たいじや -天青の夢- 二章 3.想念
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 走る。走る。月明かりしかない夜道を走る。
 ひたすら走って――荒い息を整えるために立ち止まった。
 数回深呼吸をすると、今来た道を振り返った。遠くにいくつもの松明が見える。先ほどより数が増えている気がした。

 ――どうしてわたしが追われなければならないの?

 途中にあった井戸水を使ったけれど、血に染まった手と服は、いくら洗っても綺麗にならない。
 そんなつもりはなかった。ううん。ああするしかなかった。だって、無理矢理盗ろうとするんだもの。
 ポケットにしまった大切なネックレスを取り出す。

 ――わたしはただ、わたしの持ち物を取り返しただけ。

 金に物を言わせて権力に物を言わせて。わたしたち召使の主張は認められず、泣いて諦めるしかないなんておかしいじゃない。
 耳元で囁かれたあの声に唆された訳じゃない。
 これはわたしの意志。
 どうしてわたしが追われなければならない?
 血に塗れた瑠璃は爛々と煌めいている。――そう。間違ってなんかいない。
 ネックレスを目の前にかざす。振り子のように揺れて、深い青にちりばめられた金砂が妖しく光った気がした。
 これはわたしの物。誰にも渡せない。
 月の光を反射しているそれに目を奪われていた。夢中になって、背後から草を掻き分ける音が近づいてくるのに気づけなかった。
 振り返る前に銃声。なに?

 ――どうしてわたしは殺されるの?

 赤く燃える炎と猟銃を構える男の姿。
 ラピスラズリのネックレスが手から滑り落ちた。
 わたしが最期に見たのは、わたしの血を吸って満足そうに輝いている群青色の石だった。

 だめ。かえして。あのひとからもらっただいじなものなの。
 どうしてわたしはころされるの?

わたしはただ 好きな人と 幸せになりたいだけ



「――――っ」
 真夜中に吐き気をもよおした彩華が飛び起きた。彼女の寝着は、まだ寒い季節だというのに汗で湿っている。
 昨日きちんと閉め忘れたのだろう。カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。枕元の目覚まし時計は午前二時を指していた。
 はぁ……とため息をついた途端、また吐き気が彩華を襲う。感触の悪いモノが身体中を這いずり回っているようだ。
 目眩がする。胃がムカムカする。肺が圧迫される。
 邪気が皮膚から体内へ侵入してくる感覚に息が詰まり、ごほごほと咳き込んだ。左手で自身の胸を擦ってみるが治まる様子はない。冷たい水でも飲んで落ちつこうと彩華は慎重にベッドからおりた。
「――ぁ」
 彩華の足取りは不安定なスプリングの上を歩いているようにフラフラしている。足がもつれて倒れ込みそうになった身体を男の腕が優しく抱き止めた。
「大丈夫か?」
「えい?」
 目が霞んで見えないが、よく知っている気配だ。
「すまん。ちょっと散歩してた」
 彼の反応が遅れたのは少し離れた場所にいたためらしい。一度ベッドの端に座らせ、詠は彩華の背中を撫でた。
「水持ってくるか?」
「いい……」
 掠れた声で答えると詠の胸に顔を埋めた。深呼吸すると月詠尊の澄みきった神気が身体中を巡る。
 ひんやりと感じる彼の神気に、荒かった彩華の呼吸が徐々に安定してきた。
「……あれが持ってきた物のせいか。返してくる」
 低く鋭い声音に、詠の背中に回した拳で弱々しく叩く。
「なに言ってんの。一度預かったのに返せるわけないでしょ。慣れれば平気」
 保管庫には幾重にも結界を張ってあるというのに、陰の気はたやすく抜け出てくる。特に人の想いというのは、ときに神の力をも上回り、中途半端な能力を持つ者は陰の気に翻弄されてしまう。
『ここから出せ』『呪い殺すぞ』ならばまだいい。分かりやすくて無視もできる。
 物に染みついた想いが術者に夢を見せ、自分の無念を晴らせ、どうにかしろと訴える。
 霊感体質者が憑依されてしまうのとよく似ている。退けられなければ、よくて操り人形。でなければ発狂して死に至る。
 特に注意が必要なのはアンティーク物である。元持ち主の心情が染みついたそれは、長い年月を経て凶悪な付喪神へと変化する事もあるからだ。だから月詠神社ではアンティーク物は手元に置かずにあるべき場所へ返すよう勧めている。
 情に訴えた妖の説得は性質が悪い。優しい人間を騙して封印を解かし、あげく肉体を乗っ取る、なんて行動はよくある事だ。
 そういえば、と自身を襲う邪気と戦いながら、彩華はぼんやり考えた。
 中途半端な能力を持つ術者は、今の自分と同じように苦しんだのだろう。生まれながら持った才能の差があるとはいえ、現在最前線で活躍している術者は、最初から難なく退けられたんだろうか。
 たとえば彩華の実兄。
 彼が苦しんでいるのを彩華は見た事がないと言い切れる。
 自分の知らない所では苦労したのかもしれないが、記憶を辿っても覚えがない。
 やはりわたしがダメダメなだけか。
 自己嫌悪に陥ったところで、これだけはっきり考え事できるのだから邪気は消えただろう、と彩華は身じろぎした。
「もう、いいよ」
 肺に溜まった邪気と神気が綺麗に入れ替わり、彩華の呼吸が規則的に変わっていった。
 もう大丈夫だ、と思い、詠から離れようともがくが、回された腕に力を込められ動けなくなる。男の肩に両手を置いて押し返そうとするがぴくりとも動かない。
 彩華がくぐもった声を出すと、少しだけ力が緩んだ。
 身体は平気だ。ちょっとだけ心臓に棘が刺さったようにチクチクしているけど。これは最近ちょっとだけ疲れている気がするから、気が弱くなってるだけだ。カラ元気も元気の一種なんだから――。
「……なんだ? 言いたい事があるなら言わなきゃ俺には分からないぞ」
「なんでもないってば」
 神気を身体中に取り込み、心も軽くなった気がして、彩華は少しきつめに答えた。
 離れようとしたが、腕を背中に回されたままで動けない。彩華が不服そうに見上げると、詠は薄く笑って言った。
「まだ少しこうしてろ。お前は半人前なんだから素直に聞いとけ」
 再び顔を埋めるような格好で抱きすくめられた彩華は、しばらく抵抗していたが、諦めて力を抜く。
「…………」
「ん?」
「なんでもない」
 かすかな呟きは聞こえなかったようだ。その事に安堵して、しかし同時に情念がとぐろを巻いている状態に気がつき唇を噛む。
 夢で見た女の想いが彩華の心臓をちくりと刺す。
 気持ちは痛いほどよく分かる。が――。
 それと同化してしまったら危険だと気づいていても、突っぱねる事はできない。
 女としての想いと外法師の立場に板挟みになって、胸が痛みを増してゆく。胸の奥に燻っている感情を押さえ込むように、詠の背中にしがみついた。
 優しい声がひどく心に沁みる。



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