生温い風が彩華の頬を撫でた。 三階まで何なくたどり着いた。正直助かった、と彩華は吐息を漏らす。 符を多く持ってきたが思った以上に使ってしまった。いざとなれば切り札はあるが、使わないに越したことはない。 小さく言葉を発すると、彩華の指に青白い炎が灯った。神気でできた鬼火のような物だ。それを掲げて辺りを照らした。 炎が燃え尽きる三十秒くらいの間にこの階を確認する。 途中、出会った妖たちは先ほどの調伏を見ていたのだろう。彼女が姿を現すと、慌てて闇に紛れた。 それでも、離れた場所からぎらぎらとした赤い目で仲間を排除した外法師を睨みつけている。 隙あれば攻撃しようとしているのかもしれない。 懐から符を一枚取りだそうとして――やめた。 陰陽の均衡を無駄に崩す訳にはいかない。外法師に恐れをなして他へ去るのならばそれでいい。異形の力が一カ所に固まらず分散されればそれでいい。必要ならば月詠尊が全てを浄化するだろう。 妖から目を逸らし歩き始める。 その時を待っていたのか。背中を向けた彩華に、一匹が牙を剥いて飛びかかった。 ポケットの中にあった珠を掴み取るや否や一気に力を解放する。 「斬」 鋭い音がしたかと思うと、黒いモノが千々に破れ去った。 一度だけ耳障りな叫びが上がったが、他に命を捨てようとするモノはいないようだ。 暗闇に浮かぶいくつもの赤い光を一瞥すると、彩華はふたたび歩き出した。 ヒールのある靴ではないのに足音が響きそうなほど静かだ。自分の心臓の音まではっきり聞こえそうだなと彩華は薄く笑う。 目を凝らすと廊下の奥におどろおどろしい雰囲気を纏ったドアが見える。 それにしても――胡散臭い連中は、どうしてこんなに気味の悪い場所を選ぶのか。 場の雰囲気が、本来持つ気≠真逆に作用させたり増したりできると聞いた事があるが理解できない、と彩華は顔をしかめる。 そうこう考えているうちに目的のドアへと着いた。 一度瞬きして霊視する。何か仕掛けられている様子はない。それでも慎重にドアノブを回す。 「――?」 少し開いたところで止まった。何かがドアの前にある。 今は妖の気配は感じない。彩華は強めにドアを押した。 ごろりとその何かが転がる。 「っっ!」 不意をくらって彩華はおもわず肩を揺らした。 人の足だ。靴の大きさから判断すると、男。 喉を鳴らすと、彩華は人ひとりが通れるスペースを開け、するりと身を滑り込ませた。 倒れている男の頸動脈あたりに指をあて、ほっと胸をなで下ろす。男は気絶しているだけだ。しばらくすれば目を醒ますだろう。 彩華は男から離れると部屋の中を確かめる。 家具らしいものは古ぼけた木の棚とテーブルだけ。怪しいモノを扱う男も、ここで生活する気にはならないようだ。 棚に近づき一つずつ霊視する。 この男のような商人たちならば「まだ熟していない」と言うだろう。お近づきになりたくない物ばかりだが、あるだけで災いをもたらすモノはない。 「――ない?」 違和感に彩華が呟いた。 麻布都は、最近よくないモノを手に入れたらしい、と言っていなかった? では、それはどこにあるのか。 指に松明代わりの炎を灯らせ再度確認する。 呪詞の書かれた符、ウズラの卵ほどの大きさの青い原石、群青色の小さな珠、最高級品と思われるビスクドール、札で封がされた壷……特に気になる物は見あたらない。微量の邪気は感じるが、この程度ならばすぐに浄化できる。 「まさか、もう誰かに売ってるとか……」 だとしたらまずい。呪具が「熟して」誰かの手に渡っているのなら、自分の手におえないかもしれない。 入り口付近で倒れている男を叩き起こして問いただすか……と、彩華が思ったその時。 窓のない部屋なのに、空気の流れが変わった。 それまで感じなかった妖気に、彩華の身体がぴくりと反応する。 徐々に邪気が色濃くなってゆく。 唇を噛んで自分を叱咤する。上手く隠されているのに気づけなかったのはわたしのミスだ。 棚の中央に鎮座している原石が小刻みに震えだした。その大きさには似合わない強大な妖力を漂わせている。 霊視しただけでは判断できないが、サファイアだろうとあたりをつけた。 万物は善と悪の両方備えている。聖なる天空の青を象徴するサファイアであるが、邪悪な呪具に作り変えられたのだろう。一部の地域では不幸をもたらす凶星の土星の石≠ニも呼ばれているのだ。 顎をひいて、一カ所に集まる邪気から視線を外さずいつでも動けるよう身構える。 均衡を先に崩したのは妖だった。 何の前触れもなく、突然の重力が彩華を襲った。床に沈みかけそうになるのを必死に耐える。 妖が人の型をしていたならば、口を歪め嗤っているにちがいない。 『取引をしよう』 頭に直接語りかけられる声に、彩華は青玉を見つめる。 『お前の望みを叶えてやろう』 望みなんて、ない。 『お前の望みはなんでも叶えてやろう』 妖は自身の力を増幅させるためにさまざまなものを取り込む。 人の精を喰らい、霊力の糧とする。しかし神の加護を得た者は、強い守りもしくは強靭な精神を持っている。妖はそれを崩そうとして揺さぶりをかけてくる。 よって常に強い意志と覚悟を持て、と。 彩華は幼いころ何度も聞かされた言葉を思い出して唇を噛んだ。 このような怨霊退治を生業としているのだから、死ぬ覚悟はとうの昔にできている。なのに震えが止まらない。 「そんなもの……」 問いかけに答えてしまえば術に捕らわれる。分かっていたのに言葉が漏れた。 『あるだろう? たったひとつ』 彩華の右手が震えた。 瞬きもせずに凝視する。 目に見えない手が自分の髪を撫でている気がして、彩華は一歩後ずさった。 『叶えてやろう』 また一歩。 突然、彩華の身体が硬直する。 捕らわれた、と認識した時はすでに遅かった。 妖の嗤う声に耳を塞ぐ。 しかし彩華の身体がびくりと震え、彼女の意志とは関係なく腕が下へ落ちた。 金縛りにあったかのように、唯一自由な目だけを動かす。 「望み……」 ――ある。ひとつだけ。 妖しい光を放つ妖を見つめる彩華の目は、幾分か虚ろだ。 「そんなの、自分でどうにかする。あんたの力なんて、借りない」 脳がとろけそうになるのを必死に耐えて、彩華は妖を睨みすえる。気を抜いたら一気に取り込まれそうだ。 気を紛らわすために強く握った掌に爪が食い込むが、彩華は痛さに構わずさらに力を入れる。 不快な笑い声が室内に響いた。 『一人でどうにかできるのか? できないだろう。だからその力と引き換えに望みを叶えてやるというのだ。他の誰も関与しない、お前だけの願望を』 ひとの弱みを見つけて、ひたすらそこにつけこむ。 妖が望む通りの夢を与えてやると持ちかける。だが、それは甘い毒だ。心地よさに身を委ねたら最後。甘い甘い夢の中で自分が死んだことも分からず、妖に魂を喰われるか、転生もできずに永遠に彷徨い続けるかだ。 ――わたしはただ、あの人と幸せになりたいだけ――。 いつか感じた思念は……あれはわたしの願いだ。気がつけば常に傍にいる存在が大きくなりすぎている。見捨てられたら、たぶん発狂する。 きつく握っていた彩華の手が緩む。腕をだらりと下げ微動だもしない。 元々は神の気まぐれで一族と契約したのだ。月詠尊と関係があった訳ではない。神は本来、何ものにも制約されない自由な存在である。いつでも立ち去ることができる――。 彩華の身体がゆらりと傾いた。 |