少女がひとり丘に立っている。 目を伏せて、相手が来るのをじっと待っている。 ふと、何かに気づいた少女がぱっと顔を上げた。少し悲しげな表情は、見る間に笑みに変わる。 同じ頃、丘の近くを通りがかった馬車が速度を緩めて止まった。中には、白髪まじりの髪を丁寧に後ろへ流した初老の男が座っている。 従者の問いかけには答えず、じっと丘の上を見る。大きな指輪をはめた指で、眼鏡の蔓を軽く持ち上げた。 見た事のある娘だ。 ――この間、商いに行った貴族の使用人だったか。 普段は誰が何をしていようと気にならないが、この時ばかりは違った。 一緒にいる少年にも見覚えがあった。 貴族の三男とその使用人の娘。珍しい組み合わせに、豪商の男はしばらく様子を伺っていた。 年端もいかない少年が懐からネックレスを取り出す。金具を外すと、娘の背後に回り彼女の首にかけた。 踊り子のようにくるりと娘が一回転すると、茶色い髪と青の石がふわりと揺れる。 反射した光に一瞬目が眩み、男はしばし魅入った。 ――あの娘になど相応しくはない。 金でも積めば喜んで手放すだろう。なんせ、娘の家は貧乏なのだから。 男は顎に手を寄せ笑みを浮かべる。 やがて何事もなかったかのように自身の屋敷へと馬車を走らせた。 それは人を狂わす魔力を秘めていた。 欲に溺れる人間は、決して逃れる事ができない。 その魔性に翻弄されれば、残るものは、なにもない。 ◇ ◇ ◇ 月詠神社の保管庫に凛とした声が響く。 「吐普加身依身多女 寒言神尊利根陀見 波羅伊玉意喜餘目出玉」 ねっとりと肌に纏わりつく妖気を気にもせず、彩華は祝詞をあげている。 『――×××××××』 彼女の頭に直接聞こえてきたのは呪詞だ。自分を排除せんとする外法師に攻撃を仕掛けている。 彩華の右手の甲が裂けた。うっすらと血がにじみ出る。一度だけ鬱陶しそうに古ぼけた壷を睨めつけた。 初めは小刻みに震えていた壷が、次第に揺れを大きくし始めた。庫全体の空気が共鳴してざわつく。 傷がまた一つ増えた。 痛みに眉を顰めるが、構わず続ける。 ――術の掛け合いは、壷が割れた事で決着がついた。二つに割れ、四つに割れ……元の形など分からないほど粉々になる。最後の足掻きなのか、砂となったそれが音を立てて棚からこぼれた。 まるで断末魔だ。 先程の喧騒など嘘のように静かになってゆく。 砂をかき集めて座布団ほどの大きさの和紙に載せた。和紙には墨で浄化の祝詞が書かれている。指についた砂も全て払い、彩華は庫を出た。 しっかり鍵を閉めると本殿の裏へと回る。 置いてあったスコップで少し穴を掘り、先程の砂を流し込むと、元のように地面をならした。 あとはこの地に広がる神気が邪気を浄化し、付喪神の残滓である砂は長い年月を経て土に還る。 一息ついた途端に吐き気をもよおして彩華は口元を押さえた。 「気持ち悪……」 邪気にあたった。 本殿の壁に手をつき袴が汚れるのも構わずゆっくりとその場に座り込む。二、三回深呼吸すると少しずつ眩暈が治まってきた。 もう大丈夫だろうと立ち上がりかけるが、壁に寄りかかり目を閉じる。 「要修行、か」 詠は彼女の状態に気付いているだろうに、外せない用事があるのか、近づいてくる気配はない。 「ばかばか。伴侶が苦しんでるんだからすぐに飛んで来なさいよ」 荒い息と共に悪態をついたが、すぐに唇を噛みしめた。 理不尽な事を言っても仕方ない。一人前でない自分が悪いのだから。 こうして彩華の具合が悪くなるのは、今回が初めてではない。 月詠神社には悪しきモノが侵入しないように結界が張ってある。そして敷地内には神気が満ちている。万が一、妖の侵入があったとしても、邪気が削がれ浄化してしまう。 訳あって持ち込まれた物は祝詞後に庫で保管する。ここには邪気が外へ漏れないよう幾重にも結界を張ってある。しかし、陰の気は時折、容易く抜け出てくる。 一般人の彩華の母や、神社の参拝客は問題なし。父と兄は呪術者として一級だから、こちらも問題なし。 問題なのは、中途半端な能力を持つ者。 鍛錬すれば無意識に退ける事が出来るようになるけれど、わたしはまだまだだなぁ……と、自嘲気味に呟いた。 のろのろと立ち上がった彩華は、壁伝いに移動すると本殿へと入った。 薄暗いその中を、明かり取りから差し込む光を頼りに歩く。 中央付近で立ち止まると、彩華は正座した。彼女の目の前に御内殿があり、中には形ばかりの御神体が納められている。 本来納められるべき依り代は別にある。 彩華は襟元から首飾りを取り出し、赤い勾玉に触れた。桜舞うあの夜に受け継いだ、選ばれし巫女の証。 手の平で勾玉を握りこむと、無機質なそれが熱を帯びた気がした。 この場にいない彼の代わりに胸に抱きしめる。 「ばか……」 心に浮かぶ思いが消えるまで、彩華はただそうしていた。 そうして――どのくらいの時間が過ぎたのか。 彩華は何事もなかったかのように本殿を出ると、早歩きで境内を進んだ。 本殿と拝殿の境には柵が設けられていて、高村家の人間以外は立ち入り禁止になっている。外へ出るには一旦、自宅側へ回らねばならない。 仕方ないけど少し面倒だ、と思う。 建物の前で止まると、彩華は足の運びとは裏腹に、ゆっくり丁寧に引き戸を開けた。 「ごめんね。遅くなって」 「彩ちゃんお帰りー。今日忙しくないからだいじょーぶだよー」 授与所にいたアルバイトの巫女が振り返り、のんびりと答えた。 巫女の眉間に皺がよる。 「……少し顔色悪くない?」 「え……そう?」 そんな事をしても良くはならないが、彩華は慌てて頬を擦った。 「裏でもう少し休んだら?」 巫女は親指で後ろを指した。授与所の真後ろは巫女達の休憩室になっている。 「でも。今日は有紀ちゃんしかいないし……」 「いーから。忙しくなったら呼ぶから」 カーテンで仕切られた休憩室へと追いやられ、彩華はひとまず椅子に座った。 手が悴んでいるのに気がつき、緑茶を淹れた湯飲みで暖める。冷えた指先が痺れて血が巡りはじめた。 もう大丈夫かと湯飲みを置き、今度は自身の両手を擦りあわせる。 「あーっ。上月さん! ちょっとちょっと!」 カーテン越しに有紀の声が聞こえ、彩華は困ったように笑みを浮かべた。今日は巫女長は休みだからある程度は構わないが、神域で騒ぐのは好ましくない。やはり注意するべきなのだろうが、自分を心配しての事なので気兼ねする。 休憩室の引き戸が開いて、上月と呼ばれた男が顔を見せた。詠である。高村家の遠縁という事にしてあり、便宜上、苗字もつけた。 「どうした? 陰の気にやられたか?」 「少し……休めば治るから。忙しいんでしょ?」 「いんや。どちらかと言うと、暇」 苦笑しながら詠が言う。 「……そう……」 手が再び冷たくなった気がして、彩華は湯飲みを両手で持つ。 今度はなかなか温まらない。 気づいた詠が彼女に手を伸ばす。それに驚いた彩華は湯飲みを倒した。テーブルに緑茶がこぼれる。 「すまん」 「ごめん。ボケっとしてた」 台布巾で後始末をして彩華は溜息をついた。 駄目だ。落ち着いたかと思ったけれど、心が乱れてる。こんな時に調伏依頼がこなければいいけれど――。 思案していた彩華は、自身の右手を詠に取られた事に気がつかない。先程うけた傷をぺろりと舐められ、喉をひきつらせたような声をあげた。突然の出来事に驚いて詠の手を振り払う。 「神域で何するのよ」 他人には聞こえないよう声を潜める。神社で働く全員が知っている公認の婚約者≠ナあろうと仕事中にこういった事はよくない。 「俺の神社なんだから俺が何をしたって構わんだろう」 実に傲慢な物言いに、分かってはいたが呆れた。 この男、人の気も知らないで。あなたのせいでわたしは気持ちがくさくさしているというのに。 「井戸水で洗ったのか?」 本殿と保管庫の間に井戸がある。この井戸は、水脈が京都の神泉と繋がっていると言われているが、実際は距離がありすぎるから只の噂なのだろう。しかし大地の気が流れる龍脈は繋がっているのかもしれない。 僅かな瘴気ならば洗い流せる霊力あらたかな水が湧き出る為か、この水を狙った侵入者が時折、敷地内で倒れている。月詠尊特製の結界に邪念が耐えられなくなり気を失うらしい。 「洗ってない。急いで戻ってきたからそんな時間なかったもの。それに神域にいれば自然に浄化されるんでしょ」 少し刺々しい言い方をする彩華に、月の神は一瞬目を眇めた。だが、彼女の物言いに気にする様子はなく、寧ろ笑みを浮かべている。 「――どうした?」 穏やかな詠の声音に、彩華は唇をかみ締めた。 「なんでもない。ごめん。ちょっと虫の居所が悪いだけ」 「そうか」 幼子をあやすように彼女の黒髪を撫でる。 「じゃあ、機嫌が直るように美味しい物でも献上するかな」 「……それはアンタでしょう……」 わざとなのかとぼけた態度をとる詠に気が削がれ、彩華は僅かに微笑んだ。 |