たいじや -天青の夢- 二章 2.魑魅
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 井戸水を手桶に汲むと、ざばりと頭から被った。一瞬、冷たさに身を竦めるが、もう一杯水を汲んだ。
 月詠神社の裏手で禊潔斎(みそぎけっさい)をしていた彩華は、濡れた前髪が額に張りついたのを無造作に払い桶を置く。
 柔らかい黒髪は水分を含んで一層艶を増す。毛先を絞ると、水がぼたぼたと背中を流れ落ちた。その気持ちの悪さに彩華は身震いする。水に濡れた白衣が身体に張り付き体温を奪ってゆくのだ。夏ならばともかく、今の季節はまだまだ辛い。
 調伏退治前は必ず禊をしているが、普段はここまでやっていない。祓殿(はらえでん)で瞑想するくらいだ。
 本来ならば、精進潔斎は肉断ちやら潔斎食やら準備をしなければならないのだろうが、それでは突発的に舞い込んでくる依頼に対応しきれなくなる。神社の行事前は食事内容を考え、禊ぎを念入りに行うが無理しない程度だ。無理しすぎると今度は行事の最中に倒れる。当日は忙しく食事自体満足に取ることが出来なかったりもするのだ。
「――――」
 彩華は暫し考えるような仕草をすると、念のため、と再び桶を持った。先ほどの邪念を完全に振り払うには水を被るのが一番手っ取り早い。
 犬のように数回頭を振ると、水滴が四方に飛んだ。詠に見られたらみっともないと怒られるな、と彩華はうっすら笑う。
 近くに置いてあったタオルで水分を拭き取り井戸横の建物へと入ってゆく。彩華たちが祓殿と呼んでいる場所だ。彩華は少し薄暗いそこで、濡れた巫女装束を脱ぎ捨て服に着替えた。
 吸水性の良いタオルでガシガシと擦り、まだ湿ったままの長い黒髪をヘアクリップで纏める。本当はもう少し乾かしたい所だけれど、時間がないから仕方ない。
 彩華は無造作にタオルと巫女装束を掴むと祓殿を出た。
 祓殿と高村家自宅は繋がっているが、若干、雰囲気が違う。自宅も神社と同じ敷地内にあるが、神域と俗世くらいの違いがある。二つの建物は扉と廊下でしか仕切られていないのに、こうも差があるものなのか。
 廊下にあるランドリーボックスに持っていた衣類を放りこみ、玄関へと向かった。
「お待たせ」
 玄関の上がり口に腰掛けている詠に声をかけると、肩越しに振り返りつつ立ち上がる。
「寒くないか?」
 彩華の格好を見て眉を顰める。
「え? いつも大体一緒でしょ?」
 彼女の服装は、白い薄手のパーカーに濃い藍色のジーンズだ。中には赤いカットソーを着ている。冬場はコートを着たり、トップスがセーターに変わる。調伏退治の時は大抵同じような格好だ。動きやすさを重視して、色は魔除けの意味がある。
「服じゃなくって、髪」
 髪が濡れたままなのを指摘しているようだ。
「そんなに濡れてないし」
 何か言いたそうな詠を無視して外に出た彩華は、太陽の眩しさに目を細めた。
 まだ日は高く仕事≠するには好都合だ。出来れば逢魔ヶ時(おうまがとき)は避けたい。
 時間や時期に我が侭を言ってはいられないが、今日の調伏退治は依頼人が妖異をずっと放っておいた物件だ。時間が経過した分、霊力が増しているだろう。
 目的地は神社から近い。
 いつまでも家の前に立っていて不審者扱いされても困るので、彩華と詠は誰もいないのを確認すると庭へと回った。
 外から中の様子をうかがう。
「……やっぱり増えてるねぇ」
 雑魚とはいえ、数が半端ない。家の中心に向かって黒い渦が集まっている。
「数だけだ。大した事ない」
「うん。もうちょっと早く来たかったけど」
 以前からこの辺りを通る度に気にはしていたが、突然訪ねていって「霊障、起きていませんか?」などと聞く訳にはいかない。悪徳宗教だと思われるのがオチだ。
 最初は霊なんて馬鹿らしい、と言っていたこの家の主人だが、家族の様子がおかしくなったのに気がついて、慌てて相談にきたのだ。
 手遅れになる前で良かった。
 彩華は二階の窓をじっと睨みつけると、両の手で自分の頬をぺしぺしと叩いた。
「よし!」
 家主から預かっている鍵を使って玄関から足を踏み入れる。中は薄暗くてひんやりとしていた。
 (よど)んだ空気に彩華がしかめっ面をしていると、詠が二、三回拍手(かしわで)を打つ。それだけで雑魚霊は滅した。
 この家の住人は、必要最低限の家具を持ち出して今は別の場所へ避難している。硝子の破片が所々に落ちているのに気がつき、二人は土足のまま上がった。
「上、か」
 二階へと続く階段を見上げて詠が呟く。
 霊威は瞬間移動を得意とするモノもいる。今回場所は変わっていないようだ。
 先に詠が階段を上がってゆく。前方からひゅう、と風きり音が聞こえたと思った瞬間、詠の目の前でコップが砕けて落ちた。続けて額、花瓶……と複数飛んでくるが、全て詠の作り出した見えない壁に遮られる。
 がしゃん、と今度は彩華の背後で割れる音がしたが気にせずに進む。
 一階と比べると二階は薄暗く感じる。窓から日が差し込んでいるというのにだ。それだけ妖気が濃い。
「んー? 諦めたか?」
 のんびりとした声で詠が言う。
 突然攻撃が止まった。だからといって油断はできないが。
 詠の前へ出ると、彩華は真っ直ぐ目的の部屋へと歩いていった。
 問題のドアの前で立ち止まる。妖気は消えていない。が、確実にここにいる。
 呼吸を整えるとドアノブに手をかけ、用心しながら手前に引く。蝶番の軋む音がしてドアが開いた。
 暗闇の中から飛んできたランプシェードが彩華には当たらず落ちた。部屋中に浮いている家具が彩華を狙っているが、詠の作り出した結界は彼女を常に守っていてそれは叶わない。
「派手な叩音だな」
 上下左右で鳴るラップ音は気にせず、彩華は指を動かす。
「臨兵闘者皆陣烈在前」
 淀みない詠唱に慌てたのか、妖のたてる音が激しくなった。
 天井から吊られている照明が割れる。この家だけ地震がきたかのように、家全体が音をたてて揺れた。
 滑らかな指の動きは止まる事はなく、ひとつひとつの九字真言が妖をがんじがらめにする。
『ギ……ギギ……』
 妖は耳障りな声を出して抵抗しているが身動きができない。
 振り下ろした剣印から真白い閃光がほどばしった。浄化の光は妖を飲み込み瞬時に消えてゆく。
 光に眩んだ目が慣れた頃には瘴気はすっかり消え、後には中身の抜けた人形が残っていた。
 彩華は数回瞬きすると、床に落ちている人形を拾い上げる。
 彼女の唇から紡ぎ出されていく浄化の祝詞に人形が光に包まれる。それが消えうせると、そっと机の上に置いた。
「任務完了、っと」
「一体どこで買ってきたんだ? これ。たいした(もの)は憑いてなかったけれど」
「海外出張のお土産らしいよ。……こら」
 指で人形の額を弾くような仕草をする詠をたしなめる。
「壊れたらどうするのよ」
「壊れんよ。作りは立派だな」
「はいはい。終わったんだから遊んでないで帰るよー」
 ざっと家全体を霊視するが、他に問題はないようだ。
 放っておくといつまでも悪戯していそうな詠の腕をとって、彩華は依頼人の家を出た。

 二人が神社へ戻ってくると、夕焼けに照らされた鳥居の前に彩華の見知った和装の女が立っていた。
麻布都(まふつ)?」
 彩華の声に麻布都が振り返った。
「今日は仕事?」
「うん。そう」
「久しぶりね、詠」
 笑顔を見せる麻布都とは裏腹に、詠は眉間に皺をよせた。眉がつり上がり、見るからに機嫌が悪そうだ。
「なにしにきた」
「彩華にお願いしたい事があってね」
 重い声音に気がつかないのか、麻布都は笑みを浮かべたままだ。
「わたしに?」
「――面倒な物持ってくるな」
 低い声で吐き捨てた詠は、彩華の呼び止めに一度も振り返らずに行ってしまった。
「今日は夕飯抜きにするぞーっ! まったく……ごめんね。あとでシメとくから」
「いいのよ。彩華の事が心配なのよ」
 くすくすと笑う麻布都は、詠の態度を気にしていないようだ。
「立ち話もなんだからあがってって」
「ううん。すぐに済むから。これなんだけれど」
 麻布都は持っていた袱紗(ふくさ)を少しだけ開く。中には以前霊石屋(れいせきや)で見た群青色のネックレスが収められていた。
「これをね、預かってほしいの」
「それはいいけど。でも誰かからの預かり品なんでしょう? たらい回し……って訳じゃないけど、最初の依頼人以外の手に渡しちゃっていいの?」
 自分ならあまり良い気はしない。彩華がその事を伝えると、麻布都の表情が少し(かげ)った。
「本来の持ち主は古い時代の人なの。骨董品を扱っているお店を転々としてね。先日私のところへきたのだけれど……最後は彩華の元にあった方が良いと思ってね」
「分かった」
 時折、少々問題のある物品を目にしている麻布都の第六感は馬鹿にできない。彼女が自分の所へ持ってきたのならば、それが一番良い方法なのだろう。
 そう思うと彩華は袱紗ごと受け取った。ネックレスなんて身につけるものが重くては困るのだが、ずっしりとした存在感だ。
 ついこの間見た時は感じなかったけれど……と口の中で呟く。
 再度家へあがるよう勧めるが、麻布都は丁寧に断ると、茜色に染められた街に溶け込むように消えていった。
 しばらく後姿を見送っていた彩華は、袱紗を胸に抱えると鳥居をくぐった。
 授与所はすでに閉まっている。
 今度埋め合わせしなくっちゃ。有紀ちゃんに悪い事したな、と彩華は独りごちた。
 一度自宅へ戻ると保管庫の鍵を手にする。
 詠はどこへ行ってしまったのか見当たらない。いくら神様だからといって、あの態度はない。やっぱり夕飯抜きにするか……と思いながら自宅裏へ回った。
 頑丈な鍵を開けると庫全体が揺れた。先に保管してある器物がざわついている。彩華が短く言葉を発すると、何事もなかったかのように静まり返った。
 中は薄暗いが電気も点けずに空いている場所を探す。入り口に近い所が空いているのに気づき立ち止まる。
 彩華は少し考え、袱紗からネックレスを取り出す。そっと布の上に置いて祝詞を唱えはじめた。
「受け取ったのか」
「わー! ……びっくりした。いきなり後ろから声かけないでよ」
 真後ろに立っている詠に強い眼差しを向ける。
「気配に気づかないお前が悪い」
「ふんだ」
 中途半端になった祝詞を最初から唱えなおすと、まじまじとネックレスを見つめた。
「曰くつきには見えないんだけどねぇ」
 持ち主の念は感じるが悪心は感じない。いや、もしかしたら自分だけが分からないのかもしれない。
 だって――深い青から目が離せない。
「……魅了されるぞ。気をつけろ」
「うん」
 石は人の意思。
 人の想いを吸収し増幅し、時に放出する。呪具として使われた物以外にも、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が憑きやすいものだから特に気をつけろ、と幼い頃から言われ続けた。
 神の降りる場所を磐屋(いわや)≠ワたは磐戸(いわと)≠ニ呼ぶように、古の時代から神と石と人は切っても切れぬ関係である。人の願いを叶えるための媒介物となりやすいのだろう。
 青い石に魂を抜かれる感覚に陥りそうになり、無意識に左手に指を這わせた。彼女の手首には数珠型のブレスレットが着いている。これには特殊な加工と術がかけられていて、持ち主を守る宝具ではなく、力が暴走した時に術者を殺めるための呪具になる。
 無機質な感触に意識が戻った彩華は、たった今思い出したかのように詠を睨みつけた。
「ところで麻布都に今度謝りなさいよ。わたしの友人に対して失礼な態度取ったら許さないんだから」
「仕方ないだろう。あれとは相性が悪い」
 どこかで聞いた台詞を仏頂面で吐き出す詠に、彩華は苦笑いをするしかなかった。



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