「やはりいつもと違うね」 そう言ってきょろきょろと首を巡らせている姿は、珍しい玩具を手に入れた子供のようだった。桔梗はそんな様子の高彬を見上げてくすりと笑う。 「……なんだい?」 視線に気づいたのだろう。高彬は少しだけ口を尖らせるようにして、桔梗を見やった。心なしか頬も赤く染まっている。 「いえ。楽しそうだな、と」 「桔梗殿は? ……わたしと一緒では楽しくはないかな?」 「そんなことはないです」 慌てて桔梗が言うと、高彬はにっこりと笑みを浮かべた。――途端に、どこからか黄色い声があがった。声のした方を見れば、少し離れた店先に顔見知りの女が数名固まって、こちらの様子をうかがっている。 なんだか、身に覚えがある光景だ。 あれはいつのことだったか、と桔梗は思い回す。――たしか高彬とこの市井で初めて出会ったときだ。笑顔をみせた青年に反応した女たちが、やはり悲鳴に似た声をあげていた。 後日、根掘り葉掘り聞かれることになったのだが、今回も同じような事態になるのだろうか。 しかも今日は祭りだ。誰も彼も浮き足立って、後日とはいわずに今、事細かに訊ねられるということもありえる。そのときはどう誤魔化そうか。桔梗も小綺麗にはしているが、生まれも育ちも違うので、ふたりはどういった関係なのかと非常に興味を持たれるのだ。 やはり、玄翔の名を出すのが無難だろうか。 「……あ、れ……? 高彬殿……?」 はっと気がつくと、隣に佇んでいたはずの高彬がいない。驚いて彼の姿を探せば、いつのまにか、件の女たちの側に移動していた。 「……」 なぜ、あなたは敢えてそちらへ向かうのか。わざとですか。そうなんですね。 思わず悪態をつきたくなり、桔梗は苦虫を噛んだような顔をする。 時に荒くれ者が集まる市井で、彼女たちも女だてらに切り盛りしている。この場所に慣れなかった頃は、自分はさぞかし胡散臭い者だったろう。それなのに、事あるごとに気に止めてくれて、そのおかげで皆に馴染むのも早かったと思う。 今後も良い関係を築いていきたいのだが、それとこれとは別だ。 高彬たち一行が楽しそうに会話をしている。周りの喧騒にかき消されてしまい内容はわからないが、彼らから離れたここにいても雰囲気は充分伝わってくる。 桔梗ははぁ……とため息をついた。息抜きのつもりがその逆になりそうだ。高彬と歩くのも市井の者と話すのもどちらも楽しいのだが、ここへ来る前に色々とありすぎて、少しばかり疲れてしまった。 玄翔の悪戯はもちろんのこと、その後、高彬の用事が済むを待っているときだ。貴族の会話を関係のない者が聞くわけにもいかず、桔梗は声が届かない場所へ移動した。 そこへ兄弟子の龍安がどういうわけか姿を見せた。 桔梗は、はっきり言ってしまえば彼が苦手だ。 切れ長の目は一睨みで妖を退けそうだ――とは、兄弟弟子の誰の言だったか。力のある一流の術者ならばありえるのだろう。しかし龍安はそういった芸当は持ちあわせていない。先の言葉は揶揄したものだ。隠し事をしても何もかもを見透かしてしまうような瞳。師匠の玄翔とはまた違った力がそこに宿っている。 だからなのか、彼の前に立つと、普段から伸ばしている背筋をさらに真っ直ぐにしなければならないような、切迫感に襲われるのだ。 龍安は理不尽なことで誰かを叱責したりはしない。自分に厳しく他人にも厳しいだけなのだ。 今日も玄翔の邸を出てからの出来事をいくつか訊ねられただけなのだが、緊張が滲み出ていたのだろう。話すたびに龍安の眉が吊りあがっていくような気がして、ひどく神経がすり減った。 正直言ってこれ以上疲れたくはないのだが、高彬の供は成り行きではあるが玄翔の命だ。それに、友人とはおこがましいが、気が進まないからといって彼を放って何も言わずに立ち去るのは薄情すぎる。 桔梗は覚悟を決めてきゃあきゃあと盛り上がっている集団の元へと歩いていった。 「勝手に行かないでください」 後ろからそっと声をかけると、高彬は一瞬きょとんとしてから破顔した。 「すまない。気が急いでしまってね」 申し訳なさそうに詫びを述べる高彬は、けれども少しもそう見えない。瞳に愉悦の光が宿っているのが見て取れた。 「いいですけれどね……でも、わたしから離れないでください。……何かあっては困りますし」 「うん。すまなかった」 言い淀みながらも非難すると、高彬は素直に頷く。文字通りのお祭り気分もわからなくもない桔梗は、この話題はこれで止めた。あまりくどくどと言って人目を集めるのは避けるべきだ。 もっとも、身につけているもので身分の誤魔化しはきかない。彼がそれなりに高位の貴族だと、市井の者も薄々わかっているだろう。 しかし知っているのと言いふらすのでは大きく違う。市井に来てから極力彼の名を呼ばないようにしているのは、どこで誰が見ているかわからないからだ。 「あら、いいじゃないの」 と、ひとりの女がからからと笑う。 「こういうときは楽しまなきゃ損だよ」 周りの女たちも一斉に同意する。 「それは、わたしも思うけれど……」 相手の勢いに圧倒された桔梗はわずかにたじろぐ。 「あらいやだ。怯えないでおくれよ」 そのやりとりに、高彬は小さく笑みをこぼした。 「仲がよろしいんですね」 「そうよ。あたしらの娘みたいなもんだからね」 女に肩を抱くように引き寄せられた桔梗は、くすぐったそうに身を捩った。知らず知らずのうちに尖っていた目は、今は穏やかな光を湛えている。 「そういやあんた。しばらく見かけないと思ってたら、怪我して寝込んでたんだって?」 「心配かけんじゃないよ」 「細っこい身体して。あんたちゃんと食べてんの?」 矢継ぎ早に捲し立てられて、桔梗は思わず後ずさりする。が、がっちりと腕を掴まれて逃げ出すことはできない。まともに答える前に続けざまに質問責めだ。 いよいよ高彬との関係に及ぶと、桔梗はほとほと困り果ててしまった。 「おい!」 そのとき、後ろから男の声がした。 振り返ると、三軒先にある店の店主のようだ。隣にいた女が、あら大変と口元に手をあてている。が、少しも動じた様子はない。 「いつまでも遊んでたら旦那に怒られちゃう」 「じゃああたしも」 女たちは二、三言葉を交わしてからそれぞれの店へと戻っていった。 「さて。油を売ってないで仕事しようかね。じゃあね桔梗さん。素敵なお兄さんもまた寄っておくれよ」 「ええ。また来ます」 ひらひらと手を振って、最後のひとりも自身の店へと戻っていった。 「うん、とても元気な女性たちだね」 「なんと言いますか……すみません」 居た堪れなさに桔梗は顔があげられない。 「謝られるようなことは何もないよ」 ふたり並んで歩き出すと、高彬は困ったように柳眉を下げた。 高彬も市井は初めてではないのだから、粗野な振る舞いにはそこそこ慣れているだろう。それに、良いように構われたのは桔梗で、彼は横で様子を眺めていただけだ――それはもう愉快そうに。 「騒がしかったのではないかと」 貴族といえば、雅で優雅で華やかで――騒然とした空気などとは真逆の存在だ。時には権利争いや貴族同士の腹の探り合いなど、おどろおどろしいものもあるが。市井とは違い、基本的にゆっくりと時が進む。 そのような空間に慣れ親しんだ彼が、喧騒に疲れたり嫌気がさしたりしないかと心配になった。桔梗の知っている限り、ここには心の根が腐った者はいない。荒っぽくても気の良い人ばかりだ。高彬が出歩いているのはどうかと思うが、ちょっとしたことで市井を嫌いにはなってほしくはなかった。 「こういったときは、騒がしいではなく活気立っていると言うんだよ。人の集まるところが閑散としていては困るだろう?」 「それは……そうですが……」 返答に詰まる桔梗を横目に高彬はふふっと微笑む。 「人と触れ合うのが嫌なら、邸の奥に隠れているよ」 言いながら、高彬は軒を連ねている店を覗きこむ。その瞳は喜びに溢れていた。時折店主に質問をしては、ふむ、と頷いている。少しだけ眉根を寄せていたかと思うと、疑問が解消されたためか次の瞬間には顔付きが明るくなる。 いつもは穏やかな雰囲気を纏いつつも、瞳には上に立つ者特有の輝きがあった。数回会ったすべてのやりとりが軽々しかったために少々勘違いしていたが、彼はいつでもどんなことにも熱心なだけなのだろう。些細なことでも己の知らない知識を得ようとしている。 「邸に持ちこまれるのは偏りがあるからね」 誰に言うともなしに高彬が呟いた。 思い耽っていた桔梗は、はっと我に返った。目鼻立ちの整った顔はくるくると表情を変える。年上のはずなのに、まるで子供のようだ。 桔梗は相好を崩した。なんだか、悪戯を本気で考える師匠と姿が重なった。 どこか似た部分を感じて、玄翔も力を貸すことにしたのかもしれない。 有力者の苦労や様々な感情は、似た立場か同じ経験をした人間でないと、想像はできても理解はできないのだ。 どちらが間違っているというのもない。 桔梗の血縁はこの世にいない。孤独という点では近いものがあっても、生まれも育った環境も違うのだから、己が理解できないのは当然なのだ。 ならば自分ができるのは、知人として少しだけ支えることか。年下がやれることなどたいしてない。だが、こうして息抜きに付き合うくらいならいくらでも可能だ。 もしも良からぬ事態になったとしても、身を守る盾にはなれる。 桔梗は時折周囲に目を向けながら、楽しそうに店を巡る高彬の後についていく。 多種多様な店が立ち並ぶ通りを半分ほど過ぎた頃だろうか。高彬はふいに足を止めて振り返った。 「? 何か?」 目があった桔梗は、きょとんとして訊ねる。 「いや……私ばかりが好き勝手に動き回っていたからね。きみも、ここに用事があったのだろう?」 申し訳ないと高彬の目が語っている。 「お気になさらず」 供を命じられたときは驚いたが、影明や忍、式神のふたり。身内と呼んでも差し支えない者とは何度かあるものの、それ以外の誰かと市井を歩くのは初めてだ。 もう少し自分の立場をわきまえて大人しくしてほしいと思わなくもないが、慣れてくれば振り回されるのも悪くはない。 「楽しんでいますから安心してください」 「そうかい?」 とはいえ、にこやかに返した言葉には納得していない様子だ。高彬はうーん、と声を洩らしてから桔梗に向き直った。 「桔梗殿はどこか見たいところはあるのかな?」 「特に考えていませんでした。普段の店の他に、何があるかわからなかったので」 いつもの市井と同じようで、勝手が違う。常連の店以外に、このときのみやってくる行商人がいる。それを目当てに皆が集まってくるので、場所によっては人いきれだ。 その隙間から覗きこむようにして店を見るのが祭の醍醐味なのだろうと桔梗は思う。 「高彬殿が行きたいところへどうぞ。後をついて回りますから」 桔梗は本心を伝えてから、あぁ、でも……呟いた。 「ひとつ寄りたいところはあるので、よろしいですか」 「もちろん」 高彬はそっと桔梗の側に寄り、無邪気に微笑んだ。 「どこへ行くんだい?」 「えぇと……」 桔梗は言い淀み、しばし無言になる。 「万屋、ですか」 あながち間違いではない返答をした。 万屋。なんでも屋。依頼すれば大抵の物は揃うかの店は、桔梗の馴染みの店だ。大男が切り盛りする、あらゆる品々を扱うその店からは何かを買うのではなく、主に依頼を受けるのだが。 内裏での幽霊騒ぎから桔梗の体調が整うまで一歩も外出できなかったのだ。そろそろ顔を出しておかないと、陰陽道絡みの案件がきているかもしれない。 陰陽寮に仕える者は、学んだすべてのことを市井に漏らしてはならない。 宮仕えをする日が一生こないとはいえ、本当は桔梗がやっていることは由々しきことなのだろう。流れの術者とは違うのだから罰せられてもおかしくない。いまだ玄翔預かりの修行の身、勉強という名目で目を瞑ってもらっているだけだ。 「あまり快く思われないでしょうけれど、時々祓いなどを頼まれていまして。市井にも困っている人たちがいますから」 高彬は遠くない未来に政務を執り行う身分のひとだ。その彼に話すにはいささか扱い難い告白だろう。 どう反応するのか心配はあるものの嘘を吐くわけにもいかず、桔梗は素直に告げた。 「あぁうん。お噂はかねがね」 意味ありげに含み笑いをしたのは、すべて知っているよと言外に語っているのか。高彬の意図がわからない。 「心配しないで。きみがいて助かっているのだから。……行こうか」 促されてふたり並んで歩き出す。 しばらく行くと人の姿がまばらになってくる。いくら祭の日でも市井の外れになれば人出も少ない。おおっぴらには言えない話をするには都合がよかった。 「内裏は玄翔様を筆頭に龍安殿も居られるし、桔梗殿の同期もいる。放っておいても安泰だろう。けれどもそれ以外には目が届かない」 「ひとりで外出されるのは、そのためですか? 貴族以外も守るために」 「それもある。邸にいても外の世界がどうなっているかなんて知る機会はないのだから。……でも、本音を言うと、興味があるからかな。天候が良いのに邸に篭っているなんて、つまらないだろう?」 曇りのない眼差しを向けてくる高彬に、桔梗は苦笑いした。 つまらない、などあなたは玄翔様ですかそこは似なくていいんですよ、と心の中で鋭く指摘する。 「息抜きはいいですが、やはりひとりは危険ですよ」 「だから、桔梗殿がいるだろう? 最初は成り行きだったにせよ、きみが市井で仕事をするようになったのは、偶然ではなく必然だったのだと思うよ」 巡り合わせ、なんて言葉もあるだろう? ――などと聞かれても返答に困ってしまう。 頷くこともできずに桔梗は黙りこんでしまった。 「わたしは異形は視えないし、妖と意思の疎通ができる術者が市井にいれば安心だからね。……あぁでも店主がいたね。会ったことはないけれど」 「……」 あれこれと思案していると、何やら胸騒ぎを感じた。この言い方はまるで――。 「……どこまでご存知なんですか?」 はっきりとは言っていないが、店主とは、今向かっている店のことではないのか。桔梗は思わず立ち止まる。 「どうしたの?」 動きを止めた同行者を不思議そうに振り返り、高彬は首を傾げた。 「どこまで、ご存知なんですか」 桔梗は質問には答えず、同じ質問を繰り返す。 「桔梗殿が知っている以上のことは、知らないんじゃないかな」 なんともあやふやな返事だ。しばらく黙っていると、高彬は白い歯を見せた。 「白黒はっきりつけない方が都合が良いこともあるのだよ、桔梗殿」 真意はなんとなく理解した。 「わたしはどうすればいいのですか」 何かさせたいことがあるに違いないと思った。桔梗が訊ねると、高彬は真顔になり、そしてふたたび表情を和らげた。 「きみの思うように」 またしても曖昧だ。 桔梗はひくりと頬を引きつらせた。このやりとりに、どうにも色恋めいたものを感じたのは気のせいではないだろう。高彬の誘いかけるような眼差しが物語っている。 「そのような顔をしないで可愛いひと」 「からかうのはやめてください。男女の言葉遊びなど、わたしはわかりませんよ」 「すべてが冗談でもないけれど」 まぁ、彼に怒られてしまうからこの辺で。 ぼそりと呟いた高彬の瞳から熱のこもったようなものはすでに消えていた。 「えぇと桔梗殿。まっすぐで良いのかな?」 あと少し行くと店らしい店がなくなってしまう。 「失礼しました。ここです」 数歩先を手で示し、桔梗は言った。 店の扉に手をかけたところで、勢いよく背後に視線を走らせた。注意深く周囲を見回す。 「……どうしたの?」 突然の行動に高彬はひどく驚いたようだ。少々表情が硬い。何かあったのかと聞きたい様子だが、彼女の邪魔をしないようにと口は閉ざしたままだ。 桔梗はもう一度、目すらも動かさず異変がないか集中する。 ――人っ子ひとりいない。 「いえ。気のせいだったようです」 安心させるために唇に笑みをのぼらせる。 しかし。絡みつくような冷たい視線は、たしかにあった。 「なら、いいけれど」 そう言いながらも、高彬は納得していないのか微笑むこともしない。 「もしものときはわたしが守りますからご安心を」 「その心配はしていないのだが……頼りにしているよ、術者殿」 目を細めた高彬に笑いかけ、桔梗は店の扉を開ける。 「邪魔するよ」 中に向かって声をかけると、こちらに背を向けていた大男が振り返った。 「おおおおお! 桔梗さん!」 店主は大袈裟な身振りで客人を迎え入れる。眉尻が下がり、少々厳つい顔が親しみやすいものに変わる。 「良かった元気そうだなぁ。こっちも困っててなぁ。連絡しようかと思ってたところさ」 頭を掻く仕草が妙に人間臭いが、この男、れっきとした鬼である。人間相手に商売をし、人肉を喰らう代わりに人間の精気をその身に取りこんでいるのだという、たいそう風変わりな妖だ。 思うことがあっても、玄翔公認では、桔梗ごときが進言できるはずもない。 「おや、そっちの色男は」 鬼が片目を眇めた。桔梗の後ろに立つ高彬を観察するような目つきで、一心に見ている。 「……おまえさんは、天のさだめを背負ってるひとか?」 天命。この場合は天から与えられた運命や使命ではなく、民を導く権力者、の意味あいが強そうである。それを裏付けるものはないが、男の目が物語っていた。愉しげに揺れている。 「珍しい組み合わせだなぁ。お師匠さんの伝手ってところか? なぁ」 「そんなところだ」 「ふぅん……」 男はさすが商売人といったところか。客の隠し事は深く追求しない信条のようだ。 「はじめまして。店主殿」 「おう。ゆっくりしてってな」 男はしげしげと高彬を見やった後、人懐こい顔に戻った。 「それじゃ、さっそくだけどな桔梗さん。おにーさんは何か気になるものがあるなら勝手に見てていいぞ」 「危険な物は?」 高彬が手に取る前にと、桔梗は慌てて遮る。 「今はひとつしかない」 男はそう言い、近くの台を指差した。そこには風呂敷に包まれたものがあった。 「たいした力もないんだがな。見てくれるか?」 節ばった手が包を解いていく。 中からは青みがかった緑色の衣が出てきた。特に妖の気配は感じられないので、桔梗はそっと衣を手に取る。広げてみると水干だった。大きさから子供用だとわかった。 「これは?」 視線は水干に据えたまま、桔梗は訊ねた。 「回り回って俺んとこにきた訳あり品さ」 男は肩を竦めた。 「売り物にならないほど汚れてるだろ? だからどうなってもいいもんなんだがな」 「何かが憑いているようには思えないよ」 意識を集中してみるが、ただの古着にしか見えない。 一点気になったのは、焦げた跡があることか。 「火事にでもあったのか?」 男に視線を向けると、そうだというように大きく頷いた。 「都じゃなくてな、どこかの集落の、長の邸って話だ。幸いなことに人は死んでないし、問題はないはずなんだが」 眉を下げて頭を掻く姿からは沈痛めいたものは感じられない。 なのに、どうして言葉を詰まらせているのか。 ひとまず男は後回しにして、桔梗は水干を手にしたまま小さく術を紡ぐ。巧妙に隠された気配が現れるかと期待したが、変化はない。もしかしなくとも、己の力不足か。 次は何を試すかと思案していると、男がおずおずと声をかけてきた。 「そいつにゃ憑いてはいないはずだ」 「憑いていない?」 おうむ返しにすると、男は首を縦に振った。 「……ならば、どんな問題が?」 何度視ても異形の影響は感じられない。これには桔梗もどうしていいのか迷ってしまい、素直に聞くことにしたのだった。 「それが近くにあると、夢を見ちまうらしい」 「夢?」 「ああ。俺の側に置いて寝てみても何も変化はないし、本当のことはわからない。……俺が鬼ってのが関係してるのか知らんが」 男は自身の正体の部分のみ小声で言った。 ちらりと高彬の様子をうかがってみると、彼は店の商品に夢中らしく、こちらの会話には興味はないようだ。さほど広くはない店だ――話は聞こえているようだが。 「夢の内容もまちまちでな。楽しかったり悲しかったり……。それで、害はなくても気味が悪いってんで、念のため寺で供養してから処分ってことにしたんだと」 だが、燃やしてしまおうと火をつけても、煙すらも出ない。繰り返し試しても結果は同じだった。幾人かの術者に委ねられたが、誰も解決策は見つけられなかった。 「そんで俺んとこに回ってきたのさ」 桔梗は顔をしかめる。 何人が祓いを試したのか知らないが、自分のところへきても、結果は変わらないだろうに。 もしかして、玄翔への取り次ぎを頼まれているのか。そのあたりを確認してみるが、そうではないらしい。 「たまたま俺んとこにきたから、知り合いの術者に頼んでみたって、いつもの依頼さ。あんたがこの後誰かに相談しようがしまいが、好きにしな」 「そういうことなら」 自信はないが、試す前に断るのもはばかれた。 桔梗は水干を元のように包んだ。 「とりあえず預かるよ」 「おう。無理なら戻していいからな」 男がにかりと笑う。 「……術者の間を回り回ったわりに、あまり困っていないのか?」 そうなのか、と桔梗は首を捻る。 術者に依頼するときは、よくある怪異だと見過ごせないときが多い。今回のこれも、たいした被害がなくても只人には手に負えないでいるのだろう。 なのに、関心が薄いような態度が引っかかった。夢を見る程度の被害でそれこそどうでもいい≠フなら、結界を張った箱か何かに封じておけばいいだけのことだ。そのくらいの技量は今まで対応した術者の中にもいたはずだ。完全に封じるのは不可能だったのかもしれないが。 「そんなこたぁねえよ。たらい回しになって、最初の依頼者もとっくに忘れてるんじゃないかと思ってなぁ」 と、男は豪快に笑った。 物は古くなさそうだが、いつの頃からの案件かは不明だそうだ。保存状態が良いだけで、桔梗が生まれる前からというのもありえる。ならば今更どうなってもという気持ちもわからなくない。 「だから燃えるならあんたが燃やしちまってもいいからな」 真顔でそう言われ、 「わかった」 桔梗も真剣な面持ちになり、風呂敷包みの上から、ぽん、と水干に触れた。 |