草木も眠る丑三つ時。 静寂を引き裂かんばかりの声が辺りに響く。 すでに原型を保っていない異形が、外法師に向かって長い爪を振り上げた。月明かりに照らされ、鈍い光を放っている。 振りおろされる寸前に彼女は後ろへ跳躍する。 鋭い爪が地面に突き刺さり地響きが起こった。衝撃で土が舞い上がる。あと一秒反応が遅れていたら、彩華の身体に複数の穴が開いていただろう。 素早く間合いを開けると、妖の出方をうかがう。 彩華を仕留められなかった事に悔しがって、歯をガチガチと鳴らしている。 ――まったく往生際が悪い。 彩華は剣印を結び、真言を唱えた。言霊は刃へと変じて妖へ襲い掛かる。妖の脇腹辺りを抉り、刃は音もなく消滅した。 鼓膜が破れるほどの咆哮。 今宵は町外れの森林公園へ追い詰めたから良かったものの、これが町中ならば近所迷惑だよねぇ……と、彩華はぼんやり思った。 「気を抜くな」 「わかってる」 距離を置いた彩華と妖の間に長身の男が割り込む。妖は一瞬躊躇したが、見た目に惑わされたのか牙を剥く。 妖気が詠を煽る。髪が乱れるのを気にせず、彼はただ見ていた。 恫喝している妖とは裏腹に、口元を僅かに緩ませ涼しい顔をしている。 再度、妖の爪が振り上げられた。が、目に見えない壁に阻まれ、詠には届かない。虚空で火花が散る。 緩慢な動作で右手をかざした。 穢れのない神気が妖気を凌駕する。 ――瞬きする間に決着はついた。 火にかけた少量の水のように、妖の体が蒸発する。わずかに残った残影が口惜しそうに揺らめく。 やがてそれも消えうせた。 手ごたえないな、と軽く乱れた黒髪を手で直しながら詠が言う。 「あったら困る」 そのせいで一度大怪我をしたんだから。もちろん自分の油断もあったけれど。 詠の横に並び、彩華は手を複雑な形に結んだ。 「天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄と 祓給う」 浄化の祝詞が終わると同時に、瘴気が消失する。 「あれ?」 目を凝らすと、妖のいた場所に何かが落ちている。 慎重に拾い上げ月明かりにかざす。月光を浴びてキラキラと輝いている。 丸い水晶玉だ。大きさは八ミリくらいで、真っ直ぐに穴が開いている。流行の数珠ブレスレットの一部だろうか。 「なんだと思う?」 「力を増幅させる為に飲み込んだ、ってとこか。結構質がいいなこれ」 人間が食事をして活動現力を得るのと一緒で、物の力を得る為に、妖は何かを飲み込むことがある。それは、呪具の場合もあるし、恐ろしい事に生身の人間の時もある。 「浄化済んだらお前持ってていいぞ。軽い爆薬代わりにはなる」 「うん――」 ひゅうと吹いた風に身震いする。もう春とはいえ、夜はまだ寒い。 いつまでもここにいたら風邪をひく。 寒さに両手を擦り合わせていると、彩華の手を詠が包み込んだ。しばらくそうして温めているが、彼女の手は冷えたままだ。よく見ると顔色も悪い。 術者は自身の精気を使用して術を発動させている。それは人間の血にもっとも多く含まれ、血が全身を巡る事で人は活動できる。精気の濃度が薄まれば、貧血のような症状が起きてしまう。 彩華は一人前の外法師として働いてはいるが、父や兄に比べれば、まだまだ半人前と言ってもよい。彼女もその事はよく分かっていて、力不足の依頼は受けないが、場合によっては無茶はしないが無理はする。 術者が増えれば個人の負担は少なくなるが、素質がない者の方が多い。退魔の力を持たない者はお札やお守りを求めるか、術者に調伏を依頼する事になる。 詠――月詠尊――は五穀豊穣の他に、黄泉を司る。 巣喰っている闇を完全に消し去るには、神の力をもって征するのが一番早く確実である。しかし強大すぎて陰陽のバランスが壊れる為、人に力を貸すくらいしかできない。彼が本気を出せば、妖どころかこの辺り一帯も消滅する。 それは分かっているし、いつも神頼みではマズイだろうと、最低限しか彩華は頼まない。 ――その割には、詠曰く「神使いの荒い」頼みもしているが。そこは等価交換。暗黙の了解である。 「少し休んでいくか?」 「平気」 二、三度深呼吸すると、彩華はにっこりと笑った。その頬には赤みが差している。 詠の掌が彩華の額にあてられる。精気は戻ったが、熱が出たようだ。 「抱えて飛んでいくか?」 「平気だってば」 少し心配性の相棒に彩華は苦笑した。深夜とはいえ、誰かに目撃されたらどうするのか。 「こんな時間に行動してるのなんて、同業者くらいだろう?」 「だから困るの」 空を飛べる術者なんて聞いた事がない。こちらが異形として退治されかけたら笑えないではないか。 冷えた身体を暖めるように軽く身体を動かす。もう大丈夫。 「ぐるっと一周して帰ろっか」 辺りの妖気を探り、もう何もない事を確認すると、二人は帰路に着いた。 |