たいじや -鏡の月- 4
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 澱みない口調で神呪(じんしゅ)が紡がれた。
 言霊にあわせて彩華から放出される純粋な霊力が大きく広がり、その場の瘴気を一気に消し去った。
 目の眩む白銀の閃光が辺りを覆いつくし、それが消失すると柔らかな陽の光が窓から差し込む。
「よし、完了」
 仕上げにぱん、と手を打つ。小気味いい音が響いた。部屋を見回した彩華は後ろを振り返る。
 ドアの影から、この家の住人が不安げに覗いていた。彩華が全て終わったと伝えると、緊張が緩んだのかその場に座り込んでしまう。慌ててその身体を支えると、最初に通された居間へと移動する。
 はっとして、深々と礼をとった依頼人の顔には焦燥の色があった。全身の力が抜けたような状態のまま放って帰る訳にもいかず、落ち着くまで傍にいることにした。
 この辺りは比較的平穏な場所だ。問題のモノは綺麗さっぱり祓った。よほど悪質な呪具でも置けば話は別だが、普通に暮らす分にはもう心配はない。
 やがて気持ちが静まったのか、青ざめていた顔に赤みが差したのを確認した彩華は依頼人の家から退出した。
「あ……ちょっと疲れたな」
 たいした力の持ち主ではなかったが少し眩暈がする。
「どこかで休んでいこうかなぁ」
 心なしかお腹が減っている。
 食事はすべてのエネルギーの源だもんねと思いつき、彩華は苦笑した。思考がまるでうちの御祭神のようだ。一緒に暮らすうちに似てしまったのかもしれない。
 一番良い回復方法は神聖な力が溢れる霊地へ行くことだ。特に色濃い緑は清浄な空気を生み出しやすいのだ。かといってどこでも良いわけでもない。彩華の場合もっともしっくりくるのは、やはり生まれ育った月詠神社になる。
 立込むときは怨霊退治ごとに帰ることはできないし、出先で手っ取り早く回復するには食事をするのが効率よい。
「……やっぱり帰ろう」
 今日は特別寄りたいところもない。早く休めるならその方がいいだろう。
 張り詰めた筋肉をほぐすように肩を動かしてから、彩華は四方をちらりと見やった。念のためと外から今一度霊視し、その場を後にした。

 太陽が西に傾き、空が赤く染まり始めると、遊びに興じる子供たちの声がまばらになってきた。
「おーにさーんこーちらー。てーのなーるほーうへー」
 鬼ごっこをしているのだろう。歌うように掛け声をあげる子供の声に懐かしさを感じて彩華が微笑んだ。広くて動きやすい境内で、幼い頃よく遊んだものだ。隠れるために友達と本殿へ侵入しようとしたところを父親に発見されて、ひどく怒られたのを思い出し苦笑いする。
 今は近所に住む子供の数も少なくなり、遊ぶ声が聞こえることも滅多にない。
 声のする方に目を向けるが、子供の姿は見えない。徐々に遠ざかってゆく声を名残惜しそうに見送ると、自宅へ向かって歩き出した。

  鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  黄昏 手招き 子守唄
  かがめの影には つつしみて
  常夜(とこよ) 現世(うつしよ) 端境(はたさかい)
  鬼さんこちら 手の鳴るほうへ――

 子供が言うには物騒な言葉の羅列に立ち止まった。
 呪詞(じゅし)の類ではないようだがあの世とこの世が入れかわるから、鏡の影に気をつけろ≠ニは、穏やかでない。
 注意深く周囲の気配を探った彩華は、妖の気配を察知して勢いよく振り返る。――が該当するモノはいない。
「……気のせい……?」
 歩きかけ、突然訪れた静寂に足を止める。
 静かすぎて耳鳴りがするほどだ。それに、不思議なくらい人気がない。
 背中を冷たいものが流れてゆく。景色はよく見知ったものだが、異空間に取り込まれたのかと彩華は神経を尖らせた。
 だがすぐに肩の力を抜いた。感じるのは神の霊気に似ている。
『鬼だ』
『鬼じゃ』
 可愛らしい子供の声が背後から聞こえた。
 ゆっくりと振り返った彩華は、目線を下げる。声の主を視界に捉えると顔をほころばせた。そこには年の頃は五、六歳くらいの、真っ白い着物を身につけた子供がふたり立っていた。髪も肌も透き通るように白く、目が赤い。
『そなたに鬼が憑いておる』
『憑いておる』
「鬼?」
 彩華が首をかしげると、ひとりの子供の目が光った。
 子供は笑いながら屈むと、彩華の足元に右手を伸ばし、何かをつまみ上げた。モグラに似た黒い影が逃げようと身を捩っている。そのモグラがしゅうしゅうと音をたてて牙を剥いた。時折、口から瘴気が漏れてくる。
 子供が目の前にそれをぶら下げると、まるで鏡のように赤い目に妖の姿が映った。
『いただきます』
 子供が顔をあげると、顎の辺りできっちりと切りそろえられた真白い髪が揺れた。
 右手を高く持ち上げて大きく口を開く。口の中へ落ちた妖を、喉を鳴らして飲み込むと満面の笑みを浮かべた。
 食事にありつけなかったもうひとりはその様子を興味深そうに見ている。
『うまいか?』
『うまいぞ』
『いいなぁ』
 小さな口から覗く舌先は二股に分かれていた。
『もう一匹おらんかなぁ?』
『――おらんなぁ』
 きょろきょろと辺りを見回して残念がっている。
「ありがとう。今のどこから拾ってきたんだろう」
 疲れているせいか、まったくわからなかった。
『まだまだじゃのう』
 ふたり揃ってにんまりと笑みを浮かべた。得意げなその姿は小動物を思わせてとても微笑ましい。
「うちの祭神にもよく言われます」
 一生懸命首を反らせて見上げている姿が苦しそうなのに気がつき、彩華は膝を折って目線をあわせる。
『我らかが(・・)の目は何でも映すぞ』
「かが?」
『んーと……今の言葉で言うと、蛇のことじゃ』
『そうじゃ』
 くりくりとした愛らしい蛇の瞳が光を反射した鏡のように一瞬輝いた。
 つぶらな瞳がじっと彩華を見つめ、
『――そなたの神は今不在か?』
「ええ。……そうです」
 急に問われた彩華は目を伏せた。
『なに。じきに戻られるであろう』
 赤い瞳が優しい光を放った。
 気を使わせてしまったかと少し笑って彩華は話題を変えた。
「ふたりは、どこから?」
『あっちじゃ』
「あっちって――空輪山(くうりんやま)?」
『そうじゃ』
 月詠神社のある蓮見(はすみ)市は、首都機能が置かれている都市中心部から少し離れていて緑樹が多い。
 神社から北西に位置する場所に空輪山公園≠ニ呼ばれる小山がそびえ立っている。元はただの山であったが、数十年前に整備されて公園として開放された。春には、敷地内に植えられた桜が一斉に咲きほこり、毎年見る者の目を楽しませている。頂上までの人道には桜の木が植えられていて、桜の綾なす花回廊は見事だ。
 遠くから見ると宝珠のような形をしているため、地元住人には桃のお山≠ネどとも呼ばれている。
「あそこには祠とか神社ってなかったような……」
『昔はな、あったのじゃ』
 彩華の呟きを聞きつけて寂しそうに顔を曇らせた。
 昔は山や森など自然を畏れ神社≠ニみなしていたが、今はたいてい社殿が設置されている。安全祈願のために山にも造られることが多いのだが、空輪山は聞いたことがない。
「昔はあった?」
『小さな祠であったがな。御霊は入っていなかったから我らが使用していたのだ。あれはなかなか居心地が良かった。人道から外れているから、いつの間にか忘れ去られて損壊したままなのじゃ』
『かといって他の土地へも行けぬからのぅ』
 どうやらふたりは蛇神ではなく空輪山に生まれ落ちた精霊のような存在らしい。移動はできても拠点となる住処は変えられないということなのか。
『そなた、簡単なものでよいから我らの祠を創ってくれぬか?』
『欲しいなぁ』
 ふたりの目には期待の色が浮かんでいる。
「うーん……難しいなぁ」
 勝手に神社や祠を創る訳にはいかないだろう。
 神社庁に無断でもいいのかわからないし。でも属さない神社ってのもあるんだっけ……?
 期待と希望に輝いている瞳を無視することもできずに、彩華は頭を抱えて悩んだ。
「神の降りる場所を創って、結界張るくらいなら大丈夫かな」
 別に、目に見える身体が中に入れるような建物は必要ないのだ。外部と切り離した神域ができればいいのだから。それに、一介の外法師ができることはその程度だ。
『それなら、祠のあった場所に大きな岩があるぞ』
 このくらいじゃ、とひとりが両手を広げた。その大きさはマンホールくらいだろうか。
「じゃあ、その岩を利用して。どこまでできるか心配だけれど、それでいいのなら」
 しばらく唸ったあとで彩華が答えた。
『十分じゃ!』
『あとな、供物も欲しいのじゃが……』
 上目遣いでおずおずと見上げる仕草に笑顔で頷く。
 嬉しそうな声があがった。
 手を取りあってくるくると回りながらはしゃぐ姿に、彩華はさらに笑みを濃くする。
『楽しみじゃなぁ』
『本当になぁ』
 そう言うと、まるで吸い込まれるようにふたりは夕暮れの空へと消え失せた。
「――ふぅ」
 姿が見えなくなると、遠くで自動車の走り去る音が聞こえた。
 結界用の玉石はうちにあったはず。あと必要なのは――。
 思案しているところでクラクションが鳴った。道路の中央に突っ立っていたのに気がつき、彩華は頭を軽く下げながら端へ移動する。
「半人前が安請けあいするなって怒られそうだけど」
 乾いた笑いを力なく吐き出す。
 彼が戻ってきたときに結界の綻びがないかの確認を、どうやってお願いしようかと思いあぐねた。


※補足説明※
端境:正しい読みは『はざかい』
語呂が悪かったので『はたさかい』としました




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