たいじや -鏡の月- 6
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「緋月、いる?」
 言ってから彩華は口を噤んだ。
 用があるときは本殿にいるからいつでも声をかけろ、と言われていたのだから「いるか」と声をかけるのはおかしいのかもしれない。
 自分自身に笑って、その拍子にバランスを崩して持っていた盆を落としそうになる。間一髪でこらえると、彩華はほっと息をついた。中身は無事だ。
 明かり取りの窓が設けてあるとはいえ本殿の中は薄暗い。それに、外よりも幾分か気温が低く感じられる。ひんやりとした空気は、この場所が清浄であると物語っているかのようだ。
 本殿の中央あたりまで進むと、彩華は盆を床に置いて正座する。きょろきょろとしつつ気配を探っていると、風もないのに彼女の目の前で渦が巻いた。白銀に緋色が混じったそれは、やがて回転速度を落としてゆく。光の粒子が螺旋を描きながら舞い上がり、彩華が一度まばたきすると、銀色の仔犬が現れた。
「彩華様。お呼びですか」
 ゆったりとした口調で緋月が言った。
「うん。緋月にね、お菓子買ってきたの。あと、質問があって……」
 彩華が示した方を緋色の瞳で見やり、ふさふさした尾を揺らした。盆に置いてある小皿と湯飲みを見て、人型が適切と判断したのだろう。瞬く間に人型をとった緋月は、彩華と同じように行儀良く座った。
「おいしそうですね」
 と言ってごくりと喉を鳴らした――のは、彩華の気のせいだったかもしれない。耳の下で梳くように切り揃えられた髪が、今はない尻尾の代わりにさらりと揺れた。
「ちょうど三重の物産展やってたの」
 餅が柔らかくて餡子の和菓子。それでいて神に関係した場所の名物はこのくらいしか思いつかなかった。一口サイズの餅を餡で包んだ和菓子は、たぶん緋月の好みであろうと買ってきたのだった。
 柔らかい中にももっちりとした感触は気に入ったらしい。緋月は切れ長の目をさらに細めてもくもくと食べている。
「ごちそうさまでした」
 黒文字楊枝を使って食べ終えた緋月は、口直しに緑茶を啜った。
「もっとあるけど持ってこようか?」
 残りは家族で食べようと思っていたが、元々は彼のために買ってきたのだ。
 彩華の問いかけを緋月は首を横に振って否定した。
「それで質問とは?」
「実はね」
 このあいだの依頼の帰り道で起きたあらましを簡略に述べた。今日は公休日だから、あの日の約束を果たしに行こうと考えていたのであった。
 月詠神社で供えている神饌(しんせん)用の、予備の食器類はある。
 通常は生のまま供えているのだが、調理して供える場合もある。今回は調理した方がいいのだろうかと思い、持ち運びも考えて弁当箱を用意してみた。化学調味料は使わず、奮発して有機食材なども購入した。
 舌の肥えた詠が喜ぶ食事ならば大丈夫という確信が彩華にはある。彼を見ていると、供物は生米よりも炊き立ての白米がいいのだろうと思ってしまうのだ。
 あとは「これが一番おいしい」と言っていた日本酒。あのときの姿に騙されそうだが、神に分類されるものには人間のような年齢はない。酒は神饌には欠かせないものである。
 彩華が気がかりなのは神饌ではなく別のことであった。
 簡易とはいえ神の住まえる場所を作らねばならないのだから、まずその場を清めなければならない。一般的な水で穢れを洗い流そうと考えていたのだけれど、その水は神社の井戸水でよいのかどうか、である。
 月詠神社本殿の横にある井戸は、霊力あらたかな水が湧き出ている。普段この水は神殿の掃除や禊に使用している。だが、大地の気が流れる龍脈と繋がっていると(いわ)れのある霊妙な水を、他の土地へ持って行って問題はないのか。
「前に聞いたときは、不特定多数にばら撒くようなことはするな、って言ってたから、まずいかなって思ってるんだけど。かといって水道水じゃ効果ないだろうし」
 ペットボトルに詰めて売られている天然水も、なんとなく気が引ける。
 不安げな彩華の表情を受けて、緋月は目を伏せて暫くのあいだ思案していた。
「空輪山は今でこそ枯れた山≠ニなっていますが、元々は神霊の働きが濃厚な霊地でしたから。理由もなく山と神社の龍脈を繋げるのはいささか危険なのですが……。あなたとの縁ができた今は、むしろ好都合でしょう」
「空輪山ってそんな霊地だったんだ」
 霊気をまったく感じなかった訳ではないが、彩華は目を見張った。最後に登ったのは、高校時代の友人とのお花見だったろうか。満開の桜で作られた花回廊が見事だったのを思い出した。
 力が弱いとはいえ緑の持つ独特の森気(しんき)はたしかにあった。不浄のモノを一切感じなかったのはそういうことなのか。
 修行不足だなぁ……と口の中で呟いているのを知ってか知らずか、緋月は僅かに目元を和ませた。
「それに大量には使用しないのですから、おかしな影響は出ないと思います」
 危惧していた事態は起きずに済みそうだ。ほっと胸を撫で下ろした彩華は、神妙な面持ちで緋月を見やった。
「あとね、もう一つ。詠の――月詠尊の式って、緋月以外にもいるの?」
 彩華の言葉を聞いた緋月が訝しげに眉を寄せた。
「そのような話は聞いたことがありませんが……なぜです?」
「あー……ちょっと気になることがあって」
「今の状態と何か関係があるのですか?」
 言いよどむ彩華に対して緋月が畳み掛けた。その目には強い感情が篭っている。
 なおも問うてくる相手に、彩華は言葉を返せず困ったように眉根をよせた。
「関係ある、と思う。けど、ごめん。これ以上はわたしもわからない」
 あの男の持つ霊気は月詠尊と同じもの。これは断言できる。ずっと傍にいた気配を間違えるはずがない。だけど、なぜ同じなのかまでは考えがつかない。誰かに「あれは能力をコピーする妖の類だから退治した方がいい」と言われたら、深く考えずにそのまま納得してしまうかもしれない。
 だが、真実を見極めずに先走るのは危険だ。
 確かに感じた霊気は、自然の厳しさに似た荒々しいものだった。とはいうものの、その内側に見えた物柔らかな光を無視することもできない。
 考えが纏まらず自分自身に苛立った彩華は、膝上で揃えていた手に力を込めた。
「すみません。あなたを困らせるつもりは毛頭なかったのですが」
 申し訳なさそうに項垂れる姿がまるで叱られた大型犬のようで、彩華は慌てて頭を振った。
「こっちこそごめん。別に怒ってないから」
 互いに土下座するような勢いで頭を下げると、顔を見合わせてからふたりでひとしきり笑いあう。
 先ほどとは一転した和やかな空気に、彩華は硬くなっていた表情を緩ませる。落ち着いたところで腕時計を確認すると、盆を持って立ち上がった。
「そろそろ行ってくるね」
「私も行きましょうか?」
「――ううん。荷物もそれほどないし、大丈夫」
 一瞬、手伝ってもらおうかとも考えたが、自分の式でもない彼に手間をかけさせるわけにはいかない。
 緋月の申し出を柔らかく断った彩華は本殿を後にした。



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