月華抄-月巫女- 4
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 先頭を切って歩いている桔梗の顔はひきつっていた。
 なぜ、こんなことに――?
 自問自答しても、望む答えは見つからない。誰かに相談してみたら、回答は得られるのだろうか。しかしあいにくと答えをくれるひとは近くにいない。
「綺麗にしてあるじゃないか」
 後ろをついてくる青年が、嬉々とした声をあげた。
「最低限は整えましたが、人を通せない部屋もまだまだありますよ」
 肩越しに振り返ると、青年は視線を様々なところへと向けて、時折納得するかのように頷いている。
「高彬殿……珍しいものは何もありませんが」
 幾分か呆れ声の桔梗に、高彬は不思議そうな顔をみせた。
「とても楽しいし、珍しいよ? 術者の邸なんて玄翔様しか知らないからね」
 本当に変わったものなどないというのに。桔梗は複雑な気持ちになって、口を一文字に結ぶ。
 そうこうするうちに母屋へと着いた。
 桔梗が亡くなった祖母から譲り受けた邸は、一般的な寝殿造りだ。特別な作りは一切ない。せいぜい幾重にも張ってある結界程度だ。
「まったく手をつけていない部屋もありますから、母屋くらいしかご案内できませんが」
 住むことになってから、式神ふたりが懸命に整えてくれたのだが、すべての箇所を元通りにするにはまだ時間がかかりそうだ。
 新調したばかりの畳を勧め、桔梗も向かいへと座った。相変わらず興味深そうに部屋を見回している高彬に、思わず頬を緩ませる。楽しいというのは本当らしい。
「……何かな」
「いえ」
 笑いをこらえながら何か喉を潤すものでも用意するかと聞いてみるも、
「大丈夫だ」
 桔梗の質問に手を軽く振って断り、高彬は身じろぎする。ちらりと桔梗の横に目をやると荘厳な空気を漂わせた。表情は柔らかいままが先ほどとは違う。目が少しだけ鋭い。
「押しかけておきながら勝手だが、そろそろお暇するよ。きみも忙しいだろうからね」
 お遊びはここまでといったところか。
 高彬が見たのは、桔梗が下げてきた風呂敷包みだ。中には鬼の店主から預かってきた水干が入っている。
「これは急ぎではないようですので、ゆっくりなさっても構いませんが」
 とは言うものの、客人をもてなす気のきいたものはこの邸にはない。豊富にあるのは陰陽道関連の書物くらいだ。祖母の遺品にも、品質は良くても特別めぼしいものはなかった。高彬は見慣れているだろう。
 あとは話くらいだが、これまた聞かせられるような面白おかしい体験談も昔話も知らない。
 ゆっくりしていってください、などと言ったが貴人をもてなす術がなかったことに今更気がついた。
 何かないものかと考えていた桔梗は、ふいに肩を揺らした。敷地内に張り巡らせてある結界が、人の訪れを示した。
「どうかしたの?」
 門の方角をじっと見つめる桔梗に、高彬は訪ねた。
「知り合いがきました」
「あぁ……わかるのか。便利なものだね」
 一瞬、 きょとんとしたのちに同じように視線を巡らせている。
 まだ人の影は見えない。門をくぐったあたりで立ち話をしている気配が桔梗の元へと伝わってきた。
 結界は、術を成した者へと事細かに様子を届ける。直に見るようには無理だが、丁寧に織り成した成果なのか、意識を集中させれば会話の内容もほぼわかる。 水に潜って様子をうかがうような、くぐもった状態ではあるのだが。
 訪問者は忍と話している。そこへ、瑠璃も顔を出したようだ。時折、こちらへと視線を投げるような動きを見せているのは、自分たちのことを話題にしているのだろう。
 客人がいる。えっ誰が?
 ――というような、会話の断片が桔梗の耳へと届く。
 はて、と桔梗は首をかしげた。
 ゆるりと、怒気を帯びた空気が流れてきた。邸を守る式神は一切動かず、忍も瑠璃も騒ぎ立てていないのだから、問題がないのは訪問者もわかりきっているはずなのに。何を心配しているのか。そして、どういうわけか瑠璃は微笑んでいる。
「桔梗殿」
「はい」
 意識を高彬へと向けると、彼は居住まいを正して言った。
「やはり今日はこれで失礼をするよ。……また、機会があったら訪ねてきても?」
 遠慮がちに言葉を紡ぐその姿を目にして、この願いごとをどうして断れようか。
「ええ、もちろん」
 本当は彼を呼べるような邸ではないのだ。けれども常に張っているだろう気を休める場所は必要だ。どこかの貴族の邸では無理なときもあるのだろう。
 内心甘いと思いつつも桔梗は笑顔で了承した。
 そうこうしているうちに、ばたばたと足音が聞こえてきた。少し乱暴な足捌きの持ち主は、こちらへと向かってきている。
「……」
 桔梗は額に手をあてて呻いた。
 客人がいるのだ。もっと静かに行動できないものか。
「……失礼します」
 高彬に一声かけた桔梗は、素早く立ち上がると部屋から出た。そこで足音をたてる人物を待ち構えていると、好奇心旺盛な視線が突き刺さるのを感じた。振り返らなくてもわかる。
 これから起きそうな騒ぎを楽しむような意地の悪いひとではないが、それに近いものを期待されているような、そんな気がしてしまう。
 今日は厄日か。
 桔梗の唇が歪む。先ほどから神経が尖り続けて、いずれささくれてしまいそうだ。
 足音がすぐそこまできた。ひとつため息を床に落としてから、桔梗は訪問者を待ち構える。
「――!」
 角を曲がってきた男が、驚きに身震いした。まさか人が立っているとは思っていなかったのだろう。喉をひきつらせた影明は、目を丸くして桔梗を見つめた。
「び……っくりしたぁ……。んなとこにいるなよ」
 少し掠れた声が桔梗を批判する。ここへ来る途中の渡殿から見えるはずなのだが、脇目も振らずに、目的地へと集中していたためなのか、影明は人影に気づかなかったようだ。
「それはすまなかった」
 形ばかりの謝罪をする桔梗に、影明は口を尖らせた。
「俺もたしかに悪いけどっ。それよりっ」
 わざとらしく言葉を強調させた影明は、ぎっ、と座ったままの高彬を見据えた。
「それで、どういった関係で?」
「影明……」
 きつい口調を桔梗が咎める。が、当人も難癖をつけられた方もあまり気にしていない。
 にこにこと笑みを絶やさない高彬はさすがというべきか。生まれや育ちで思いがけないいざこざにも巻きこまれているのだろう。受け流す術を誰よりも身につけていそうだ。
「うーん。……玄翔様の紹介、というのが近いかな」
 のんびりとした声で高彬が言った。
「……お師匠様の……?」
 半目で訝しむ影明の様子に優しい笑みを向ける高彬が、ぽん、と膝を打つ。
「やっぱりそうか。玄翔様のお邸で、ちらりと見かけただけだが……きみが影明殿だろう?」
「はぁ、そうですが」
 少しだけ怒気を抑えた影明は、しかしなおも訝しんでいる。
「きみの話も玄翔様からよく聞いているよ。妖を視る力は誰よりも秀でているとね」
 褒められて悪い気はしないのか、影明の頬がわずかに赤く染まる。
「……ありがとうございます」
「機会があれば影明殿ともじっくり話をしたいところなのだけれど。そろそろ内裏へ帰らなければ」
「……はい?」
 さらりと告げられたそれに、間の抜けた声が洩れた。影明は瞬きを忘れるくらい固まっている。
 内裏へ行く、ではなく帰る、だ。さらに役所が軒を並べている大内裏ではない。それが意味することに気がついたらしい。
 きつく握った拳を震わせた影明は、やがておずおずと口を開いた。
「桔梗」
「なんだ?」
「聞かなかったことにしていいよな?」
「それは困る」
 知ってしまったのだから、道連れにするよ。
 桔梗が呟くと、影明はがっくりと項垂れた。
「……」
 しばらくして、
「……どうやって外出されたのですか?」
 話を振られた高彬は首をかしげる。
「んー、玄翔様が」
「いえ失礼しましたもうわかりました」
 言葉を遮るなど失礼極まりないのだが、気持ちがわかる桔梗は黙ることしかできない。さらに、あんの爺は、と低く唸る声が耳に届き、苦笑いする。
 気持ちを分かちあえる友人がいることが、今、どれほど心強いか。どうせなら大きな事件などを乗り越えるときに体験したいものだが、都合よく何かが起きるわけでもないし、誰かが傷つくような出来事はない方が良い。
「わたしを想っての行動だから、玄翔様を責めないでおくれ」
 高彬の優しい声音に、桔梗も影明も頷くより他にない。
 どうせ、何を訴えても本人たちは聞きやしないのだ。やれる範囲で注意を払い、どうにもならなくなる前に兄弟子の龍安に相談しよう。彼ならまだどうにかできる可能性が高い。
「……」
 桔梗がふと視線をあげると、影明と目があった。言葉は交わさずとも、考えていることは同じらしい。彼の顎が小さく縦に動いた。
「すっかり長居してしまったけれど、そろそろ失礼するよ」
 しばしの沈黙を破ったのは、高彬の遠慮がちな声だった。衣擦れの音もなく立ち上がり、桔梗ににっこりと笑う。
「見送りはいらないよ」
 そう言って部屋を出ようとする高彬を慌てて呼び止める。
「迎えが来るわけではないのでしょう?」
 ここから内裏まで距離がある。玄翔の邸から市井へ向かったときは、近くまで式神の牛車に乗った。
「ああ、問題ないよ」
 高彬は懐に手を入れ、一枚の紙を取り出した。白く細長いそれには、何やら文字が書かれている。
「玄翔様からいただいているからね」
 何を、とは言わないが、もしかしなくても、行きに使用した式神の牛車と同じものだろう。
「ではまた」
「待ってください」
 歩きかけた高彬を、今度は影明が呼び止める。
「おひとりでは駄目です」
「だが、いつもひとりだからねぇ」
「駄目ったら駄目です」
 辛うじて丁寧語を使っているが、影明の言葉はいささかぞんざいだ。その勢いに押されてしまったのか、高彬は黙りこむ。
「……んー。困ったねぇ」
 口元に笑みを浮かべているので、影明の対応を不快には思っていないようだ。
「桔梗、忍借りてくぞ」
「影明?」
 きょとんとして桔梗は影明を見つめる。
「何かあったら俺だけじゃ自信ないしな。そういうわけでお供します」
 顎を引いた影明の表情は幾分か硬い。
「せっかくの申し出だ。では、お願いできるかな? 影明殿」
「はい」
 頷く表情はいまだ変わらない。
 高彬は影明の横を通り過ぎる瞬間、少しだけ顔を近づける。
 何か、と言わんばかりの影明に含み笑いをすると、
「……心配しなくても、惹かれあっている君たちの仲を割く気はないよ」
 囁いた声は桔梗の耳までは届かなかった。
「えっ……なっ……!」
 影明の顔がみるみるうちに血色良くなっていく。耳はおろか首まで真っ赤だ。
 先に歩いて行った高彬の後をしばし目で追いかけて、影明はふと振り返った。
「また今度な」
「ああ……うん」
 桔梗は呆然としながらふたりを見送った。
 今日は本当に色々なことがありすぎる。

◇ ◇ ◇

 手すりに寄りかかるようにして、桔梗は階に座っていた。
 辺りはすっかり闇に包まれている。夜空でも眺めようかと外へ出たはいいが、あいにくと雲ってしまい星も月も見えない。
 近くに置いた燭台の小さな炎のみが、今ここに存在している明かりだ。ゆらゆらと揺れる炎を眺めていると癒されると聞いたことがあった。しかし桔梗の心を占めている感情は癒しではなく、悲しみや痛み――哀惜であった。
 桔梗は眉を曇らせた。ぼんやりと仄かな明かりを見つめていたが、硬く瞼を閉じる。
 夢を見た。
 建物が焼け落ち、空までも赤く染まっていた。――あれは、ここへ越してしばらくしてから見た夢と同じだった。焦げた匂いも漂ってきそうな、今見ている光景を実際に体験しているのかと錯覚しそうなほど、やけに生々しい夢だった。
 過去にも受けた依頼の影響で何度か夢を見たが、ここまで現実味を帯びたものはそうそうなかった。
 深く息を吐いた。
 目を閉じると、先ほどの夢が脳裏に浮かぶ。途端に胸が苦しくなり、ゆるりと瞼を開ける。数回瞬きをすると、痛みで涙が流れそうだ。
 暗闇の中、遠くに視線をやったり反対に手元に動かしたりして気を紛らわせる。それでも何も変わらず、ほとほと困ってしまう。眠くて目が痛いほどなのに、眠ることができない。せめて目を閉じていようと思っても、黒かった視界にあの赤い色が広がってしまうのだ。これではどうにもならない。
 桔梗は荒々しく自身の髪を掻き乱す。ひとつに括っていた紐は眠るときに外してしまったから、俯くようにすると、頬に長い髪がぱさりとかかった。色素の薄い髪が燭台の仄かな明かりを受けて淡く光る。毛先が頬をくすぐるが、桔梗は微動だにしない。
 今どのような表情をしているのか、この場に誰かがいても、その様子をうかがうことはままならないだろう。
 瑠璃や玻璃がやってきたら、ひどく驚くに違いない。もしかしたら主の心配ではなく何≠ェいるのかと、彼女たちですら思うかもしれない。
 微かな明かりがなければ、暗闇と一体化してそこに潜むモノみたいだ、と。
 まるで他人事のように桔梗は考える。
「……」
 やがて顔をあげると、眉間にはわずかに皺がよっているものの、目には光が宿っていた。表情も落ち着いている。
「仕方ない、か」
 ぼそりと呟く声も普段と変わらない。
 そう、仕方がないのだ。
 仕事をこなしていく上で、いわゆる霊障に悩まされるのはよくあることだ。
 妖と対峙しているときだけでなく、今のように物に絡みついた念が夢という形で現れる話は兄弟子からも聞いていた。
 預かった水干の持ち主は火事にあったらしい。そのときの情景が過去に体験したものと混ざりあって再現されたのだろう。夢の場所はこの邸とも師匠の邸とも違う。けれどもどことなく懐かしいところだった。夢などを通して他人の身に起きたことを経験する、追体験という出来事は、術者ならば避けられない。
 いや、避けることは可能だが、それには己の霊力や精神力を高めなければならない。実力が身につけば、良からぬものは無意識に遮断できる。
 ふ、と息を吐いて、桔梗はゆっくりと身体を動かした。燻っていたものは綺麗にとはいえないが消えた。
 日が昇るまでまだまだ時間がある。眠れなくても横になっていようと立ち上がりかけたとき、敷地内に張り巡らせてある結界が反応をみせた。
 人が入ってきたことを知らせる、りん、という澄んだ鈴の音が桔梗の耳に届く。知り合いではない、もしくは招かれざる客の場合は濁ったような音が鳴る。そういう仕掛けがしてある。
 音が聞こえるのは術をかけた桔梗だけだ。もしかしたら神威はわかるかもしれない。だとしても術をかけた本人ではないから、かすかに聞こえる程度だろう。
 桔梗は門の方へ目をやった。
 今入ってきたのはおそらく忍だ。彼は影明と一緒に高彬を送ったその足で玄翔の邸へ向かった。少し借りるぞと、玄翔の式神が知らせてきたのだ。
 こんなに遅くまでの用件が少しばかり気になったが、もともと忍は玄翔に仕えていたのだ。今は桔梗についているとはいえ、代理の後見人のようなものだ。正式な彼の主は玄翔になる。主従の間で交わされたことに桔梗が首を突っ込めるわけがない。
「ん……と」
 長い間床に座っていたために凝り固まった身体をほぐすように動かしてから桔梗は立ち上がった。
 生きていれば壁にぶつかるのは当たり前。乗り越えるなり壊すなり、方法は自分で見つけるしかないが――側にいて支えてくれるひとがいるのだから。
 悪夢にうなされたばかりのときとは異なり、桔梗の口元には笑みさえ浮かべている。
 それが、突然引き締まる。
 瞬きを忘れるほど、忍のいる方角を凝視する。
 あまり嗅ぐことのない臭いが鼻をつく。――血の、臭いだ。
 瞬時にして青ざめ桔梗は走った。ばたばたと落ち着きのない足音がしんと静まり返っていた邸に響くが構っていられない。
 勢いよく走ったために止まるときも力が必要になる。利き足で踏み止まると、床が軋んだ。ぎっ、という耳障りな音は、何かの断末魔のように聞こえた。
 血の臭いが濃くなった。
 門はきちんと閉められておらず半開きだった。
「――っ」
 人の影も見えないのに、門が勝手に閉まる。そのような術はかけていない。
 だとしたら――。
 背中を嫌な汗が流れていく気がして、桔梗は身震いする。短く術を口ずさみ、右手に現れた小さな炎を掲げて辺りを見回す。
 門には血だろう。指で擦りつけたような赤黒い跡が残っている。
 視線を巡らせて、桔梗はぎくりと肩を強張らせた。門のすぐ横。壁に背を凭れるようにして、人がいた。左腕を押さえているその男から呻き声がする。
「……ききょう、さま……?」
 掠れた声は辛うじて桔梗へと届く。
「忍っ」
 汚れるのも構わず素足で飛び降りた桔梗は、忍の元へ駆け寄った。身動きするのも叶わない彼を抱き起こすようにすると、手にぬるぬるとした液体がついた。血だ。
「一体なにが……っ」
「桔梗様」
 騒ぎに気づいたのだろう。瑠璃が姿を見せた。
「こんな夜更けにどうなされたのですか」
 先ほど桔梗の手を離れた炎が、ふわりふわりと辺りを漂う。その明かりに照らされた瑠璃の顔がみるみるうちに色を失った。
「忍様!」
 慌てたように簀子から降りようとする瑠璃を押しとどめ、桔梗は声をあげた。
「瑠璃、薬箱っあと清水も!」
 とにかく止血しなければ。あとは――。
 桔梗は忍の身体を支えて立ち上がる。体格差があるために歩くのも困難だ。忍も辛うじて足を動かしているものの、ほとんど引きずっているようなものだ。一歩、二歩とよろめきながらふたりは邸へと戻る。
「……忍?」
 そっと声をかけるが、忍は苦しげに息を吐き出すだけで返事がない。閉じられていた瞼が震えわずかに開いたが、またすぐに下りてしまう。
 かなりの時間をかけて一番近い部屋へたどり着くと、瑠璃と玻璃が運んできた箱の中身をてきぱきと並べているところだった。
「桔梗様」
 玻璃がふたりに気づき、桔梗の反対側へ回る。忍の身体を支え、敷いてある褥へと促した。
 本当は、門の側に建ててある忍用の離れに行くのが体力的にも良かったのだが、術を施工するならやはり邸が良い。
 されるがままの忍は、寝かされたことで少し安心したのだろうか。わずかながら表情が和らいでいる気がする。
 一息ついた桔梗は、忍の腕を見やった。左の袖は肩のあたりから破れていた。下に着ている白衣も、鋭い得物で斬りつけられたのか複数の刀痕と真っ赤な血で見るも無惨だ。
 じっと傷跡を見ていた桔梗の目が細くなる。睨みつけるような探るような、そんな目つきだ。
 瑠璃と玻璃は主の邪魔にならないが、指示されたらすぐに対応できる位置に座り、見守っている。
「やはり……」
 桔梗の目には、忍の左腕に纏わりつく黒いもやが映っている。式神ふたりには視えていないようだが、主の様子から、察しているらしい。特に瑠璃は両手を胸の前で組むようにして固唾を飲んでいる。玻璃はいつも通り表情が変わらずわかり辛いが、彼女も心配しているのは雰囲気から感じられた。
 用意されていた小刀を手に取り、桔梗はそっと忍の左腕へと持っていく。白衣に刃を引っかけて、少しずつ切り裂いていく。肌を切らぬよう慎重に動かすと、びりびりと音を立てながら袖の部分が切れる。
 よく研がれた刃物はその煌めきを妖も恐れて魔除けにもなるのだが、今のこれは治療しやすくするためでしかない。霧散してくれればよかったのだが、腕を覆う黒い靄はそのままだ。
 次に桔梗は瓶子を手にした。中の液体がちゃぽん、と水音をたてる。中身はただの井戸水だが、式神のどちらかが用意している。祓いで使うには汲んだばかりの清らかな水であればあるほど良い。
 いつどのような事態になるかわからないため、毎日新しいものの準備をしてくれるのはとてもありがたい。
 桔梗は瓶子の中身を半分ほど忍の腕にかけた。水をこぼしながら口ずさむのは魔を祓う祝詞だ。血と混ざり、赤い水が流れて褥を汚す。
 寒い冬でもないのに、水をかけたところから湯気があがった。しゅうしゅうというような音もする。
 瓶子を置き、桔梗は次に白い紙を持った。やはり祝詞を紡ぎながら、手のひらほどのそれを、濡れた腕を覆うように貼りつける。
 変化は瞬く間に現れた。
 漂っていた黒い靄が、紙に吸い取られた。そうしてからも紙の中をたゆたうようにしていた靄はやがて活動を止めたのか、中央でひと塊りになった。桔梗は紙を外し、忍の腕にふたたび水をかけた。今度は何も起きない。
 濡れた腕を清潔な布で拭き取り、貝殻に入っている薬を塗る頃に、ようやく忍の頬に赤みがさした。それでも流した血の量を考えると、しばらくは安静にしていなければならないだろう。
「桔梗様。薬湯か白湯をお持ちしましょうか?」
「うーん。そうだね」
 靄を移しとった紙を手にしながら桔梗は思案する。
 怪我や具合が悪いときは忍が煎じた苦い薬が出てくるのだが、本人がその場合はどうしたものか。桔梗はしばし考えてから告げた。
「白湯かな。どれがいいのか、わたしではわからないし」
 薬草の知識はまったくと言っていいほどない。効果が弱めの薬は予備でいくつか預かっているのだが、飲むのは緊急を要したときだけだ。苦いのは嫌だから≠ニいう子供じみた理由なのだが――。
 やはり知識のない者が勝手な判断をするのはまずい。呼吸も落ち着いている。意識が戻ってから本人に指示を仰いでも良いだろう。
 その旨を伝えると、瑠璃は頷いて部屋を出ていった。
「さて」
 念のため目視で忍に変わった様子がないことを確認して、桔梗は座ったまま後ろへ下がる。だいたい三歩ほどの距離をとった。まだやるべきことが残っている。
 先ほど忍を苦しめていた黒い靄を封じこめた紙を左手にのせ、右手を重ねるようにする。
「――」
 囁くように術を紡いでいく。慎重に正確に。手の内に忍を負傷させた原因があるのだ。ここで失敗してしまったら元も子もない。
 桔梗の額に汗が浮かぶ。
 両手で挟んでいる紙がぴくりと動いた。しかしそれっきり、変化は現れない。
 内心焦る桔梗を、側に控える玻璃は静かな瞳で見つめている。
 一度唾を飲みこむように喉を鳴らして、桔梗は再度挑む。同じ呪文だが、先ほどよりもはっきりと、己の気も上乗せする。技術が不十分ならば、あとは気合で押し通すだけだ。
 封じた靄が抵抗を止めるか、こちらの気力が足りなくなるか。ここからは力比べだ。
 ぐっと腹に力を入れて、桔梗はさらに続ける。
 手のひらから逃れようとしているのか、内側から圧迫される。うっかり気を抜くと、組み合わせた両手が外れそうだ。術で押さえこんでいるというのに反発が強い。知らず知らずのうちに両腕に力をこめていた。桔梗の手に青筋が浮き出る。
「――」
 声は小さいけれども、腹の底からすべての気力を吐き出すようにして、桔梗は最初の術を完成させた。
 紙がぶるぶると振動するのにあわせて両手も震える。ぐっと口を引き締めてその衝撃に耐える。
 術は問題なく施行できた。しかしまだ安心するには早い。今現在も桔梗の手から脱出しようと暴れている。うっかり隙を与えてしまったら、押さえこんでいた反動が倍になってくるだろう。呪詛返しに似ている。
 自身の両手ごと紙を睨みつけ、桔梗は小さな声で術を重ねた。
 びくり、と紙が一度だけ跳ねた。それっきり動かなくなる。
「……」
 桔梗も動けないままでいた。どのような妖なのか、もしくは術なのか。長く紡いでいた呪文でその正体は判明したはずだ。本来なら紙にそれを表す文字が浮かび上がるだけなのに。紙が形を変えて、存在を主張している。
 隙間なく合わせていた桔梗の両手は、今は丸い物を手にしているかのように少し空間ができている。薄い紙が何らかの形に変化して、桔梗の手から抜け出そうとしているのだ。
 がさごそと紙特有の触感がして、少しだけ痛い。これが普通の小動物ならば可愛らしいとも思うが、相手はただの紙であり、自然発生した妖なのか術から生まれたモノなのか、まだ不明だ。かといって、いつまでもこのままでいられるわけでもなく。
 ごくりと唾を飲みこむと、桔梗はまた一歩分後ろへと下がる。皆からできるだけ離れようと考えて、ぎりぎりのところまで移動したのだった。
 本当なら別の部屋へ移ればよいのだが、正体不明のモノを手にした状態で動く自信がなかった。
 モノは今もここから出せと訴えている。
 歩くことに意識をやったら、封じる方が疎かになりかねない。いつの間にか戻ってきた瑠璃は主に視線を向けて、声はかけないほうが良いと判断したのだろう。そっと忍に近づき、白湯で湿した布を彼の唇にあてた。意識がはっきりとしていない者に水分を取らせようとしても飲みこめないし、最悪の場合は息を詰まらせる。しばらくの間は唇を湿らす程度が無難だ。
 桔梗はその様子を確認し、視線を手元に戻した。
 まずは部屋の結界を強化。次に自身の周りにも術の壁を作る。当然のことながら、式神たちには視えていない。しかし何をしているかは感づいているはずだ。表情の乏しい玻璃ですら、顔がいつもより強張っているように見える。
 下準備を済ませた桔梗は本格的に術を紡いでいった。手のひらが熱を帯び、徐々に熱くなっていく。内側からの圧迫に、重ねた両手が次第に隙間を広げていく。これは封じたモノが抵抗しているのではなく、その本質が明らかになろうとしているのだ。
 少しずつ熱も治まり、押し返すような力もなくなっていった。仕上げに最後の一文を口ずさもうとする。
 と――。
「いっ!」
 桔梗の集中力が途切れた。
 がりっと手のひらを噛まれて痛みが走る。その衝撃で、重ねていた両手も、張っていた結界にもわずかな弛みが生じた。
 身をくねらせて桔梗の手から抜け出たモノは、灰色の塊だった。小さなふたつの耳と長い尻尾を持つそれは、鼠の形をしている。しかし本物ではない。
 鼠は床に飛び降りて、口を大きく開けた。そこから血がこびりついた二本の鋭い牙が覗く。
 かめを割り砕いたかのような音が響いた。あっと思う間もなく、矢継ぎ早に音が鳴る。
「桔梗様っ」
 叫んだのは瑠璃だ。
 桔梗は咄嗟に術をかけ直す。が、ひと足遅かった。二重三重の目に視えない術の壁を難なく破り、鼠は建物の外へ飛び出し、すぐさま敷地内からも逃げてしまった。
 あれだけ念入りに結界を張ったというのに。
「桔梗様、血が……」
 瑠璃の心配そうな声がするが、桔梗の耳には届かない。
 暗闇に紛れて鼠が去っていった方角を、呆然と見つめるしかできなかった。



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