から聞こえてきた声が、少々色めき立っていたのはそういうことかと合点がいった。 「えぇ。邸の中まで聞こえてきますので」 瑠璃の声音も心なしか興奮気味だ。 今日は姿勢で秋の収穫に向けての五穀豊穣の祭りがある。政庁は一切関与しておらず、有体に言うならば、市井に関わる者たちが勝手にやっている小さな催しだ。 さらに、祭りと呼ばれてはいるが、お馴染みの店の他に、この時期にのみやってくる商人が出す臨時の店がいくつかあるだけで、祭りというには少々華やかさに欠けている。 それでもみな、毎年楽しみにしているのだ。 神威の出かけた先が市井ならば、彼女も軒を連ねているかもしれない。 「お師匠様への要件が済んだら寄ってみようかな」 「わたくしもあとで覗いてみますわ。……初めてですもの」 桔梗も耳にしていたが、直に目にするのは初めてだ。目を輝かせている瑠璃に苦笑する。 おそらくは己の瞳も似たようなものだろう。 師匠からの課題を満足のいく形にして、桔梗は玄翔の邸に到着した。いつものように門から入り、生い茂る草木の回廊を抜けていく。 頭が一瞬ふわりとしたのを目を瞑ってやり過ごし、桔梗は息をつく。 気が遠くなるような、吸い込まれるような感覚にはいつまでも慣れない。 浄化の役割を担っているというこれに、毎回毎回苦しめられるとは思わなかった。よほど穢れたモノがついてしまっているのかと、自嘲気味に笑う。 だがそれも。人と接しているかぎりは仕方がない。 綺麗に身を清め、結界の中で二度と誰にも会わないとするならば清廉を保てるだろう。しかし神に仕える立場でもあるまいし、世俗の者には無理な話だ。 桔梗は己を襲っていた気持ちの悪さが消えたことを確認して、まっすぐ玄翔の部屋へと向かった。 「おお、桔梗。よく来たな」 好々爺の笑顔につられて桔梗も頬を緩めた。 二、三の近況を告げると、ふいに玄翔が真顔になった。 「何か変わったことはないか?」 「変わったこと……ですか?」 考える仕草をして、やがて桔梗は首を横に振る。 「いいえ、何も」 「そうか」 弟子の返答に特に疑問も持たず、玄翔は短く返した。 もしかしたらすべてお見通しなのではと思っていた桔梗は訝しんだ。本当に気づいていないのか、知ってはいるが話すまで放っておいてくれているのかはわからない。 真っ先に考えついた変わったこと≠ヘ、神威のことだ。 身元不明で自分と瓜二つの女性。天涯孤独の桔梗にとっては血の繋がった唯一の身内かもしれないひと。ただの他人の空似と言い切ってしまうには似すぎているし、彼女も常人が持たない術を使える、独り身であるなど、似通った点がある。 妖の線も考えていた。玄翔に恨みを持つ術者や妖が、末端から討とうとしているのではないか、と。 ありえそうなことは出会った日からここへ来るまでに何度も考えていたが、どうしても話す気になれなかった桔梗は、今は黙っていると決めたのだった。 それが身を滅ぼすことになるかもしれないが、言葉を紡げなかった。 桔梗の葛藤を知ってか知らずか、玄翔はちらりと一瞥しただけで、弟子が持ってきた紙の束に目を通す。 しばらくして、玄翔は口角をあげた。 「よくできている」 上機嫌な声音を聞いた桔梗も同じように笑う。 「ありがとうございます」 「ときに桔梗。このあと用事はあるのか?」 唐突に訊ねられて首をひねる。 「いえ特には。――市井に立ち寄ろうとは思っていましたが」 「おおそうか。ではちいとばかりじじいの遊興に付きあってはくれんかの。……なに、手間は取らせぬ」 「はぁ……」 桔梗は気の抜けた声で相槌を打つ。 玄翔が何をしようとしているのか見当もつかない。ただ、よからぬことを企んでいるのは、雰囲気で理解した。 にぃ、と愉しげな笑みを浮かべた師匠の手が、弟子に近づく。 「いたっ」 頭部に痛みが走り、桔梗は反射的に手で押さえた。 「なにをするんですか」 咎めるが、犯人は少しも気にしていない。 「髪の毛を一本くれ」 「事後報告ですか」 わずかに口調を強めたものの、意味はなかったようだ。 「どうするんですか」 桔梗の髪を手にしている玄翔は質問には答えようともせず、愉快そうな表情のまま自身の懐を探る。 「まあまあ急かすな」 急かしているわけではないのだが。 眉をひそめて、それでも桔梗は黙ったまま動向をうかがう。 このひとの無邪気な子供のような心は今に始まったことではない。こうなってしまっては誰が止めても聞かないのだ。 玄翔は一枚の紙を取り出した。真っ白なそれは、人の形に切り取られている。 「おししょうさま……?」 嫌な予感がしてぼそりと呟いた桔梗を綺麗に無視して。玄翔は人形の上に髪の毛をのせた。右手の指を軽く組み、口元へ持っていくと、小さく言葉を紡ぐ。 「……」 予感が外れてほしいと、桔梗は心底願う。 このひとは、やはりすべてお見通しの上で「自分が楽しくなるため」に嫌がらせをしようとしているのか、と心の中で悪態をつく。だが、それならそうと告げるような気もする。このひとの性格からして。 言わないのだから偶然、なのだろうか。 桔梗が堂々巡りの思考に陥っていると、やがて玄翔の手にあった人形が、ふわりと宙に舞った。瞬く間にそれは形を変え大きさを変え、ふたりの目の前に降り立った。 「……」 渋面を作る桔梗とは対照的に、玄翔は悪びれた様子もなく、 「ふむ。良い出来。さすがわし」 清々しいほどの笑顔でそう言った。 狩衣を身に纏った、色素の薄い髪と赤みがかった瞳を持つ女――桔梗の髪を元に作られた式神が、無表情で立っている。 「……」 やはり、一連の騒動を知っていてからかわれているのか。 彼は陰陽寮の頂点に立つ人だありえない。――と言い切れないのが悲しい。 「なにがしたいんですか」 思わず妖と対峙しているかのような声音になってしまったのは許してほしい。 しかし玄翔は気にしていないようだ。相変わらず愉しそうにしている。 「ただの暇つぶしよ。――ほれ桔梗。ちょいとそこへ隠れておれ」 とん、と肩を押され、桔梗はよろめきながら几帳の裏へと身を潜めた。玄翔もそれに続く。 几帳の隙間から覗き見ると、式神は部屋を出て廂に佇んでいる。 「……おや?」 男の声がした。 聞き覚えがあるが、さて誰だったかと桔梗は思案する。 式神は声の主がいるであろう方向へと視線をやり、わずかに微笑んだ。 「きみも来ていたのか」 現れたのは、黒の直衣を身に着けた青年だ。 「お久しぶりです。高彬殿」 式神が、己の姿と同じように口調まで真似て話すので、先ほどから桔梗の眉間に刻まれている皺が消えない。 これが潜入捜査の一環ならともかく、明らかに違う状況では気分はよろしくない。 「あれから会っていなかったから心配していたんだよ。……まだ少し顔色がよくないようだ」 高彬の手が式神の頬に触れる。 「それに冷たい」 顔色が悪いのも体温を感じられないのも、それは相手が血の通っていない作り物だからだ。いくら本物にそっくりでも、同じではない。 すぐさま飛び出して訴えたいが、いかんせん横にいる玄翔に腕をがっしりと掴まえられ口も塞がれてはそれもできない。老者にしては腕も足腰もしっかりしているため力が強いのだ。 横目で睨みつけるようにするが効果はまったくない。 「桔梗殿」 高彬の憂いを含んだ声に、桔梗は視線を戻す。 「体調がすぐれないのなら、わたしの二条の邸で休んでいくといい。きみの邸までは少々距離があるからね。……なんなら、今夜は泊っていってもいいし。唐から取り寄せた珍しい品がいくつかあるから、桔梗殿に見せたいと思っていたんだよ。……心配しなくても、きみの邸には使いを出すから」 そうだ、それがいい。 式神が何も言わないのを肯定と取ったのか、話が決定事項になりかけている。 微笑むだけであった式神の腕がゆるりと動いた。頬に触れていた高彬の手をそっと握り、目を細めた。愛しい男性を目の前にして嬉しく思う。そんな顔つきだ。 「――っ」 限界だった。 桔梗は自身を押さえこんでいる腕を振りほどいて几帳の影から躍り出る。 「高彬殿!!」 「やあ、桔梗殿」 同じ姿の女がふたりもいるというのに、別段驚いた様子もなく、高彬はのんびりと言った。 「高彬殿……?」 「うん?」 再度呼びかければ、きょとんとした顔でこちらを見つめてくる。 訳がわからず立ち竦んでいる桔梗の耳に大きな笑声が届いた。声の主は玄翔だ。 「……ふたりで共謀したということですか」 「いや?」 「偶然じゃ」 軽い口ぶりではあったものの、嘘をついている様子はない。 「玄翔様の悪戯なんだろうなと思って乗ってみたけれど、きみも隠れているとは知らなかったよ、可愛いひと」 なおも握られたままの手を外させて、高彬と式神の距離をとらせる。 式神は感情を消し去った顔をしていた。ただ、首をかしげたような仕草はわずかながら人間味を感じさせた。 桔梗は式神の額に右手をあてて、小さな声で術を紡いだ。紙に戻れ、と。 みるみるうちにその姿は萎んでいき、ひらりと紙の人形が宙に舞う。やがて床に落ちたそれはぴくりとも動かなくなった。 「会わせるのは誰でも良かったんだがのぅ」 言いながら玄翔は人形を拾いあげた。 「本物ではないと気づくとは――さすが春の君。本質を見抜く力をお持ちのようだ」 それにひきかえ、と年齢の割に強い眼光が桔梗を射抜いた。 自然と背筋が伸びる。 「見抜く力は、まああるだろうが……お前はその場の空気が読めんのぅ」 「なんですかそれは」 「もう少し様子を見て、それからどう行動するのが最適か判断をしてだな……今のお前のように感情に任せて突っ走っては無駄な動きが出てしまう。それに」 「師匠らしいことを言って誤魔化そうとしていませんか」 強めに玄翔の言葉を遮れば、彼は平然と、 「ばれたか」 と言った。 握りしめていた桔梗の拳がぷるぷると震える。 「お師匠様」 「その辺で許してあげなさい」 桔梗が低く呟くと、少しばかり楽しげに窘められる。 「今日のところはわたしに免じて大目に見てはもらえないかな。わたしも最近忙しくて、愉快な気持ちにはなかなかなれなかったものだから」 そう優しく言われては、はい、と返事するしかない。 桔梗は一度だけ玄翔を咎めるような目をしてから、こほん、と咳払いをした。 「高彬殿がいらっしゃったのでしたら、わたしはこれで。失礼いたします」 目上の者にする挨拶としてはいささか簡易的すぎるが、早めに退散したほうがいいだろう。 相談目的での来訪なのかはわからないが、いずれにせよ身分の低い者が用事もないのにいつまでも同席しているのも失礼だ。 「あぁ桔梗」 退室しようとしていた桔梗を高彬が呼び止めた。 「この後用事は?」 「……市井へ行こうと思っていましたが」 「それはよかった」 高彬がにっこりと笑った。 「私も行くから、しばらく待っていてくれないかな。一緒に行こう」 「……はい?」 桔梗は素っ頓狂な声をあげる。 祭りに参加したいということなのだろう。しかしいつもよりも人出が多いはずだ。腕の立つ者を連れていかないのなら、いや、連れていかなくても貴族が行くような場所ではない。 どう断ろうかと考えていると、先ほどまでわざとらしく笑っていた玄翔の真面目な表情が目に映った。 「ふむ。桔梗。供を頼めるか」 「はい」 陰陽頭の顔を取り戻した玄翔にそう言われては、了承するしかない。 |