たいじや -鏡の月- 5
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 濁った暗褐色の影が蠢いた。
 辛うじて人型をとってはいるが、ソレは腐臭がしそうなほど朽ちて見える。
 嫌悪感を露にして、女は異形の顔のあたりを睨みつけた。対峙しているその顔に恐怖の色はない。
 自身が優位に立っていると考えているのか。異形の唇とおぼしき裂け目から、下卑た嗤い声と瘴気が漏れた。
 感覚の鋭敏な者ならば、異質な空気にすでに逃げ出しているか、失神するかしているだろう。しかし、向かいあっている女の表情は少しも変わっていない。
 痺れをきかせて先に沈黙を破ったのは妖だった。尋常ではありえないほど伸びた腕が女に襲いかかる。
 攻撃を軽くかわして間合いをとると、女は素早く周囲に視線を配り、取り出した符を一枚空へ投げた。
「あまねき諸仏に礼したてまつる 月天(がってん)よ 心願成就せしめたまえ」
 空を舞った一枚の符が瞬く間に分かれ、音もなく四方へ散った。光を強くした符からそれぞれ帯状の光が放たれると、女の横顔ををうっすらと照らした。
 鈴に似た共鳴音が耳に響く。月の神への神呪は、術者の望みどおり真四角の結界を張った。
 囲むように形成された結界の中で、妖が悔しげに咆哮する。
「……まずまずかな」
 普段は彼女の相棒が行っている作業だ。
 (あやかし)を見れば、思うように動けずにもがいている。
 少々心もとないけれど、まったくないよりはいいだろう。
 彩華は軽く目を伏せて深呼吸すると、ふたたび目の前の妖に目を向けた。
 いかにして有利にもっていくかも戦略のひとつだ。術者にとって都合の良い場を築くことができれば、それだけ勝利が近くなる。
 とはいえ、まだまだ修行中の術者が生み出した結界がいつまで持つかわからない。早く決着をつけた方がいいだろうと、彩華は意識を集中する。
 印を組みかけた指を止めて、感じた異変に目を見開いた。
 その直後、霊力の檻が激しく振動して火花が()ぜた。妖の爪が空気を大きく切り裂いのだ。
 起きた太刀風が彩華をも襲うが、足に力を入れてそれをやり過ごす。軽い痛みに彩華が顔をしかめると、頬がうっすら切れていた。
 ほんの僅かな血の臭いに煽られた妖の目が爛々と輝いた。くわっと開いた口に、熱を帯びた妖気が集まる。内側から熱が膨張してくるさまは、星が爆発するかのようだ。
「あ、ちょっと!」
 妖の行動に目を剥く。あれをまともにくらったら命の保障がないのは本能で分かる。相手の攻撃に備えて、彩華は神経を尖らせた。
 一点に集約し放たれた妖力が彩華めがけて襲いかかった。
「――くっ」
 反射的に防御の術で衝撃を殺すが避けきれない。彩華は両足を踏ん張るが、ずるずると後退してしまう。
 爆風に耐え切れずに彩華の身体が吹き飛ばされた。
 やがて訪れる激痛が身体を貫く――と思ったが、徐々に速度を落とし、少し強めに背中を打っただけだった。
 咳きこみつつ彩華は目を開けるが、土煙で視界が悪く何も見えない。
 一瞬の閃光が辺りを染め上げ彩華は目を細めた。それでも明るすぎて、逆に真っ暗に感じる。目の痛さに耐え切れず、彩華は瞼を閉じると神経を張り巡らせた。
 姿は見えなくても妖はいる。しかも、背後からも何者かの霊力が伝わってくる。殺気はないが、強い力の持ち主であると一瞬で悟った。
 素早く体勢を整えて次の攻撃に備えなければと重い身体を動かしたが、彩華の予想外の展開を迎えた。――僅かに早く、鎌に似た白刃が彼女の背後から空を切る音をたてて飛んだ。
 それを難なく避けた妖は口元を歪めて嗤う。だが、それも一瞬のこと。突然びくりと硬直して咆哮をあげた。
 刃が反転して返り、その軌道上の妖に突き刺さったのだ。妖の胸の辺りから突き出た白い刃は、瞬く間に光の粒子となってやがて消える。
 鼓膜が破れるほどの怒号が大地を轟かせた。
 闇雲に振り回す妖の尖った爪が地面に突き刺さる。砕けたアスファルトが彩華へと飛ぶが、彼女に触れる寸前で跡形もなく消滅した。
「――嘘」
 驚いたのは彩華だ。咄嗟に結界を張ることもできず、破片が自身へ突き刺さると覚悟していたのに。事態がよく掴めていない様子で、ただ唖然とするばかりだ。
 体に穴を開けた妖は、ぎゃあぎゃあと喚き散らしている。瞬時に体の欠陥を直す異形というのも存在するが、この妖はそこまで高度な技は持っていないのだろう。よく見ると、穴が少しずつ広がっている。
「動き回ると滅するのが早くなるだけだぞ」
 低くよく通る声が聞こえた。
 声のした方へ顔を向けると、彩華の背後にひとりの男が立っていた。
 暗闇で顔は見えない。
 鼻を鳴らして不敵に笑うその男の印象は漆黒。服装だけではない。男の持つ雰囲気は、月が闇に包まれた沈静の夜のようだ。
 霊視しても正体は掴めない。だが、その男は彩華のよく見知った気配を纏っていた。
 今自分がやるべきことをすべて忘れて、ただ呆然としていた。
 何か言わなくては……と言葉を発しようとしたとき、派手な崩壊音が彩華の耳に届いた。
「っと逃げるな」
 男の声に答えるかのように妖の体の一部が音をたてて霧散した。男は全身から立ち上る鬼気を強めて威圧する。
 慌てて振り返ると、妖が結界を破き、ほうほうの体で逃げてゆくのが見えた。
 ――やってしまった。ターゲットの妖を目の前にして逃がすなんて、術者失格だ。なんて失態だ――。
 彩華が額に手をあて呻いていると、黒い影が音もなく近づいた。
「あやか――」
 虚空から降ってきた声に肩を揺らす。どうして名前を知っているのかと尋ねる前に、続いた男の言葉で自分の勘違いだったのだと理解する。
「妖、逃がしたな。追うか?」
「ぇ……あ、ううん。さっきの致命傷だったし、追わなくても消滅すると思う」
 最後に見た妖は、肩のあたりから腕がアスファルトへ落ち、足が砂塵へと変化していく姿だった。その間にも最初に開いた風穴は大きくなっていったのだ。
 内側から命が尽きていくさまを思い出して、彩華は顔をしかめた。じわじわと少しずつ死んでゆくなんて、この先も体験したくない。
 身震いしてから、彩華は男に目を向けた。その目には剣呑な光が宿りつつある。
 しばらく考え込んでいる風の男が、ふいに膝を折って目線をあわせた。
 助けてもらったとはいえ、まだ油断はできない。いつでも反撃できるよう彩華が身構える。
「ここ、痛くないか?」
「え?」
 思いもよらなかった言葉に彩華の力が抜けた。皮膚が薄く切れて血が滲んでいたのを思い出す。
 血を拭おうと伸ばした彩華の右手を男が掴む。胡乱(うろん)な目つきで彩華が見据えると、男は僅かに顔を傾けた。
「――っ」
 生暖かい感覚に、彩華は喉をひきつらせた。頬に触れたのが男の舌だと気づいて顔を赤くする。
「なにするのよ!」
 意気を取り戻した彩華の声に張りが出てきた。
「消毒だ」
 呆然とする彩華を眺めて、楽しげに男が笑う。稚気満々とした口調からは、その内心は読み取れない。
 男が自身の唇についた血を舐めとるように舌を這わせると、彩華の顔が赤みを増した。文句を言いかけるが、言葉が出ずに口をぱくぱくと動かすことしかできないでいる。
「面白い顔だな」
 彩華はわなわなと拳を震わせた。男の正体がわからないまま、いきなり殴りかかる訳にもいかない。代わりに全身に霊力をたぎらせて威嚇するが、それをまったく意にも介さず、男は笑みをこぼした。
「……一応、お礼言っておく。どうもありがとう」
 たしかに頬に纏わりついていた瘴気は綺麗さっぱり消えた。それに、先ほどの異形のこともある。
「どういたしまして。……と言いたいところだが、他人に簡単に血を与えるなんて何を考えている」
 男の目が呆れまじりに語っている。
 術者の力の源は、その者の生命力。術を行使するための気力の大元は、肉体を動かすために全身を巡っている血液だ。
 そのほか、女の髪にも霊力が宿るという。だが彩華はその理由で長く伸ばしている訳ではない。こちらは巫女の仕事があるために必然的に伸ばしている。
 まじないで「おまじないの仕上げにあなたの髪を一本入れましょう」などというものがあるが、あながち間違いではない。力ある者ならば、髪一本、血一滴で何でもできてしまうのだ。
 もっともな意見に言葉を詰まらせた彩華は目を泳がせた。
「いきなりだったんだから仕方ないじゃない」
 見据えられてしどろもどろになりつつも強気に答えた。今も男は異様な雰囲気を持ちあわせている。しかし内部から優しさと親しみを滲ませる男の気配に、自然と身内に対する態度となる。
「……ほーぅ」
 男の声が、急に低さを増した。艶冶な笑みを浮かべるその姿は魔性にも思える。
 一睨みされて、蛇に睨まれた蛙よろしく身を竦ませている彩華は、息をするのも忘れるくらい硬直した。
 身体中の毛穴が開いて震えが走るような感覚に恐怖を覚える。少しでも動いた途端に切り刻まれそうだ。
 目を細めて笑うその表情は、殺戮を楽しむ異形とはまた違った仄暗さを孕んでいた。
「……そんなに怯えるな。傷つくだろう。オレは繊細なんだ」
 優しく触れた指で彩華の髪を梳く。
 静かに何度か梳いていた手が頬へと滑る。そうして離れかけた男の手首を彩華が掴んで引き止めた。
 引き止めたはいいが、何と言っていいかわからない。しばらく無言だった彩華は指に力を込めると、意を決して言葉を紡いだ。
「どうして、あのひとと同じにおいがするの?」
 ドッペルゲンガー。
 そんな単語が脳裏を掠めた。気配だけではなく、街灯の明かりに照らされた男の姿は、黒髪に黒い瞳。顔の造形は双子と言ってもよい。
 まるで、大きな姿見に詠の姿を映したかのようだ。
 見上げる彩華の瞳にはすでに恐怖の色はない。代わりに不安と戸惑いが浮かんでいる。
 男は鋭さを消した柔和な眼差しで見つめ返し、
「さて。オレはこの世に生まれたばかりだから知らないなぁ」
 などとうそぶいた。
「じゃあ、妖? 彼に成り代わろうとするのなら、わたしは命をかけて阻止する」
 月の神を祀る一族の義務ではなくわたしの意志。たとえ敵わなくてもおとなしく引き下がれない――。
 警戒心を露にして彩華は眉間に皺を刻む。それは強い決意を秘めた表情だった。対照的に、男は目元を和ませて彼女の鋭い視線を受け止める。
 しばしの沈黙がその場を支配した。
 やがて何事もなかったかのように柔らかい笑みをたたえた男の顔に、彩華は毒気を抜かれて肩の力を抜いた。
「どう足掻いても偽物は本物にはなれぬよ。安心しろ」
 なおも問いかける彩華の唇を、男は人さし指で軽く押さえて黙らせる。そうして顔を傾けると、ふたたび自身の唇で彼女の頬に触れた。
 何も言わずに振り上げた左手は、やすやすと掴まれてしまった。悔しげに彩華は呻くが、気持ちを切り替えると男へ向かい直る。
 自分をからかって、どこか楽しげだと思っていた男は、軽い口調に反して真摯な視線を投げかけてくる。その理由が朧気ながら見えた気がするが、まだ頭に霧がかかっているようにはっきりとはしない。
 でも……と考えを巡らせる。
 怪異には違いないが彼は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類ではない、と推し量った。それが術者の勘なのか、十数年とはいえ彼と長年連れ添ったからなのかはわからないけれど。
 彩華が掴んだままの腕をそろりと外すと、男は名残惜しそうに一度だけ彼女の髪を撫でた。
「お前、ひとりで帰れるのか? 今はまだ時期が悪いから、オレはあそこへ近づけないんだが」
「子供じゃないから大丈夫よ」
 幾分か強い口調で答える彩華に対して男は喉を鳴らして笑うと立ち上がった。
「そうか。またな、彩」
 優しい声音が耳をくすぐり、彩華は肩を揺らした。
 夜闇に慣れた目は僅かな光でも眩しく感じられる。男の背後にあった街灯が急に光を強くした気がして、一瞬目を閉じた。次に彩華が目を開けたときには、すでに男の姿はない。
 吹いてきた心地よい風に、艶のある彩華の黒髪が揺れる。
 先ほどの不穏な冷気などなかったかのように、澄みきった夜気が辺りを包んでいた。



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